第6話

(全く、どういうことなのかしら)

 時刻はすでに深夜の零時。草木でさえも眠りこけているようなこの時間、オリヴィアは一人廊下を歩いていた。

 胸元にハートの刺繍が入ったピンクのパジャマはお気に入り。ブラウンのカーディガンは、数日前にカスターニャに出向いた際に購入したものだ。安価だが質がよく温かくて、これもまた気に入っていた。三つ編みを解いた髪を撫で、いらいらとスリッパを鳴らしていた。

(結局何も起こらなかったじゃない)

 起こらなかった。そう、儀式は本当に、ネズミの一匹やってくることなく何もなく、無事にすべてを終えた。ウィリアム・レッドフィールドによる降霊の儀式は見事失敗に終わったのだ。

 なお、ただただ暗闇で蝋燭が溶けていく光景を眺めているウィルが放った言葉がこちらである。

「これ、何もいないんじゃねぇ? 心霊現象とか実は気のせいなんじゃねぇの?」

 オリヴィアは怒った。それはもう、天地が割れるほど憤慨した。怒りの余りバケツの水を思わずウィルの頭にぶちまけた。そんなことあるものか、実際にこのぬいぐるみは夜な夜な歩き回る代物なのだ。彼女の主張に、ウィルは頭からバケツを被ったままこう答えた。

「んまぁ、もしかしたらうまくコンタクト取れなかったという可能性もあるからもう少し探ってみるか。そういえば飯いつ? 腹減ったんだけど」

 オリヴィアはバケツを被った彼の頭の上から更に椅子を叩きつけた。

 オリヴィアは後悔した。わざわざあんな田舎町まで出向いてエクソシストを捕まえたと思いきや、グラサンを掛けたただの若者。失敗した。完全に間違えたと感じていた。

 しかし、そんな人間を探し出し泣き落としする形で半ば無理やり連れてきてしまったのは彼女だ。彼女には、そんな人間を選び連れてきてしまったという責任がある。

(もし数日で何も成果が得られなかったら申し訳ないけど帰ってもらわないと。でも)

『これ、何もいないんじゃねぇ? 心霊現象とか実は気のせいなんじゃねぇの?』

 バケツを被った彼の台詞を思い出し、奥歯をギリリと噛みしめる。

(そんなわけないわ。あいつに、この怪現象が真実であると認めさせてやらないと)

 ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら行き着いたのは姉の部屋だ。蝋燭もナイフもバケツの水も全て片付けた。妙なものなど何もない、いつも通りの姉の部屋。丁寧に整頓されたベッドの上には茶色いクマが行儀よく座っていて、主の帰りを待っている。窓から降り注ぐ月の光が怪しく照らし出していた。ただのクマのはずなのに、それだけでとても不気味に見えた。

 オリヴィアは恐怖心と共にごくりと唾を飲み込むと、スリッパの底を引きずるように恐る恐る足を踏み出した。手を伸ばし、それを戻し、再び伸ばしゆっくりとクマを抱き上げる。可愛らしい顔だ。人形には作り手と持ち主二人分の心が宿ると言われている。大切に作られ大切にされてきた人形は、見ただけで幸せな人生を歩んできたということがわかる表情をしていた。人に害を加えるような呪いの人形には決して見えない。そう、決して。

 手触りのよいふさふさの顔を軽く撫で、リボンを引っ張り、ひとしきり構ったあと元の位置にゆっくりと戻した。ただのクマ。ただのぬいぐるみ。なんの変哲もないその姿にほっとすると同時に、恐怖を持つ。どういうことなのだろうか。つい先日まで、あれほど奇怪な行動を見せていたというのに。まさか、彼の言う通り本当になにもなかったのだろうか。奇妙な音も奇怪な現象もただの幻であり全て彼女の思い込みだったのだろうか。これは本当にただのぬいぐるみで、おかしいことなど何もなかったのだろうか。

 だとすれば、そうすればおかしいのは――

「……私の頭?」

「おい」

「きゃっ……!」

 唐突に肩に触れられ、オリヴィアは叫び声を上げた。

 思わず後ろを振り向くと、そこにいたのは真夜中に不釣り合いなサングラス。彼女がわざわざ遠方から呼んできたエクソシスト、ウィリアム・レッドフィールドであった。

「やだ、あなた何して……」

「何って、仕事だろ」

「……こんな夜中に?」

「夜中だからだろうが」

 ふああ、とひとつ欠伸を落とし、責めるような視線をオリヴィアに向けた。昼間見たジャケットではなく白いシャツにグレイのパンツという、ひどくシンプルな恰好をしている。しかし、暗闇にサングラスとはひどく滑稽な組み合わせだ。彼女がその感情を言葉にする前に、ウィルは欠伸交じりにこう言った。

