メメント

シメサバ

プロローグ

 ああ、わたし、死ぬのね。

 その瞬間、彼女は“死”を理解した。

 目の前にあるのは白い天井。まだ天国ではないだろう――もしここが天国ならば、こんなにも人のすすり泣く声が聞こえたりなどはしないだろうから。恐らくここはベッドの上。生憎ながらその感覚は掴めないが、彼女には解る。彼女はもうずっと長いこと、ベッドの上から起き上がってなどいないのだから。

 鼻に繋がれた管が苦しい。こんなもの外してしまえばと何度も何度も感じていた。けれど、これは彼女の命だ。その命ももうすぐ、あと数分のうちに終わりを告げる。

 ぼんやりと霞んだ視界の中に、いくつもの人影が映る。もう終わりの時だというのに、顔がはっきりと確認できないことが残念だ。父。妹。母のように長いこと慕ってきた乳母。祖父のように甘えてきた運転手。皆が皆愛しい人だ。心配をかけた。苦労ばかりかけてきた。けれどそれも、大変な日々ももう終わりだ。

 感覚だけで右手が抱き上げられたことを知る。痩せてしまい、注射の針だらけの醜い手だ。泣かないで。あなたのこと、わたし、とても大好きだったの。そんなに泣いていたら、可愛い顔が台無しよ。そう伝えたいのに、抱きしめて目元を拭いたいのに、もうそれすらも叶わない。

 ふ、と意識が遠くなる。もう目も見えないし、殆ど耳も聞こえない。唯一まだ、握られた掌から伝わる温かさが、最後の最期まで生き抜いたという象徴だ。

 思えば、生まれてから今の今まで、幸せな日々だった。

 楽しかった。薬は苦かったし注射も痛かったけれど、それでもとても、幸せな日々だった。天国には母はいるのだろうか。天国とは、一体どのようなところなのだろうか。そんなことを考えるほど、彼女は今、とてもとても幸福だった。最後の最後の瞬間まで、本当に――


 本当?


 あともう数秒で命が尽きる。家族に囲まれて。短い一生を。こんな狭いベッドの中で。


 本当? 本当に幸せだった?


 幸せだ。幸せだった。だって私は――


 太陽の下、まともに走り回ったこともない。海で泳いだこともない。学校に行ってボーイフレンドを作ることも、学校帰りに友達とアイスを食べたこともない。苦い薬を毎日飲んで、痛い注射を何度も刺されて。毎日毎日。毎日毎日毎日毎日苦しいくらい。


 本当よ。本当に私は幸せだった。けれど、もし。もしもできることならば――


 短針と長針がぴったりと合わさり、彼女の呼吸がぴったりと止まった。目元から流れる真珠の粒は、父親によってそっと拭われることだろう。優しい神父の祈りの声を子守り唄として聞きながら、彼女は眠りについたのだ。誰にも邪魔されることのない、永遠の眠りに――咲いたばかりの花のような若さと熟した果実のような瑞々しさを持って。誰にも穢されることのない純潔を守り、高潔さを保ったまま。生まれたての真珠のような美しい魂のままに。誰かがそれを、ひょいと口に入れてしまったことすら知らず。


『その願い、叶えてやろう』


 眩い光はまるで飴玉のように飲み込まれ、暗く深い混沌の渦に沈んでいった。誰にも知られず、誰にも気が付かれることがなく。彼女さえも、その真実を知らぬままひっそりと。



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