鳴る

綾上すみ

鳴る

 ――暗いぬるま湯の上でたゆたっている。そこに、少しずつ、冷たい水が混じってきて、だんだんと居心地の悪い水温となっていく。冷たさ。肌を刺す冷たさ。恐ろしい感じがして私は体を震わせるけれど、あたりに波紋一つ響かせることができない。暗い。何も見えないほど暗い。そして無音だった。目が見えないのに、耳が聞こえないのに、その光景を、自分の周りに起こっている出来事を、焼き印のように克明なタッチで頭の中に思い描くことができた。冷たい水滴が、時間軸に沿って少しずつ増えていくさま。悲しいさま。このままいくと、私は体温を失うだろう。

 そして液体はぐるぐると、何かとても大きなものにかき混ぜられる。めまいがする。ふいに、その液体がすべて自分の体の一部分であるかのように、感覚が鋭敏に、研ぎ澄まされていく。透明が私の体を少しずつむしばんで、やがては体が液体と見分けがつかなくなるのだろう。ここにあるただの一滴になって、何も考えないでそこにあり続けるのだろう。私は、嫌だったのかもしれない。明らかに無駄なことであるとわかっていながら、私は水を掻いた。そのつもりだった。けれどそれをしようと考えたとき、もう水は冷たすぎた。体が自由に動かせるだけの体温を奪われていた。なぜだろう、と思う。その時ようやく、私ははじめのぬるま湯と、今の身動きできない状態を比べて、今のほうがなんだか心地よいと感じたのだった――『私は美しかった』――


 目が覚めたとき、私は体を自由に動かして、目をくりくりと動かして、まずは時計を見た。始業の五十分前に、目覚ましをかけずとも覚醒するようになったのがいつだったか、もう忘れた。身支度をしてパンをほおばって、そろそろ運動しなきゃなあとか化粧品を帰りに買わないとだとか思いながら、独り暮らしのアパートを出る。

 共同駐車場から古さびたママチャリを引っ張り出して来て、ギコギコと30秒ほど漕ぐだけで潮騒が聞こえてくる。寄せては返す波の音と浜風を顔の左側に受けながら、勤務先まで自転車を転がす。纏わりつくような暑さを、私はかききって進む。肌に心地よい風が当たり、海鳥の啼き声が私を後押しする。

 店のバックヤードに入ると、十二時からのシフトに入っているパートのおばさんたちの気ままな話し声が聞こえる。今回やってきたあの社員さん、名前なんて言うんだっけ? そうだ、木村さん。あの人、シフト組むの凄い下手で困るわよねー。ホントに、私も今日で五連勤だわ。私にはお構いなく、騒ぎ声は加熱していく。この中で私が一番若く、一番勤務経験が長い。私は連絡事項を書きつらねたノートをめくる音に意識を没頭させた。特筆すべき事項はないので、私は適当にみなを集め、話をして、勤務開始の礼を取り仕切った。

 レジの音に集中し、小銭を触る音に集中していたらすぐに終業時間が来た。私は帰り支度をさっさと済ませ、帰り道の途中のドラッグストアで買い物をする。ドロアーの開く音、ぎこちないお札のカウント。いちにいさん、と数えられるにつれ、それが悪魔のささやきに感じられてきて、私は現実から目を背ける。帰りの自転車のさび付いた音と、潮騒に思いを馳せる。


 ベッドが好きなのか嫌いなのかわからない。

 眠る前に食事をとり、歯を磨き、お風呂に入らなければ。しかし渦を巻くようにやってくる意識の怒濤から逃げるつもりもない。逃げようと取りなせば、それを先回りして意識はやってくるのだ。私の脳内ではずきずき、と重低音のような響きが鈍い痛みとして鳴っていた。横にならなければ。

 すーっと、風のように抜けていく様々な事象の表情。そこに没頭する前にすこしだけ私は用を足したい気がした。すぐにその思いは、まるで酔ったようなまどろみと、圧倒的な黒い感情に支配され溶けて消えた。母が数日前に死んだ。痛みの強いがんで、モルヒネを断り、苦しみぬいた末の死。私は五人家族の除け者で、葬儀の頭数程度にしかならなかった。母の顔はまるで眠っているように温かかった。しかしそれも、葬儀屋が安らかな顔を作ってくれたのだということを耳にして、なんだか自分の感情がばかばかしくなった。こめかみに響いた温かな自分の血流を否定したくなった。その感触――ああ、ここで立ち止まってはいけない。いつだって心地いいものが、まどろみのうちでは一番苦しいのだ。

 母親は一体どれだけ、素晴らしい子孫に恵まれただろう? 私が生まれたとき、すでに父親は亡き者だった。どこにもいない人だった。

 これが私の今。これが私の、今。代わりはたくさんいる。

 これが私の今――明日の勤務を休むかどうか迷う。こういったことを考えられる間は、つかの間の休息だ。現実はいつだって休息。人は等し並みに、頭の中に爆弾を抱えている。どん、どんと何者かに殴られるかのような頭痛。意に反して、私の頭はベッドの中でもがく音を、窓の外のセミたちの声を、かき消してしまう。

 再び思考に沈潜していく。ふいに、死という言葉の響きに以上に執着してしまう。しししししししししし――死死死死死死死死死死。綺麗な音色に思える。し、とつぶやく。

 胎児のころの記憶がある、と言うとみなに非常に驚かれる。温かく、優しい海だった。ああまた、そんなやさしい母親の体の音を思い出さねばならないのか――。

 もう聞こえない潮騒の音が、なぜか聞こえる気がして、私ははっとした。

 音。懐かしい音。胸に手を当てれば、母から預かった、かけがえのない私一人だけのそれは、どう、と一つ強く鳴った。ママチャリを駆って、明日も働きに行こう。私はまどろんだ。辛くはなかった。

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