「夜っていうのは悪魔のフィールドなんだよ。あいつらは基本的に夜行性だから、夜の方が活動がしやすいわけ。わかる?」

 ちっちっちっと人差指を振りながら偉そうにうんちくを述べる彼に、オリヴィアは頬を膨らませた。

「わかってるわよそれくらい。だからこんな夜遅く、こんな時間にわざわざこんなところに来てるんでしょう」

「ほー、流石お嬢様は違いまちゅね~伊達に人の頭にバケツごと水ぶっかけたりなんかしませんわね~」

「このっ……」

「あだっ」

 挑発に乗り、思わず彼の背中を平手で叩く。対して痛くもないような声を上げて叩かれた場所を摩りながら、彼は言った。

「で、なんか手がかりはあったわけ」

 言葉はなくとも、唇を噛み俯く彼女の様子を見れば一目瞭然だ。ウィルは口元に手を当て、ぷくくと笑い声を上げた。

「だっせー」

「……うるさい」

 恥ずかしさを隠すようにして睨みつけ、続ける。

「あなたこそ、なにか収穫はあったの?」

「あったよ」

「やっぱりね……て、え?」

 思わぬ回答に、オリヴィアはぱしぱしと睫毛を瞬かせた。

 連れていかれたのは一階。バスルーム、ラウンジ、食堂を抜け、空き部屋を三つ通り過ぎた一番奥の道具置き場。使っていない机や椅子が散乱しネズミの住処と化したその場所。埃だらけの箪笥の真横の壁に、何かが突き破ったような穴が存在していた。

「見てみろよこれ」

 言われるがまま中を覗くと、うっすらと何かが見える。が、よくわからない。ウィルがポケットから出したライターをつけることにより、それが何なのかはっきりとする。階段である。この家の下にある何かに続く、階段だ。

「さっき見つけたんだ。大方、この家の誰かが掃除中にうっかり穴でも空けちまったんだろ」

 得意げにそう言うウィルに、オリヴィアはいくらか関心をする。

「どうしてこれを見つけたの?」

 オリヴィアの素朴な問いかけに、ウィルはいくらか居心地悪そうに頬を掻いた。

「……腹が減って」

「……は?」

「食堂からパンを拝借しようと思って。そしたらさ。開けっ放しの窓から入り込んできた野良猫がパンをパクリと」

「……あなた、そんなことしているの?」

「なぁ、窓くらいちゃんと閉めとけっつうんだよなぁ」

「……」

 そういうわけではないんだけど、と心の中で呟いて、頭を振った。そして切り替える。

「これ、階段でしょう?」

「少なくとも食事パンには見えねぇな」

「当たり前でしょう……ねぇ、これはなんなの?」

「階段だろ?」

「そうだけど、そうじゃなくて。ここ、一階よ」

「……階段だろ?」

「……地下室に続く?」

「上に続いているようには見えねぇな」

 ライターを近づけるついでに、指先でばりばりと穴を広げた。だが、そんなことをこの家の住人であるオリヴィアが許すはずもない。ぐい、と彼の肩を引っ張ると、

「ちょっと、やめてよ。家を壊さないで」

「壊さないでって、この階段がなんなのか気になるだろうが」

「そうだけど……やっぱり駄目よ、こんなことポーレットに見つかったら大目玉だわ」

「大目玉もなにも、俺が見つけたときにはすでに空いてたわこんな穴」

「でも、今の状況じゃあ間違いなく犯人はあなたよ。もし何か聞かれたら、私は穴を空けた犯人はあなたですって言わなきゃいけなくなるわ」

「俺は殺人事件の犯人かよ」

「それに、庭師のジャクソンさんてとても怖いの。あなたなんか片手でひょいよ。頭を鈍器でカチ割られるわ」

「鈍器持ってんのか? 庭師が鈍器持ってんのか?」

 鈍器を持って殴るジェスチャーをするオリヴィアをサングラスの奥から眺めながら、ウィル。だがその手は動き事をやめないで、ばりばりと板を削っている。オリヴィアはそんな彼の腕を掴み、全力で引っ張った。

