第2話

『グアマンド(大食漢)』という名前をつけられたその宿は、商店街からは少しばかり外れた場所に存在した。

 うっかりすれば通り過ぎてしまいそうな三階立ての建物。その一階部分はレストランになっている。OPENと札のかけられた扉を開けると、赤毛に緑色の帽子を被った少年と目が合った。

「あれ、ウィルさん」

 ダニエル――ウィルはダンと呼んでいた――はこの店の店主の息子である。煉瓦色の髪に緑の帽子を被った細身の少年は、カウンター奥でグラスを拭いている強面の父親とはまるで似ても似つかない。

「空いてるな」

 視線の動きだけで店内にいる客の数をざっと数える。老人が一人と女が一人。ダンと、そして自分。片手で数えても指は余ってしまうほどだ。まだ正午を少し過ぎたばかりだというのに、あまりにも少なすぎだろう。

 暗にそれを伝えると、ダンはひょいと肉の少ない肩を竦めた。

「仕方ないですよ。今日は平日だし、お客さんはみんな大きなお店に取られちゃうんですから」

「そのうちきっと潰れるな。つうかお前、なにそれ」

 ウィルが指し示したのは、ダンを取り囲む光景だった。

 四人掛けの丸テーブルを陣取って、そこに広げられたのは大量の教科書とノート。そして参考書。今にも崩れ落ちてしまうのではないかというくらいに積み重ねられたそれに、思わず眩暈がしてきそうだ。

「テスト期間なんだよ」

 そう答えたのは店主のルマンドであった。厨房の奥からひょいと顔を覗かせ、ぴかぴかと光るスキンヘッドをつるつると撫でる。隆々とした筋肉を持つ彼は一見したら盗賊にしか見えないのだが、その容姿とは裏腹にひどく優しい声を出した。

「ふぅん」

 対して興味を持たない音だけの相槌を打ちながら、ウィルはカウンターに腰掛けた。頼むものは決まっている――『オムライスを一つ』オムライスは、彼が世界で一番好きなもののひとつであった。

「読み書きと算術はまだいい。問題は神学と大陸史だ。特に、悪魔狩り時代は壊滅だ。年号の一つも覚えられない」

 ぶつぶつと諦めの混じった愚痴を吐きながら、ルマンドがフライパンを加熱する。温まったフライパンにバターを投入することで、甘い香りが店全体に広がった。そして玉ねぎ。続いて混ざるコーンとピーマンが、暴力的に胃を刺激した。

「大陸史なんてただ覚えるだけだろ。頭使う必要ないじゃねぇか」

「それができないから苦労するんだよなぁ。これが俺も死んだ嫁さんも、大陸史はめっきり駄目で」

「遺伝かよ」

 バターの黄金を纏った野菜がケチャップライスに変貌する様から視線を逸らし、教科書の山に突っ伏しているダンを見る。まっさらなノートに両手を伸ばし、ペンを銜え、ひたすら云々唸っているだけ。ケチャップライスが皿に乗せられたことに気が付いたウィルは、目を閉じて首を振った。

「駄目だあれ。見込みないだろ」

「おいおいウィル。あんなんでも大事な息子だ。そう簡単に諦めないでくれよ」

「どうせ授業もろくに聞いてなかったんだろ。そんな奴がどうやって覚えるんだっつうんだ」

 皿の上、綺麗に出来上がった舟形のケチャップライスは目にも楽しい。溢れる涎を啜りながら空腹を抑えるウィルの隣にやってきたのは、やはり参考書を抱えたダンだった。

「ウィルさん、勉強教えてくださいよー」

「無理だよ。お前、覚えないだろ」

「覚えますよー」

 わーん、とあからさまな嘘泣きをするダンに肘鉄を食らわし、目の前に現れたオムライスを征服にかかる。が、ダンは諦めない。ウィルの隣を陣取り、ずい、と距離を縮めると、

「だってウィルさん、アルビオンのエクソシストなんでしょ? じゃあ、悪魔狩りの歴史なんてちょちょいのちょいじゃないですか」

 などと唇を尖らせるダンの視線の先にあるのは、逆さ十字のペンダントだ。きらきらと光を反射させるその姿は、鮮やかさに欠けるウィルの服装に唯一華を添えていた。

 ウィルはスプーンを銜えたまま自身の胸元で揺れるそれを見下ろして、眉を潜めた。

「アホか。前に教えてやった時に、ものの数分で寝始めたのはどこのどいつだ」

「だってあのときは、前日にフットボールの試合があったから!」

「自分の頭の出来を試合のせいにできるんだったら世話ねぇな。大体」

 左腕にしがみついてくる赤毛の少年を振り切り、オムライスを掬う。ぶうぶうと文句を言いながらも参考書の山に戻っていくダンを横目で見ながら、毒づいた。

「俺はエクソシストじゃねぇよ」

 厳つい店主の作るオムライスはうまい。

 それに限らず何を頼んでも大抵のものはうまいし、酒すらもいいものが置いてある。朝夜の清掃のおかげか店内の清潔は常に保たれていて、ゆったりと流れる音楽は、まるで小川の潺のよう。建物自体が古いのは仕方がないが、それ以外は決して悪いところではないのだ。だというのに客が少ないのは、やはり立地条件か、もしくは店主の顔のおかげか。

