第9話
オリヴィアが無意識のうちに決めているルールの一つに、「朝起きてすぐにカーテンを開けること」という項目がある。
夜更かしが祟ったのだろう、いつもなら太陽が上がるとほぼ同時に起き上がるのに、彼女が目を覚ましたのは日が差してからすでに4時間ほど経過したあとであった。腫れぼったい目を擦りながらカーテンを開くと、まず見えるのは時計台。眩しさに目を細めて俯くと、窓の下に車が止まっているのが見えた。何事かと眺めていたら、玄関からひどく緩慢な様子で皮ジャケットの男が出てきたことにより、彼女の頭は覚醒する。寝巻にカーディガンを羽織り、枕元に寝かせていたプリンセス・トルタを引っ掴んで、慌ただしく部屋を出た。あまりにもバタバタとスリッパを鳴らすものだから、途中ポーレットに「お嬢様! なんですかそんな恰好で! 年頃の女性がはしたない!」と怒鳴られた。
使用人達への挨拶もそこそこに玄関へ飛び出した。客の出迎え様に用意された車は相変わらずピカピカであり、腕の良い運転手がそのガラスを更にピカピカに磨いていた。ロマンスグレーが魅力的な、背の高い初老の男だ。
「スティーブン」
オリヴィアの呼びかけに、スティーブンはひょいと手を止めて振り向いた。それから数歩彼女に近寄り、腰を折った。
「おはようございますお嬢様。今日は誠に天気が良く、お散歩日和ですねぇ」
スティーブンが父に買われている理由は三つ。まずは運転の腕。次にこの家に努めている二十年という長い年数。最後に、何よりもその人柄だ。穏やかで温厚。誰かの失敗や悪戯にも決して声を荒げることをせず、ただただ優しく諭す。気性が激しいフリッツやそれに加え声も大きいポーレットに対し、オリヴィアや姉のシルヴィアにとって安らげる場所になっていたのは確かだった。
「彼は?」
「彼? ああ、お客様でしたらあちらに」
さっ、と優雅な動作で指示られた先。緑がきらきらと生い茂った木の根元。小さな猫に戯れながら、彼はいた。
安堵の気持ちで胸を小さく上下して、オリヴィアは大股で彼の後ろに近寄った。そして、気配を悟られる前にプリンセス・トルタで思い切り背中を叩いた。
「いてっ」
「きゃあっ!」
上がった二つの悲鳴――片方がプリンセス・トルタである――に、車の向こうからスティーブンが不思議そうな顔を向けた。が、すぐにオリヴィアがウィルを叩いた音だとわかったのだろう。
スティーブンの鼻歌を背中で聞きながら、オリヴィアは腰に手を当てて言った。
「あなた、いいの?」
「何がだよ」
「だって、完全にお株奪われちゃってるでしょう?」
オリヴィアの問いかけに、ウィルはひょい、と猫を抱き上げた。白と黒の、まるで牛のような柄をした子猫だ。決して繊細とは言えない造形の指先でちょいちょいと猫の顎を擽り、
「別にいいよ。ちゃんと金貰ったし」
「あなた、ただの役立たずだと思われてるわよ?」
「別にいいよ。実際、大して役に立ってないだろ? 俺なんて」
なぁ?などと言いながら子猫の顔を覗き込むウィルには、エクソシストとしての威厳もプライドさえも見当たらない。
オリヴィアは軽く額に手を当ててため息をつくと
「シャルルを連れてきたのは私の父が悪かったわ。ごめんなさい、気が付かなかったの。まさかこんなタイミングで会うなんて……」
「浮気相手とのデートに鉢合わせしたみたいだよなぁ」
「茶化さないで……だから駄目よ。私も協力するから」
真剣な面持ちで訴えるオリヴィアの瞳。ウィルは対して興味もなさそうに眺めると、うにゃうにゃと猫の腹を擽り始めた。
「別にいいって。大体お前、なんでそんなに一生懸命になってるんだよ。いいだろ? お前の目的はこの家に憑りついてる悪魔を追い祓うことだったんだから」
「そうだけど……」
「どうしてそんなになってるわけ」
ごろごろとウィルに甘える牛柄の猫。あまりにも平和な光景に戸惑いつつ、オリヴィアは答えた。
「だって……悔しいじゃない。あなただって腕のあるエクソシストなんでしょう? わたしだって、折角カスターニャ市まで出向いて、腕の立つエクソシストを探してきたの。色んなところを歩いて、色んな人に聞いて……途中、変な人に絡まれたり汽車を乗り間違えたりして大変だったわ。あなたが駄目な人間だと思われたら、私まで駄目だと思われているようなものじゃない。それに……」