「やめて!」

「馬鹿、引っ張るなって!」

「あなたがやめないから!」

「うるせぇよ、暴れんなって……うわっ!」

「きゃっ!」

 オリヴィアの腕を振りほどいた反動で、ウィルはぐらりと体勢を崩した。そのまま穴の開いた壁に衝突し、大きく穴を開く形で階段の下に落下する。無論、自身の腕を掴んだオリヴィアも道連れにして。

 落ちていく感覚は一瞬にして永遠だ。いつまでも続いていくかのような恐怖に包まれ、その瞬間オリヴィアの心は間違いなく死んでいた。ガゴガコという衝撃音が終わった時、この静寂は天界に到着した証であると錯覚をしたくらいだ。実際そこは天界などではなく、死を司る神がいるわけでも天使がふわふわ浮いているわけでもない。彼女がいたのは階段の真下。更に言えば埃被った地下室で、ウィルの胸元に思い切り鼻を押し付ける形で彼女はいた。

 自分の体がウィルを押し倒していることに気が付いて、悲鳴を上げて退ける。

「変態!」

「どっちが変態なんだよ!」

 オリヴィアに負けず、ウィルも後頭部を押さえながら上半身を起き上がらせ、叫んだ。

「あー、くそ……階段、コンクリートじゃねぇか……クソ痛ぇわボケ殺すぞ」

「あなた、口が悪すぎるわ……て、あれ?」

「あ?」

 口汚く罵りながら呟くウィルを見て、オリヴィアは驚いた。彼の顔に、サングラスが掛けられていなかったことを。昼だろうが夜だろうがお構いなく彼の顔半分を覆っていたサングラスが、彼女の足元に転がっているということに。そして――

「あなた……目が、赤いのね」

 そこに隠されていた彼の瞳が、とても美しい紅だったということに。

 この地域に限らず、赤い瞳というのは珍しい。ブラウン、もしくは黒が支流で、青い瞳が一割ほど。物語の中ならばいくらでも見たことがあるが、実物を見たのは初めてであった。

「お洒落かしら……カラーコンタクト?」

 上半身を起き上がらせた状態で座り込んでいる彼の両脇に手を付いて、しげしげとそれを覗き込んだ。綺麗だ。眩いばかりの昼の太陽というよりも、一日の終焉を教える夕焼けの色によく似ていた。けれどそれよりもずっと濃くて、高級なワインか、もしくは指先から零れ落ちる血液の一滴。

「違う、自前」

 興味深げに顔を近づけてくる彼女から顔の動きだけで距離を取り、ウィルは答えた。が、オリヴィアはそんなことなど気にもしない。距離を取られた分だけ距離を詰め、はぁ、と恍惚のため息を吐いた。

「そう。初めて見たわ、赤い瞳なんて」

「だろうな」

「どうして隠しているの?そんな綺麗な瞳なのに。隠すなんて勿体ないわ」

 悩まし気にため息を吐くオリヴィアから顔を逸らし、ウィルはごそごそと手で床を探りサングラスを引き寄せた。

「面倒なんだよ色々と。珍しいってことは、それだけで好奇の対象になる」

「エクソシストの癖に? 馬鹿ね、今更すぎるわ」

「うるせーわ。早く退けよ。重いんだよ」

「……あなたって本当にデリカシーがないのね。可哀そうだわ」

 終焉の赤を隠してしまった彼の顔には、もはや興味はないらしい。

 オリヴィアは全く残念であるというような表情で彼の上から退却し、部屋全体を見回した。それは、サングラスで顔半分を隠した彼も同様である。

 地下室である。階段の真下は彼らが突き破った大穴のおかげでなんとか視界が見える程度に光が差し込んでいるのだが、それもほんの一部分だけ。一メートル先は全く見えず、足元に何があるのかもわからない。

 そこで登場したのがウィルのライターである。彼はズボンのポケットから取り出し、ぽっ、と火をつけた。オリヴィアはその色にウィルの瞳を思い出すのだが、彼が煙草を吸い始めたことによりげんなりと肩を落とした。