「エクソシストって言っても、態度悪すぎてアルビオンを追放されたんだろ」

 汚れた食器を洗うルマンドの声こそ優しいが、顔だけ見れば海賊だ。右頬についた傷跡も(昔事故でついたものらしい)ぴかぴかに剃られた頭部さえも(いくらか潔癖の気があるルマンドが衛生を追い求め続けた結果らしい)決して堅気には見えなかった。

 ルマンドの言葉にしかめっ面で咀嚼をして、言い返す。

「ちげぇよ。追放されたわけじゃない」

「じゃあ、どうしてこんなところにいるんだよ。アルビオンのエクソシスト様がな」

 ルマンドはやれやれと首を振り、さも情けないというような面持ちで続けた。

「アルビオン出身のエクソシストだったらなぁ。こんなところでのたのたとフリーター生活なんぞしなくても、働く手はいくらだってあるだろうに」

「俺はエクソシストじゃない。畑が違う」

「俺が言ってるのは、こんなプー太郎みてぇなことはさっさとやめて、定職につけってことよ。エクソシストでもなんでもな」

 ウィルはスプーンに乗った黄金を口の中に放り込み、銀の先を店主に向けた。

「アルビオンは役所仕事みたいなもんだからな。一つの依頼でもアホみたいに書類書かされる上に規約も厳しいんだよ。契約だって山ほどある。それこそ、煙草一つ吸うにもな」

「でも、こんなところで無駄飯食うばかりの日々じゃダメだろ。仮にも、天下のエクソシスト様がよぉ」

「エクソシストじゃねぇよ、俺は」

 さっきも言ったけど、と胸中で呟いて、ウィル。しかし、この強面の店主には関係ない。

「エクソシストでもなんでもいいがなぁ。お前さん目当てでこの店に来る方も珍しくねぇ。俺も一体何度職務質問されたことか」

「そりゃああんたの見た目のせいだろう」

「俺ほど善良な人間はいないさ。コックとしてもビルの管理人としてもな。お前、事務所開くんだったら二階のテナント部分空いてるぞ」

「先月まで探偵事務所だったところだろ? やだね、縁起わりぃよ」

「猫探しと素行調査の依頼しかこなかったらしくてな。家賃を三か月分滞納していたから注意をしたら夜逃げした」

「よっぽど怖ぇ顔してたんだろ。はぁ、やだやだ乱暴な男って」

 スプーンにへばりついた米粒を名残惜しく舐めとって、ウィルは立ち上がった。

「ま、俺にはこんな風に自由気ままに生きてるほうが楽ちんつうことよ。ほい、これ。会計な」

 黒い長財布から取り出した小銭をカウンターに投げ、足取り軽くステップを踏む。

「お出かけかフリーター」

「食べてすぐ寝ると豚になる~ってね」

「嫌味か」

「いや、事実事実」

 ひらひらと背中越しに手を振り、出入り口に向かう。

 と。

「え?」

 がしり、と唐突に右腕を掴まれて、ウィルは間抜けな声を上げた。サングラス越しでもわかるくらい真ん丸に目を見開いて、犯人を見る。

 そこにいたのは女だった。女。店に入ってすぐに目に入った、女。この寂れた店内に珍しく若い女がいるなと思った程度の、少女。もしかしたら成人しているのかもしれないという程度の年齢の、若い女。艶やかなブラウンの髪を三つ編みにし、しめ縄のように大きく一つに垂らしていた。一見地味なように感じられる白いブラウスも上品なもので、胸元に結ばれている赤いリボンが更に気品を添えていた。

「ウィリアム・レッドフィールド……サングラスをした若い男……アルビオンから破門された異端のエクソシスト――」

「は、ちょ、おい――」

 桜色の薄い爪が彼のジャケットに食い込み、痕になる。身長差のためウィルからは旋毛がしゃべっているようにしか見えなかったが、それが二、三度震え、顔をあげる。

「お願い、私を助けて」

 黒い瞳と長い睫毛。そこにたっぷりと乗せられた真珠の粒。女の武器は、時として言葉よりも雄弁に語りかける。

 慣れない光景に固まるウィルとは対照的に、店主の経験豊かなことよ。キーケースから鍵を一つ取り出して、カウンターに叩きつけた。

「一時間1000モールな」

 たけぇよ、という心の声は、外に漏れることなく空気と共に飲み込まれた。


 

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