第3話
数日前に住居者が夜逃げしたとされるその部屋には、まだ荷物が数多く残されていた。
まだそれほど古くはなっていないオフィスデスク。引き出しの中には使いかけのノート、ペン、そして依頼人のものと推測される個人情報。冷蔵庫を開けると食べかけのパンやチーズ、バターが顔を出すので、本当に着の身着のまま財布だけを持って出て行ったのだろう。封も開けられていないインスタントコーヒーすらも置いていくとは、なんとも勿体ないことをする。
「コーヒーでいいだろ?」
などという彼の手はすでに二人分のコーヒーを淹れているのだけれど。
返事がないということは肯定だろうと推測し、大人しくソファで座っている彼女の前にそれを置いた。勿論、スティックタイプの砂糖とミルクをソーサーに添えて。
「エマリエル家ってあれか? ここ十数年で急激に力をつけてきた貿易会社」
大人の香りをぶち壊すようにして、砂糖とミルクをたっぷりニつずつ入れる。コーヒーは好きだが、苦すぎるのは好きではない。こういう緊張感のある場では、特に。
「当主のエマリエル氏は苦労に苦労を重ね、一代で財を築いたと聞いている。俺には到底真似できねぇな。尊敬するわ」
一口飲み、彼女の動きを眺めながら、意味もなく更に砂糖をもう一本追加する。そして口に含み後悔する。入れすぎたと。
彼女――オリヴィア・エマリエルは深く揺れるコーヒーの渦に視線を落したまま動かない。涙はもうない。カップの脇に置いてあるハンカチに全て吸い取られてしまったから。
目が回るほどコーヒーの渦を眺めたあと、彼女はゆっくり口を開いた。
「……私に、双子の姉がいたことをご存じですか?」
彼女の問いかけに、ウィルは脳内を探る。
「ああ、そういえば。娘が二人いて、上の娘が病気がちで……」
「……その子が一昨年の冬に亡くなったというのは?」
「……」
無言で眉を寄せ、足を組む。その行動だけで彼の意思をくみ取った彼女は、話を続けた。
「姉は昔から体が弱く、床に伏せる生活をしていました。それでもなんとか元気だったんですけど、秋ごろに急に体調を崩して……色々な療法を試したんですけど、うまくいかなくて」
「それでどうして俺の所へ?」
その問いかけに、オリヴィアは少し迷うようなそぶりを見せた。
「……変なことが起きるようになったんです」
「変なこと?」
「はい」
殆ど傷のない彼女の手。働くことを知らない綺麗なそれが握られて、スカートに皺を作る。
「姉の大切にしていた人形があって……」
「人形?」
「はい。昔、私と姉が生まれたときに両親に貰ったぬいぐるみです。私がウサギの、姉がクマの。お互い名前を付けて可愛がっていたんですけど、私のものはどこかにいってしまって」
「子供にはよくあることだな」
「でも、姉はそれをずっと大切にしていたんです。体調がよくなくてベッドから起き上がれないときは、ずっとそれに話しかけたり、出掛けるときは必ず持ち歩いたりとか」
「それがなにか?」
そこで空白。電球が切れかけだということはそこで初めて気が付いた。点灯を繰り返し、不規則なリズムで影を作る。
「……見られているような気がするんです、人形に」
チカッ――
まるでタイミングを計ったかのように消えた白熱球に、ウィルは顔を顰めた。
「姉の死後、一人で部屋に籠っていると誰かに見られているような気がして、振り向くとそこにいたり……」
「誰かそこに置いたんじゃないか?」
「姉の人形は常に姉の部屋にあって、誰もそこから持ち出したりなんかしません! あと、夜トイレに起きると、後ろからついてくるような足音が聞こえてきて……誰か起きてるのかなって思って後ろを振り向いても誰もいなくて、それと一緒に足音も止まるんです。でもまた歩き出すと、足音も一緒についてきて……」
「気のせいじゃないのか? 古い家だと、足音結構響くだろ?」
「うちそんな古くないですし!」
オリヴィアは両手で顔を覆い、全身を震わせた。
「もう本当に毎日怖くて――気が狂ってしまいそう……部屋にいるときも食事の時もお風呂に入っているときも、寝ているときだって、休まるときなんて一度もないわ……あそこは家なのに……違うわ、あれは家じゃない……家の仮面を被った、悪魔の家よ……」
悪魔の家――
そのフレーズにウィルはぴくりと肩眉を動かすのだけれど、オリヴィアは気が付かなかったようだ。
ウィルは何も感づいていないような表情でコーヒーを飲み、頬杖をついた。
「そんな重大なことなら、俺のところじゃなくてもっとちゃんとしたところの方がいい。俺は正規のエクソシストじゃないし、他にいい腕を持ったエクソシストは沢山いる」
「父も、今のうちの異常性を知っていて……もう二人も有名なエクソシストに頼んだんですけど、高いお金ばっかり取られて、壺とか変な水とか買わされて、全然効果なくって……」
真剣な眼差しで告げるオリヴィアの瞳はとても清らかで美しいが、言っていることは大問題だ。
ウィルは残ったコーヒーを全て飲み干すと、両手の指を組んだ。
「あんたが本当に困っているのはわかった。でも、だからと言って俺に助けを求めるのは違う。本当に助けてほしいんだったら直接アルビオンに――」
ウィルの言葉に、オリヴィアがきっ、と顔を上げた。
「アルビオンに連絡しました! とても困っているから助けてほしいと!」
「じゃあどうして……」
その問いかけに、オリヴィアは悲しげに視線を伏せた。
「……アルビオンの方に言われたんです。今、エクソシストは皆出払っていて私の依頼は受けられないと……でも、どうしても、誰かに助けてほしくて……だから、自分で調べたんです。この街に、カスターニャ市に住んでいると。アルビオンから追放された異端のエクソシスト……どんな違法な依頼も間違いなく解決してくれるって……」
長い睫毛越し、すがるように向けられたその視線から逃げるよう、ウィルは両手で頭を抱えた。
「マジかよ……」
情けなくそう呟いたウィルに、オリヴィアは落胆の表情を浮かべた。そしてそれを一瞬で決意の色に変化をさせ、ソファの横に置いていた巨大なスーツケースを持ち上げた。
「お、おい……」
疑問符を浮かべるウィルのことなど気にもせず、彼女は成人が一人軽く入ることのできるであろう巨大なスーツケースをテーブルの上に乗せ、蓋を開けた。半分はドライヤーや衣類、化粧品などの日用品。そして――
「おいお前! こんな金一体どこから……」
「私の貯金です。全部で400万モールあるわ」
「400万!? 嘘だろう!?」
見たことのないような大金を前に、ウィルはわなわなと全身を慄かせた。
オリヴィアは腕を組み、ふん、と鼻を鳴らすと、今にも札束に食いつきそうなウィルの目の前に手を置いて、スーツケースをガードした。
「これで、依頼、受け取っていただけますよね?」
ウィルも人の子だ。労働を面倒と思いつつも、背に腹は代えられないのだ。
「……快く受けさせていただきます」
札束を両手で抱え頭を下げるウィルからは、誇らしげに胸を張るオリヴィアの顔は正直なところあまりよく見えなかったのだけれど。
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