「なんだよ」

「なんでもないわ……」

 一面を見渡す彼女の横顔を眺めながら、ウィルは床に転がっていたランプを拾い上げた。傷だらけで錆びついているが、幸運にも蝋の部分は残っている。ライターから移した炎は勝利を勝ち取ったとばかりに神々しいほどに辺りを照らした。

「……うちの地下に、こんな部屋があるなんて知らなかったわ」

 明確になった視界の中、今まで見たことのない景色に圧倒され驚愕の声を漏らすオリヴィアに同意した。

「だろうね」

 そこに置かれていたのは、拷問器具の数々であった。

 多数の針が上向きに設置された鉄の椅子。巨大な鎌。鉄でできた巨大なマリア像の人形は中が空洞になっていて、いくたの針がつけられている。壁には様々な刃物類がまるで芸術品のように飾られて、中心に置いてあるテーブルの上には上部にハンドルの付いた鉄製のヘルメットが置かれていた。

「なぁ、昔からここに住んでるのか?」

 鉄製の梨のオブジェのような器具を手に取りしげしげと眺めながら、ウィルは問いかけた。それがなんなのかわからずとも、何かしら不穏なものを感じたらしいオリヴィアは彼の後ろにしっかりと隠れ、こう答えた。

「違うわ。元々は東の……ぺルテヴィウス市に住んでいたの。でも、会社が発展して、お姉ちゃんの体調もよくなくて……だからホークウッドに越してきたの。ぺルテヴィウスは工業都市で、空気があまりよくないから……古い家を土地ごと買って、そこからリフォームしたの」

「それ、何年くらい前?」

「私たちが学校に入る頃だから……もう、十年以上前よ。中心からは少し遠いけど、ここは空気もいいし緑も豊富で。いい病院も近いから、お姉ちゃんもきっと喜ぶだろうって」

「ふーん」

 ウィルは両端がフォークのようになっている巨大な器具を手に取ると、パッとしない返事を返した。かなり古い――ところどころ錆ついて、埃どころか蜘蛛の巣さえも張っていた。初めて見る道具に興味津々になっていると、突如後ろから、オリヴィアが悲鳴を上げながら抱き付いてきた。

「なに、どうかしたの」

「……あそこ、なにか……」

 ぶるぶると震えるオリヴィアを背中に貼り付けたまま、彼女の指先が示す方向に顔を向ける。そして、脱力した。

「ただのゴキブリだろ」

 彼の言う通り、部屋の端、蜘蛛の巣の張り巡らされた甲冑の横には黒いゴキブリ。カサカサと来客を歓迎するかのように触角を震わす黒い悪魔にオリヴィアは一瞬安堵して、それから再び悲鳴を上げた。

 ゴキブリの影が遠く離れるまでウィルの背中に額をくっつけ、漸くの事顔を上げた。そして、見たこともない金属製の道具が目に入り、首を傾げた。

「ねぇ、それ何? なんの道具?」

「あー……拷問器具?」

「……なんでそんなものがあるの?」

「俺が知るかよ」

「エクソシストでしょう?」

「俺はエクソシストじゃねぇし、この家の住人が知らないことを俺が知る訳ないだろ! いいか――この牛のオブジェは中が空洞になっていて罪人を中に――」

 ガコン!

 彼の言葉を遮るように響いた落下音に、二人の動きが止まる。

 ウィルではない。梨のオブジェは落ちることなく彼の手の中に存在をするし、牛のオブジェは彼から数メートル離れた場所に存在するので手は愚か足の先さえも触れることはままならない。オリヴィアでもない。彼女はウィルの手にしがみついたまま震えていて、持つものは何もないからだ。蹴飛ばしたのか、と言われれば、物音は彼女の足元ではなく全く別方向から聞こえてくる。

 音は止まらない。ガタゴト、ガタゴトガタ。小さな生き物が暴れている様を想像させるその音は、空気を伝い、オリヴィアの恐怖心を直接刺激し震わせた。

「ねぇ……何?何の音?」

「しっ、静かに……」

 背中にオリヴィアを引っ付けたまま、物音の方向に近づいていく。足音を立てぬよう、慎重に。ウィルの手の中にあるライターの炎が揺れて、その姿を映し出す。壊れかけた掛け時計の影。片方だけ車輪の捥げた乳母車の隣。それはひょこひょこと真ん丸の尻尾を揺らし、ダストボックスの中に首を突っ込んでいた。傍から見れば綿あめがふわふわしているだけのような光景に、オリヴィアが思わず目を見開く。

