二話『物分かり』

 私、新立吉海。

 マイシスターとホームにて。


「…………」


 ただいま放心中。

 僕は窓際に正座し、日差しを頭に受け、庭に生えた木々の木漏れ日の下に生い茂る雑草たちを、口を閉ざすことも忘れて眺め続けていた。

 でも眺めるだけなのもつまらないので、草に着陸、草から離陸を繰り返す虫を目で追いかけみたり、飛行中の虫を窓一枚隔てたところから指差し、「バーン」と口効果音で撃ち落してみたり。挙句の果てには、草を数え始めた。


「えっと……、吉海?」


 しかしまぁ、何でだろうね。数えた草が二百本目を超えても、まったくもって現実と向かい合う気になれないのは。窓に映る変わり果てた自身の姿を捉えるたびに、頭が痛くなっちゃうよ。


「……吉海~」


 どうしてこんな事になったんだろう。僕なんか悪いことしたかな。いい子にしてたはずなんだけどな。いあ、むしろいい子にしてたからこうなっちゃったのかな。だとしたら考え物だね、褒められるために努力するっていうのも。これからは『頑張ったら負け』っていう旗でも掲げて生きていこうかしら。


「…………吉海、朝ご飯だよ~」

「食べる」

「あ、食べるんだ……」


 素早くテーブルに着き、朝らしい彩りよき朝食を前に手を合わせる。


「いただきます」


 こころなしか、以前よりわずかに大きく感じられる箸。

 その理由は明白だが、認めたくない僕はそれについて頭を働かせるより、手と口を動かすことを優先した。それも、理解をほんの先延ばししているだけに過ぎないのだろうけど。

 一方、姉は、黙々と食事にいそしむ僕のこの姿を、見て見ぬフリはできないようだった。


「……ねぇ、吉海」

「なに?」

「どうして、そうなったのか、本当に分からないの?」

「…………」


 口の中のものを飲み込み、静かに頷く。

 本当に、分からない。分からないのは、言うまでもなく僕が性転換した理由。理由だけではない。きっかけと、意味。

 もちろんきっかけなど思い当らないし、ましてや性転換にこめられた意味など分かるはずがない。久しぶりの高熱にしつこくうなされ、ようやく治ったかと思えばこうなっていたのだ。なぜ髪が伸びたのか、なぜ声が細くなったのか、なぜ体型が変化したのか、なぜ胸が膨らんだのか。そして──


「…………無い?」

「無い」


 ──なぜ、局部が空いてしまったのか。


「……そう。ん、どうしたの?」

「……いや、その」


 なんというか、変な感じがする。男としてあるべきものが無くなった股間というのは。男ゆえそれを持っていたころは、たまに邪魔に感じることもあったが、元男となっていざ失ってみと、どうももの寂しいものだ。

 うつむき、足をきゅっと閉じて身じろぎする僕。

 正直、顔が熱い。ただでさえ女性の身体など見慣れていないのに、自分自身の身体がそうなるなんて思ってもみなかった。


「……?」


 ふと頭を撫でられていることに気づく。

 顔を上げると、いつの間にか姉が傍にいて、僕の頭を撫でていた。


「……ふふ」


 気のせいだろうか。その表情はとても綻んでいるようにみえる。


「なに、姉ちゃん?」

「……っ、い、いえ、なんでもないの」


 僕が首をかしげると、姉は我に返ったかのようにハッとなり、あわててテーブルに着く。しかし緩んだ頬はそのままで、朝食そっちのけで天を眺めていた。


「?」


 僕は訳が分からずさらに首を傾げる。何気なく時計に目をやったところで、時間にさほど余裕がないことに気づいた。急いで朝食をたいらげ、手を合わせた。


「ごちそうさま」

「はいは~い……」


 上の空で返事をする姉にどこか薄気味悪さを覚えた僕は、さっさと流し台に皿を置き、リビングを出ようとする。


「あ、吉海」


 そこでまたもや我に返ったらしい姉に呼び止められた。


「行かないほうがいいんじゃない?」

「……どこに?」

「学校。病み上がりなのもそうだけど、なにより女の子になっちゃったんだしさ。今日のところは休んでいろいろ考えた方が」


 姉に指摘されなければ、僕はいつもどおり部屋に戻り、いつもどおり"男用"の制服を着て、いつもどおり学校へ行ってしまうところだった。身体に思考に染み付いた習慣に、今日も従うところだった。

 しかし、そうはいかない。

 僕は、性転換してしまっている。

 女になってしまっているのだ。


「…………」


 もしこのまま学校へ行って、性転換の事実を露呈してしまえば、僕の人生はどうなる?

 妄想上の事象とされ、現実ではありえないとされてきた性転換。それが実際に起きてしまっているのだ、僕という一人の人間の身に。

 何を言われるか分からない。何をされるか分からない。

 たとえ正直に話して、周りに受け入れられたとしても、僕は決して落ちついてなどいられない。見え透いた他人の内心に押しつぶされ、刺すような冷たい視線に小さな心を抉られ、泣くことすらできないほど精神的余裕のない人生を送ることになるかもしれない。


「せめて、先にお母さんに伝えたほうが……」


 姉さんは弟のそんな未来を危惧しているのだろう。

 女になってしまったとはいえ、弟は弟だ。見放さず、冷静に僕を見つめてくれている。


「…………そうだね」


 ──だからこそ、僕も冷静になれた。


「でも大丈夫、学校には行くよ。父さんや母さんにはメールで簡単に伝えておいて」

「え、行くの?」


 頷く。


「このまま休んで、踏ん切りつかなくなったら嫌だし。それに──」


 自分の頭を指差し、苦笑いする。


「いつもどおりにすれば、多分バレないよ。ウチの学校、お人好ししかいないから」


 姉は丸い目をしていたが、僕の台詞を聞いて、同じように苦笑いする。


「……吉海も含めてね」


 僕は姉の皮肉に少し肩をすくめるが、時間を思い出し、急いでリビングを出て、部屋へ向かう。


 ──が、あることに気づき、すぐさまとんぼ返り。


「……姉ちゃん」

「ん、どうしたの?」

「えっと、その……」


 廊下からリビングに顔を覗かせる僕は、寝巻きの裾をぎゅっと握り、赤ら顔を隠すように深くうつむく。

 ……正直、これを教わるのは、とてつもなく恥ずかしい。


「なに、どうかしたの?」


 姉は僕の前まで歩み寄ってきて、心配そうに僕の肩に手をかけた。

 顔から出た火は勢いを増すばかりだが、それでも後ろの扉を指差し、蚊の鳴くような声で言い切った。


「………………トイレ、したくなっちゃって」


 なんでかっこつけた矢先に来るのよ、尿意。

 こんな身体だし。ゆえに勝手が分からないし。ゆえに姉に仕方を教わるのは止むを得ないし。

 恥ずかしくて仕方ない。


 心の底からふつふつとわき上がる羞恥心に、縮こめた身体をふるふると震わせる僕。

 姉はそんな僕を見て、拍子抜けしたように苦笑いした。


「教えなきゃいけないことは沢山ね」


 その表情、こころなしか嬉しそうに見えたのは、きっと気のせいだろう。

 

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