第1話
かつて天使と悪魔は一つであった。
天使は神の愛情を受ける人間に嫉妬し、神に戦いを挑み、敗北した。
結果天界を追放された天使は憎しみのあまり姿を変え、人間を憎むようになる。
つまりこれが――
「――これこそが、天使が堕天した理由である」
神は人間を愛し、人間は悪魔を恐れ、悪魔は人間を憎み、挑戦をするようになった。
あるときは悪魔が人間に乗り移り悪事を働き。
またあるときは美しい女の姿になり、またあるときは幼い子供の姿で同情を惹いて惑わせた。
ありとあらゆる手を使い誘惑を行う悪魔に、人間は困惑した。彼らに対抗できるほど、人間には知恵も力もなかったからだ。
あまりの惨状に同情をした神は、ある一定の人間達に「言葉」を与えることにした。
人間に憑りついた悪魔を祓うための言葉だ。
「言葉」を手に入れるために人間は神と契りを交わし、悪魔を祓い、漸くのこと安住を手に入れることに成功したのだ。
その「言葉」を手に入れた人間のことを、人々はこう呼んだ。
『
そうして何千年にも渡る人間と悪魔との戦いに終止符を打った――かのように見えた。が、物事はそう簡単にうまくはいかない。
悪魔からの誘惑を受けることがなくなった人間は悪魔の存在を忘れ、信仰心を失い、その結果「言葉」を失った。
つまり、悪魔を祓う術を失くしたのだ。
身を守ることを忘れた人々は再び悪魔に騙され、誘惑され、時として心身の自由を奪われた。
そこで立ち上がったのが、残された数人のエクソシスト達だった。
彼らは人々を守るため、悪魔を祓う術を伝えるために、大陸の中央に組織を作ることにしたのだ――
「それが『
天高く腕を掲げ力強く叫んだ男の声に、人々は歓声を送った。
広場である。商店街の一角にある、小さな広場。浴室一室分にも満たないようなその場所の中心に立っているのは小柄な男。一見すると子供と見間違えてしまいそうなほど小さな体を灰色のマントで覆いつくし、フードまですっぽり被っている。唯一露出しているのが両手首から先と、尖った鼻。
小男は段ボールで作った踏み台に乗り精一杯腕をあげると、ちゃりん、と握りしめたペンダントを揺らした。白い十字架である。正面に広げられた茣蓙には同じものがいくつも並べられていた。
小男はそれを見せつけるかのようにして人々を見渡した。
「よく見て見なさいお客さん! これはアルビオン所属のエクソシストが使用している十字架だよ! どこが違うかわかるかい!? まずこの輝きが違う! そして素材! 軽く、肌触りがよく、冬暖かく夏涼しい! そして何より――」
小男の溜めに、人々はごくり、と息を飲み込んだ。
「アルビオン所属エクソシストの洗礼済みだ! これの意味がわかるかい? つまりだ、これを持っているだけで悪魔がやってこないという優れもの!」
おおおおお!