 ウィルは無言でそのふわふわの後ろに近寄ると、思い切り足を鷲掴みし、引っこ抜いた。

「ぎゃ!」

 これはオリヴィアの悲鳴ではない。無論、ウィルですらもない。ウィルはサングラス越しでもわかる程度の半眼で、そのふわふわの正体を眺めていた。

 それはウサギであった。白く、ふわふわの、上等な毛皮を持ったウサギ。ただし、ぬいぐるみ。

 右耳にピンクのリボンを付けたそのウサギはじたばたと全身をばたつかせ、それからぐるり! と普通の生物ではありえないような首の動きをした。具体的に言うと、ウサギの顔が180度回転したのだ。背中に顔がついているような状態のウサギの顔に、オリヴィアが口に手を当てたまま固まる。

 ウィルはというと、ウサギの足を掴み逆さまに吊るしたまま、ビーズでできた円らな瞳を凝視していた。じっと見て、見て、見て――

「……とうっ!」

 先に行動を起こしたのはウサギであった。

 綿でできているはずのぬいぐるみのウサギは華麗にウィルの顔面に拳を――いや、違う、耳――ふわふわの柔らかい生地でできている長い耳をまるで拳の様にして――叩きこんだ。ウィルの拘束から逃げ出したウサギは空中で華麗に一回転をし、着地をする。そしてこちらにそのまん丸い右手を向け(恐らく指しているつもりなのだろうが)言ったのだ。

「何するの! レディに向かって、男っていうのはこれだから……本当に礼儀がなってないんだから!」

 ぷりぷりと怒ったような口調で文句を述べるウサギ。レディ、らしい。ぬいぐるみの性別などウィルには理解ができないが、本人がいうのならばそうなのだろう。確かに、耳につけられたピンクのリボンは身なりに気を使う女性のものだ。

「うさぎが、しゃべっ……」

 驚愕のあまりぱくぱくと口を開くオリヴィア。ウィルは大の字の状態で床に転がったまま、

「何言ってんだ。お前、動く人形なんか散々見てるんだろ」

「そ、そうだけど……」

「第一人形とかぬいぐるみとかは、魂が宿りやすいんだよ。もしかして、これお前が言ってたウサギのぬいぐるみとやらじゃねぇの?」

 よろよろと上半身を起き上がらせて示されるウィルの指先。そこには「ヒトに指を指すなんて!」とぷりぷり耳を振り回している古いウサギ。白い毛皮。ピンクのリボン。どこかで見たことがある。そう、これは――

「……プリンセス・トルタ!」

「うご!」

 立ち上がりかけたウィルを蹴飛ばして、オリヴィアはウサギに駆け寄った。

「そうよね……? わたしの親友、プリンセス・トルタ!」

 薄汚れぼろぼろになっている白い毛皮を撫で、抱きしめる。

 ウサギに殴られオリヴィアに蹴られ、少しばかりボロボロになったウィルは足跡の付いた腰の辺りを撫でながら立ち上がった。

「なんだよそのプリンセス・トルタっつうのは」

「この子の名前よ。生まれたときに買ってもらって、それから一緒に名前をつけたの。お姉ちゃんがラミントン、この子がプリンセス・トルタ」

「プリンセス・トルタ……」

 出合い頭に顔面に拳を叩きこんでくるプリンセスがどこにいるよ、という彼の心の呟きは漏れることはなかったのだが、敏感なウサギは彼の感情を言葉として感じ取ることに成功をしたらしい。

 オリヴィアの腕の中からなんとも不穏なオーラを飛ばしてくるのだが、オリヴィアがそれに気が付くはずもない。

 彼女はぎゅうぎゅうに抱きしめていたウサギを床に下ろすと、

「ごめんなさいね……わたし、あなたにひどいことしたわ。何年も何年も放っておいて、寂しい思いをしたでしょう?」

 オリヴィアの謝罪に、ウサギは軽く頭を擡げた。そして、長い耳を腕組みのように交差させると、

「本当よ! 暗いし、寒いし、誰もいないし……あんなに大切にしていたくせに、すぐに忘れちゃうんだから人間って! 本当に自分勝手!」

 ぷん、と頬を膨らませそっぽを向くウサギの怒りに、オリヴィアは寂し気に眉を落とした。確かにそうだ。あれだけかわいい、大好き、大事にするなどと言っておいて、すっかり忘れ去ってしまう。人間とは、なんとも薄情な生き物なのだろう。差し出した指先を伸ばすことができず、そっ、と手の平にしまい込む。敏感なウサギは何かを感じ取ったのだろう、ふるふると耳を奮わせて、ビーズの目からぼろぼろと涙を零し始めた。

