花弁の色が深まる前に。

色彩フラグメント『桃腐』





 薄桃色。


 その響きの中にある嫋やかさや、あるいは色気のようなもの。そうした一連のイメージから掛け離れた生々しさが──瑞々しさが彼女の肌を覆っていた。


 首吊りによる縊死いし。リストカットによる失血死。飛び込みによる轢死れきし。服毒による薬物死。

 そのいずれとも違う何らかの方法を選んで、目の前の彼女は今あちらの世界で花畑を踏みしめているのだ。


 安らかな寝顔と判別のつかないその表情が、まるで勝ち誇ったように少しだけ得意げに見えるのは、俺の主観が感じさせる錯覚なのだと思いたい。




 【Asterisk✕3】




「最も美しい死に様は老衰である」と俺が導くと、「失踪じゃないですかね」と彼女は答えた。俺は訝しさを隠そうともせずに、「とんちじゃないんだぞ」と彼女を咎める。


 詳細を聞けば、彼女の言い分はこうだ。


「天寿を全うし、病とは無縁の最後を心から愛する人間に看取られる──仮にこれを『老衰死』と位置づけるならば、飼い主に死に目を見せまいと姿を晦ます猫ちゃんのように、終わりを誰にも看取られないようにする『失踪死』というものが対極にあるのですよ」と。


 俺はもちろん、こう反論した。


「死に様の美しさについて語り合っているのに、それじゃあそもそも死に際さえ存在しない」と。




 【Asterisk✕3】




 机上の空論の馬鹿馬鹿しさと、哲学ごっこの不甲斐なさを──そして幼稚な恋愛ゲームの行く末を嘲笑うようにして、彼女は今俺の目の前に横たわっている。


 目の前の彼女の美しさを前にして、悲しみや喪失感の一切は影を潜めていた。自殺の是非を問う倫理的な感情も、その動機を知りたいと願う探究心さえも、俺の中からはごっそりと抜け落ちている。


 淡い紅色の唇を指先でなぞり、かつて存在した弾力の消失を確認してから、俺はあらためて彼女の脈を取りにかかる。だが俺は、最初から一縷の望みも持ってはいない。


 監察医として、幾千の遺体と向き合ってきたからこそ分かるのだ。疑いようもなく彼女は死んでいる。そして俺が今までに見たことも思い付いたこともない新しい死に方で、彼女は死んだ。




 【Asterisk✕3】




「そうだな、凍死が一番近いだろう。しかしそれではこの瑞々しさに説明がつかない」


 業務上求められているであろう率直な意見を述べると、千石せんごくは大袈裟に肩を竦めてみせた。長年の付き合いである彼には、こういった芝居がかった仕草が目立つ。


「犯罪死体、あるいはその疑いのある死体には、司法解剖が義務付けられている」

「今さらどこの教科書から借りてきたんだ、知っているよ」

「俺は旭日章きょくじつしょうの犬だからな。お前すらも疑う義務があるのさ」


 千石はそう嘯きながら、これ見よがしに警察手帳をちらつかせた。彼女の遺体の第一発見者にして長年の交際相手である俺が、容疑者の筆頭に挙げられているであろうことは想像に難くない。至極当然の道理だ。


「千石、盛り上がりに欠けるようだがこれは自殺だよ。答えの出ない禅問答への彼女なりの答え──あるいは俺への挑戦状」


 淡々と述べる俺には、旧友からの憐れむような視線が情け容赦なく贈られた。




 【Asterisk✕3】




 その夜のこと、何を思い立ったのか俺は、数年ぶりに映画を借りてきた。ネクロフィリアを題材にした、B級どころかC級のホラー映画だ。その趣味の悪さに、名前ばかりが世に知れ渡っている作品。


 歪んだ性癖を死体へと注ぐ男が、はらわたをぶち撒けたバスタブに浸かって恍惚の表情を浮かべている。予算が足りなかったのか、はたまた技術が足りなかったのか──あからさまに作り物めいたその惨劇は、どこか陳腐な光景にさえも映った。職業柄、本物に見慣れてしまった俺には尚更のことだろう。


 口にするのも憚られるような悍ましい行為が延々と続く様子を、俺はカップ麺を啜りながらぼんやりと眺めていた。意味のない自らの行為に強引に理由付けをするならば、凄惨な光景の中に美しさの片鱗を探そうとしていたのだと思う。


 スクリーンの中の男にとって、美しい死に様とはスプラッタだった。

 死んだ後もなお続く、変容し続ける肉体の美しさだった。


 赤黒くぬめる血液や、映画では表現出来ないであろう腐臭。

 蛆虫に犯された──蛆虫に愛された女の躰だった。


 死とは何だ。

 美しい死に様とは──。

 幾千もの死体を見てきた。

 だから俺にとって、全てはC級になってしまう。

 死とは何だ。

 死の尊厳とは──。


 バスタブに浸かる腸。

 ぶち撒けられた欲望。

 愛情のその向こう。

 欲情のずっとずっとその向こう。




 【Asterisk✕3】




「愛する飼い主に死に目を見せまいと姿を晦ます猫ちゃんのように、終わりを誰にも看取られないようにする『失踪死』というものが対極にあるのですよ」

 

 彼女の言葉を何度となく思い出しながら、ふと気付く。


 彼女は、更にその対極を体現してみせたのだと。

 愛する人に、最も美しい状態の死に様を見せつけるという『死の尊厳』を、自らの肉体をもって示してみせたのだと。




 【Asterisk✕3】




 そして俺は、どうしてもこのC級映画を彼女と観たくなった。

 聡明な彼女だったら、一体どんな感想を聞かせてくれるのだろうと興味が湧いたのだ。


 長年忘れていた、純粋な好奇心がこの胸を駆り立てている。 


 さあ出掛けよう。

 彼女がまだ薄桃色を保っているうちに──。




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