蟲喰う心臓の艶。

色彩フラグメント『琥珀篝』





 座天使ソロネの車輪は激しく燃え盛りながら、脈々と伸びる地下水路をぐらりごろりと転がり続ける。一寸先の視界もままならない暗渠をうのていで逃げ惑う男は、身に纏っていた甲冑の手甲や兜を既に脱ぎ捨てていた。着脱し難い部位の重さが今はただ忌々しい。あの蒼白の業火の前に、鋼の硬さなど一体何の意味があろうか。


 ──断罪の使者よ。その象徴よ。半刻ほど前のあれは、ほんの出来心だったのだ。今すぐに俺を懺悔の部屋か、もしくは牢屋にでもぶち込んでくれれば良い。告解の機会さえ与えてくれれば、きっとその炎も鎮まるであろう。


 彼の思考がそんなふうに──まるで炎のように身勝手に燃えて移ろう間にも、逃避行は続く。

 すると次の一歩で、踏み固められたはずの石畳がぐにゃりと歪んだ。それは"ひじり"のみに成せる神のわざであり、同時に"聖騎士"の称号を無責任に名乗るだけの人間には理解の及ばない現象だった。


 がいんがらんと爆ぜるような金属音を奏でつつ──男は転倒する。


 震える空気に共鳴するように、無数の羽虫を想起させる二つのくろい集積が蠢く。地下水路をねぐらとする蝙蝠と大鼠の群れがざわめき、周囲一体から霧散したのだ。それらはと、騒音の塊となって水路の奥へ消えていく。


 座天使ソロネは自らの焔が生み出した陰影を引き連れながら、未だ足を取られたままの男の前にゆらり立ちはだかった。


 ──このまま焼き焦げて壁画となるか。


 男の耳には玲瓏な声。大型船の操舵輪のような姿形の座天使ソロネに、顔と呼ぶべき部位は見当たらなかったが、彼は鬼気迫る表情をまざまざと連想する。全身に纏った蒼白の業火は、吹き抜ける一陣の風に呼応して茜色に揺らめいた。要塞都市の地下を網状に張り巡らされたこの水路を走る風は、湿気と共に瘴気にも似た悪臭を運ぶ。


 ──このまま焼き焦げて壁画となるか。


 もう一度、同じ意志ことばが放たれた。いのちそのものを鷲掴みにされている感覚が、確かに在る。肺のあたりで混濁する息苦しさを自覚しながら、男の唇が弁明を始めた。それは成功の見込みの無い逃避行より、ほんの僅かに利口な行為だ。


「あ、あの燭台なら、まだ俺の手元にある──。翼竜の彫り物があんまりにも見事だったものだから、つい──本当に済まねぇ。必ず元の場所に返す」


 未だ腰にいているはずの尖刀サーベルを震える手で探りながら、男は言った。治安維持の為の見廻り先として立ち寄った名も無き教会で偶然目にした燭台には、作り手が実物を見てきたのではと勘繰ってしまうほどに精巧な翼竜の彩飾が施されていた。風除けの火屋ほやにも、惜しみない硝子細工が美しく煌めいている。"これは高く売れる"と、彼の"聖騎士"では無い部分が瞬時に当たりをつけた。


 ──貴様がこの暗渠のみちを往くたびに、悍ましい物欲と金欲の臭いが充満する。我がそれを知らぬとでも?


「で、出来心なんだ。いつだってそう、出来心だ。計画的に盗ったことなんて一度も無い。育ちの悪さが魂にまで染みついてんだ。これからは必ず改心するよ」


 冷たい脂汗が男の背をつるりと滑り落ちる。憂きに身を窶した半生を振り返りながら、一体何処で悪行に零落したのかと記憶を巡らせた。栄華えいがなる場所へ辿り着いたはずの彼の心臓は、蟲入りの琥珀のような悍ましさを以て暴力的な拍動を打ち続ける。


 ──名を。貴様の名を。


 彼の名を問う座天使ソロネの声は、やはり玲瓏だった。揺らめきなど一つも感じさせない断罪者の冷徹は、彼が身に纏ったの聖騎士の甲冑よりも冷ややかだ。


 だから──だからこそ。


 今この瞬間こそ、彼が待ち侘びた告解の機会だということに、気付けなかったのだ。


「アレクサンドル──アレクサンドル・ティセリウス」


 彼の口から聖騎士の名前が語られたその瞬間──全てを焼き払う煉獄の業火が、。それもまた、"ひじり"のみに成せる神のわざの一つ。


 躰中で産声を上げる灼熱の中で、エーギルはその声を聴く。


 ──不浄なる者よ。偽りの身を焼き清めよ。


 エーギルがかつてほふった聖騎士の名前ごと、彼は自らを篝火へと変えてめらめらと焼け爛れた。


 焦げた血肉からじゅうじゅうと垂れゆく不浄なる脂の色もまた、蟲入り琥珀のような悍ましさを以て栄華の地下を巡る暗渠の流れに混ざっていくのだった。



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