三話『決心』
足が動かない。
馴染みの校門まで続く一直線の道。学校を目指し、引き寄せられるように歩いていく生徒たち。一人は欠伸を我慢できず間抜け面を晒し、一人は並行して歩く友達と駄弁り、一人はそんな後ろ姿を見つけ、自分も話に混ざろうと駆け寄っていく。
いつも通りの光景だ。嫌でも耳に聞こえてくる中身の薄い談笑も、俯いても視界の隅にうつる他の生徒の影も。
きっと、本人達もいつも通りなのだろう。朝、いつも通りに起床し、いつも通りに朝食を食べ、いつも通りに支度をして、いつも通りに学校へやってくる。今日も、そんなありふれ過ぎて飽きるどころか既視感すら抱けない日常に、身を委ねているのだろう。相も変わらず、きっと。
「…………」
できれば、僕もその一人でありたかった。
いや、たしかに僕も、この前まではそうだったんだ。
望むほどのことではなく、でもずっと望んでいたいつもの日常に、望むままに身を委ねる──穏やかな波の中に生きる魚の群れの一匹だった。
「…………」
それが今はどうしたことだろう。
久しぶりの高熱に数日も苦しんだ末に、いざそれが治ってみれば、こんどは女になっている。
平凡の代名詞のような学生だったはずが、現実にあるまじき現象を前に、一つのフィクションの主人公のような目に遭ってしまっている。
学校という集団生活を前に、立ち竦んでしまっている。
この先で待ち受けているかもしれない運命が、怖くて。
「…………恥だ」
まったくもって、恥だ。
平凡という単語に相応しくない。
──ドンッ
道の脇のフェンスに背中を預けて立ち尽くす僕に、一人の男子生徒の肩が少々強くぶつかった。
「っ、ごめ……」
「あ……」
「…………」
「いえ、大丈夫です……」
「う、うん……」
彼はすぐに謝ってきたかと思うと、僕の顔を見て目を丸くした。僕が俯きがちに首を振ると、そのまま去っていった。
当然だ。
今の僕の髪は肩甲骨まで長く、もちろん顔も女らしくなってしまっている。それで、無理やり大きさの合わない男子用の制服を着込めば、客観的に見るまでもなく、違和感しかない。カモフラージュにしたって、おしるし程度にも加減があるというものだろう。
「……本当に、大丈夫」
しかし、それでも尚、僕は男として振舞うつもりだ。
今までの日常を、壊したくないのだ。もうすでに壊れかけているようなものだが、今まで築き上げてきたものを、いまさら簡単に手離したくはない。
この格好に無理があるのは分かりきっている。いっそのこと開き直ったほうがいいのかもしれない。
でも、大丈夫。
奇跡的にも、誤魔化すだけの素材はある。
僕の住むこの町は、昔から治安がとても良い。世界に誇れるお宝は全くといっていいほど無いが、そこだけは胸を張れる。目立った犯罪が無ければ、不良もほとんどいない。特に近隣は、愛想がよく、心の広い人達が多くて、近所付き合いなんかも盛んだ。
そのため、ゆるい学校が多い。かといって、別に勉強面で甘やかされている訳ではない。
ゆるいのは、校則だ。その中でも、外見面。
町が光あふれている分、道を外れる生徒は少ない。故に、学校側もそれを斟酌しており、見た目においての自由はあるていど認めている。ただし、それは幾らかの個性なら許容してくれているというだけで、あまりにも奇抜な髪型やメイク、髪の染色、制服や学生かばんの改造など、学生らしさとはかけ離れた派手な個性にはもちろん目をつけられる。髪の長さや女子のメイクは、社会的マナーの範囲内であることが大前提なのだ。
それは逆に、少々異性のような外見でも、それが似合っていれば、問題は無いといえる。
僕は今まで、この学校で、男子生徒として過ごしてきた。それは今後も変わらない。
ところが、今は女になってしまっている。それならば、少々"女のような男"として生きていけばいい。女顔は生まれつき患った不幸によるものだと言い張ればいいし、髪形は短髪では似合わないため止む無く、という事にすればいいのだ。
実際、冷静に考えてみれば無理しかない。女のような男として、とは言ったものの、もともとそんな見た目ではなかった。せいぜい童顔だったくらい。
いきなり顔が変わっては、同級生や教師などの顔見知りには訝られるだろう。特に、仲のよい友人からは。
それに、僕の思考が追いつかないだけで、他にも性転換により生じた問題や不安はまだ山積みだ。
「…………でも、もう決めちゃったしな」
現実を受け止めて尚、男として振舞うと。死んでも、周りを欺きつづけると。
そしてこれから先も、それを念頭に置いた上で選択肢を絞り出し、無難な道を歩めばいい。
「……そもそも、こんな決断自体が無難じゃないんだろうけど」
一人で苦笑いする。
「でも、決めたことだし」
一人で頷く。
ポケットから、一枚の紙を取り出す。
それは、家を出る前に姉から渡された、おつかいの内容が書かれたメモだった。メモの最後には、『今日の晩ごはんが分かるかな?』という一文が添えられていた。
「……弟がとんでもない目に遭ってるっていうのに、呑気だなぁ」
でも、なんというか、元気付けられた気がする。
姉は陽気な性格だ。弟の性転換も、持ち前のその陽気さで簡単に受け入れることができたに違いない。でも他人事とは思わず、女になって初めてのトイレに顔を真っ赤にして手間取る僕を、優しく促してくれた。僕の姉は、陽気ながらも世話好き──そんな人なのだ。
ただ何故か、妙にスキンシップが多かった気がするけれど。手取り足取りトイレの仕方を教わっているあいだ、ずっと耳元で聞こえていた『うふひひ……』などという姉らしからぬ気持ちの悪い笑い声は、気のせいだと信じたい。
ともかく。
おつかいは後回しに、まずは学校生活を乗り越えなければ。
「……よし、行くぞ!」
両頬を軽く叩き、僕は歩き出す。
歩き出せただけでも、成長したよね。
調子に乗り、思わず小さく笑みを零す。
しかしこの時の僕は、僕が性転換したことに即座に気付きかねない一人の存在を、忘れてしまっていた。
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