青い空に響き渡った歓声に、小男が気をよくしたように声を張り上げた。
「それだけじゃない! もし悪魔に憑りつかれていてもこれがあれば祓ってくれる! 夫婦円満商売繁盛健康開運間違いなし! 今なら一つ1500モール!」
「買ったわ!」
「私も!」
「あっ! ちょっと! お客さん、おさ、押さないで! あぁっ!」
もみくちゃにされながら、小男は喜びの悲鳴を上げた。それはそうだろう、主婦といえど女性に囲まれ、更に空き缶の中には何枚もの小銭が入れられていく。男としてこれ以上の幸せはないだろう。
そんな世界一幸せな小男の目に、のたのたと歩く青年の姿が映りこんだ。黒い髪にサングラスを掛けた若い男だ。平日の昼間だというのに、この青空の下ポケットに手を突っ込んでのんびりと煙草を蒸かしている。正直、金は持っていない――金を持っているような若い男が、こんな平日の昼間から街の一角を歩いているはずがないのだから。
小男がうっかり青年に声をかけてしまったのは天使の囁きか、もしくは悪魔の気まぐれだったのかもしれない。
「おい兄ちゃん、兄ちゃんもひとつどうだい?」
小男の呼びかけに、青年はなんとも怠そうに足を止めた。大きめのサングラスが顔半分を覆っているため表情はよくわからないが、不機嫌なわけではないだろう。だからと言って、機嫌がいいわけではないだろうが。
そんな青年の態度など気にもせず、小男は先ほどと同じように、景気よく声を張り上げた。
「見て驚け聞いて笑え! なんとこれは、アルビオン直属のペンダントだ! しかも洗礼つき! これがあれば開運間違いなし! 冴えない兄ちゃんにも彼女ができるぜきっと!」
小男の言葉に、青年はすぱー、と煙草を口から離した。それを指で挟んだまま、主婦の波を掻き分けるようにしてとろとろと男の元までやってくると、小男が懸命に掲げているペンダントをまじまじと眺めた。特別高いわけではないだろう青年の背丈は、小男が懸命に背伸びをしてもまだ十数センチ差があった。時間にして十数秒、太陽の光を反射するそれをじっくりと眺めると、ぽい、と煙草を地面に放り投げた。
「きゃあっ」
それに驚いたのは周りの主婦だった――当たり前だろう、銜え煙草にポイ捨て、どこをどう見てもマナー違反でしかないのだから。
でっぷりと肉のついた中年の主婦は、その豚のような目元を釣り上げた。
「ちょっとあなた――」
ガラスをひっかいたような甲高い主婦の抗議の声など露知らず、青年は手に取った十字架をぷらぷらと揺らし、言った。
「おい、これ、偽物だぞ」
瞬間、その場が水を打ったかのようになったのは、気のせいではないだろう。
ぽかん、と目を点にする主婦たちよりも逸早く我を取り戻したのは小男。つま先立ちをしてどう考えても足りない背丈を懸命に伸ばすと、唾が飛ぶことも気にせず叫んだ。
「に、偽物じゃない!」
「偽物だろこれ」
「偽物じゃない! これはアルビオンのエクソシストが――」
「だからぁ」
青年はひどくのんびりとした口調でそう言うと、ちゃりちゃりと手の中で揺れる銀のチェーンを見せつけた。
「偽物だろこれ。本物はもう少し細身だし、重さもある。素人目ではわからないだろうけど、素材が違う」
「えっ……」
「素人はそう頻繁に見るようなもんじゃないから、違いもわからないだろうけどな。でもな、見て見ろよ。ここ」
青年に促され、十字架の裏をまじまじと覗き込む。太陽をきらきらと反射するそれに気がついた小男は、驚愕の声をあげた。
「あっ!」
「ほらな」
にたり、となんとも人の悪い笑みを浮かべる青年の掌に寝そべる十字架には、うっすらとこう掘られていた。――『土産屋本店』と。
「なかなかうまくできてるぜ。街の土産屋で売れる程度にはな。でも、次はもう少しうまくやれな」
青年は小男の掌に偽の十字架を落とすと、ひらりと踵を返した。去っていく黒いジャケットに目を奪われていた小男は、自分が怒りの炎を背負った主婦達に囲まれていることにまったく気が付かなかったのだ。鬼の角を生やした女性たちに罵られ、引っかかれ、揉みくちゃにされた小男は命からがら主婦達の足の間から頭を出した。背中をヒールで踏まれながらも、去っていく黒ジャケットに向かい懸命に手を伸ばし、叫んだ。
「ま、待て! いてっ、やめっ、いてっ、待てって!」
小男の静止に、青年は足を止め、肩越しに振り返った。
「あだっ、なんでっ、おまっ、わかったんだ! 誰もっ、いたっ、わからなかったのにっ!」
全身の苦痛を訴えながらの小男の問いかけに、青年はごそごそと胸元を弄った。翳されたペンダント。銀の十字架。アルビオン所属のエクソシスト。それらの単語を口に出す間もなく、何者かにより両足をがっちりと捕まれて再び主婦の中心に引きずり込まれた。
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