「で……でも、ちゃんと覚えててくれたから、許してあげる!」

 そして、差し出されたオリヴィアの腕に飛び込んだ。

 感動の再会に涙を浮かべながら抱きしめあう一人と一匹の少し後ろ。ウィルは完全に蚊帳の外にいた。

 テーブルに腰かけ血の付いた巨大なノコギリを手に取り意味もなくがしょんがしょんと動かしながら、

「忘れられた腹いせにこいつの夢枕に立ってストーカー行為してたってことか」

 まさかの可能性に、オリヴィアは驚いたように目を見開いた。が、プリンセス・トルタはオリヴィアにしがみついたままぶるぶると耳を大きく振り回し、

「違うわ! それは、わたしじゃないもの!」

「でもお前、そいつのこと恨んでただろ?」

 ノコギリから目を逸らさずに発せられたウィルの問いかけに、プリンセス・トルタが耳を震わせる。

「ちょ、ちょっとは嫌だと思ったけど……で、でも! わたしそんなことしてないもん!」

「嘘こけ。お前、嫌がらせにこいつの姉貴のぬいぐるみ動かしたりしてただろ」

「してない! だって、わたし、もう何年もこの地下室から出てないし……それに! わたしをここに閉じ込めたの、ラミントンなんだから!」

 全力で無実を訴えるウサギに、オリヴィアが抱きしめる手を緩める。赤いビーズの瞳を見つめると、

「どういうことなの?」

 ウサギは、しょぼん、と眉を寄せるかのように耳を垂らした。

「……ラミントンに閉じ込められたの。ある日突然、この部屋に落とされて、閉じ込められて」

「そんな……」

「で、でも違うの! あれはラミントンじゃないわ! ラミントンは、優しくて、思いやりがあって……そんなことしないもの! あれはラミントンだけど、ラミントンじゃないの!」

「どういうことだよ」

 使い道のわからないガラクタを振り回すウィルに、ウサギが再び殺気を飛ばした。どうやら彼は、このふわふわのプリンセスにお気に召してはいただけなかったらしい。

「あいつよ……あいつのせい。ラミントンがおかしくなったのも、全部全部あいつが悪いの!」

「落ち着いて。あいつって誰?」

 頬を撫でるオリヴィアの指先に体重を預け、甘えるような仕草を取る。そして、

「わかんないよ。黒くて、大きくて、尻尾があって、口が大きくて、爪がすっごい長くて怖くて……悪魔! そう、悪魔みたいな!」

 その単語に反応に反応し、ウィルはガラクタを振り回すことをやめる。

「悪魔……?」

「わかんない! でも、あれは悪魔よ! あれは間違いなく……そう、悪魔に違いないわ!」

 耳を拳の様に丸めて力強く断言をするウサギ。ウィルはそこで漸くテーブルから腰を下ろし、刃物を置いた。

「おい、それはどういう――」

 彼の言葉は、天上から聞こえてきた雑音により中断を余儀なくされる。こんな大きなお屋敷だ、真夜中に十数人もの人間が一気に活動を始めれば否が応にも、人の気配を感じてしまう。

 何が起きているのかはわからない。が、騒ぎになっていることは確実らしい。天井からはバタバタという足音が響き、また、誰かを呼ぶような声も聞こえてくる。

「……なんの騒ぎだ? 避難訓練でもしてるのか?」

「……そんな予定はどこにもなかったと思うんだけれど」

 ぎしぎしと揺れる天井から埃が舞い降り、オリヴィアはそれから守るようにしてプリンセス・トルタを抱きしめた。聞こえてくるのは足音、怒鳴り声、絶叫、そして――

「……お前呼ばれてねぇ?」

 うっすらと聞こえてきた人名に応答するかのように、オリヴィアの表情が陰りを帯びる。彼女もまた、この家に起こっているであろう不穏な何かを感じ取っているらしい。

「……上がるしかねぇかな」

 彼の提案に、オリヴィアは決して乗る気ではないようだったのだけれど。

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