オリヴィアは、乱れたカーディガンを軽く直すと、なんとも言いにくそうに呟いた。
「わたし、どうしても信じられないの。たったあれだけで、悪魔が祓えただなんて」
ウィルはサングラス越しにちらりとこちらに視線を向けて、猫の腹を撫であげた。なんとも人好きのする猫だ。首輪をしていないので恐らく野良猫なのだろうが、ひどく愛嬌のある社交的な猫であるとオリヴィアは感じた。
「俺は、ワイングラスを割ることすらできなかったけどな」
「そうだけど……」
「ま、俺は帰るさ。汽車の切符も貰ったことだし。使わないとあんたの親父に申し訳ないだろ」
ウィルは猫の頭を軽く撫でると、遊びは終わりだとばかりに立ち上がった。牛柄の子猫はまだ物足りなそうに彼の足元をうろついてたが、もう相手にしてもらえないのがわかったのだろう。未練たらしく何度か後ろを振り向きつつも、さっと庭園の向こうに去っていった。
「……寂しい?」
「なっ……」
「今のお前、あの猫と同じ顔してるわ」
「えっ」
思わぬ指摘に、ぺたぺたと顔を触り確認する。と、サングラスの彼は腹を抱えて笑い出した。完全に馬鹿にされた――迂闊にも引っかかったと気が付いて、怒りで顔を紅潮させる。
「もうっ」
バシバシとプリンセス・トルタをぶつけるたび、なぜか嬉しそうな顔をするウィル。プリンセス・トルタは今にも喚きだしそうな表情をしているというのに、もしかして彼は被虐趣味があるのだろうかと訝しる。幾度目の攻撃のあと、彼はぱしりとうさ耳を握りしめた。
「これ貰ってくわ。迷惑料っつうか、交通費代わり」
「ちょっと……」
「今回いいところ見せられなかった代わりに、ちゃんとお祓いしといてやるよ。成功したら送ってやるよ。着払いでな」
ぶるんぶるんとウサギを振り回しながら彼が行く先には、すでに窓磨きを終えた運転手がドアを開けた状態でスタンバイをしていた。軽い足取りでステップを踏む彼に声をかけ、着席したことを見届けてドアを閉めた。ぺこりとオリヴィアに一礼し、運転席に向かうスティーブンのなんとも優雅なことだろう。
遠くなるエンジン音。後ろのフロントガラス部分から、涙目の白ウサギがなんとも悲しそうにこちらに助けを求めていた。
車が庭園の向こうに消え、丘を下って、漸く姿が消えた頃。やってきたのはシャルルであった。
「こんなところにいらっしゃったのですか、オリヴィアさん。探しましたよ」
好青年然としたその口調。つい先ほどまで話していた彼との違いに戸惑いならも、答えた。
「ええ。彼の、Mr.レッドフィールドの見送りをしていまして」
オリヴィアの口から出たその名前に、シャルルの美しい眉が少しばかり形を変えてしまったのは見間違いではないだろう。彼は、ああ、と呟きながら腕を組むと
「そうですか。彼には申し訳ないことをしてしまいました……けれど、今回の事件は、彼には少し荷が重かったでしょう。これもまた一つの勉強です。経験を積むことにより、彼もまた立派なエクソシストになってくれることでしょう」
ぽん、とさり気なく肩に置かれた彼の手の平。普通の女性だったのならば喜んで彼の胸元に凭れるところなのだろうが、生憎今のオリヴィアは、シャルルの胸の温かさよりもぬいぐるみの喪失感と知らない男性に触れられるという嫌悪感の方が強かった。
何気ない動作でシャルルから離れ、姉の部屋に逃げ込んだ。まだ昨夜の儀式の様子が色濃く残る姉の部屋。細かく文字の描かれた魔法陣も溶けかけの蝋燭もそのまま。ワインは零れたまま床に放置され染みになっているし、椅子でさえもごろりと横に転がっていた。唯一クマだけが綺麗に整頓されたベッドの上に座っている。行儀よく。まるで何事もなかったかのように。
膝の上に乗せて眺めてみると、ワインの染みがついていた。元々、丁寧で物持ちのよい姉の私物だ。つい数時間前までこんな汚れなどなかったはずなのに。大方、昨晩の行事でついたのだろう。
ぐりぐりと耳をいじり、頬を撫で、リボンを引っ張る。窓の外からカタンという物音がしたので振り向くと、サングラスの彼が遊んでいた牛柄の猫がこちらを見ていた。
はぁ、と安堵の息を漏らし、そのまま転がった。クマのぬいぐるみは、光り輝く美しい瞳でこちらを見ていた。
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