第22話 英雄の息子③


暗闇にぼんやりと光る提灯が浮かびあがる。

その光の源である居酒屋は、賑やかな喧騒に包まれていた。


『久しぶりの帰省いかがでした?』

『帰省?』


部下のひとりから質問されて、桃太郎が酒の入ったお猪口をぐっと煽った。

顔は赤く染まり、程よく出来上がっていることが見て取れる。


『いかがもどうも変わんねーよ。相変わらず親父殿には見限られてるし、妹だけは可愛いし、友人知人も代わり映えしてなかったしな』

『初恋の相手に会ったりしなかったんスか』

『バッカ。お前ならともかく、神宮寺さんに限って初恋が実らなかったこたねーだろ』


桃太郎は部下と仲が良い。

だから今日も今日とて新年会という名目で楽しく飲んでいる訳で、飛んできた言葉もいつもの軽口だ。

ところが予想に反して、桃太郎の手が止まった。

ぼんやりとした目で考えこむ。


『初恋…』


とっさに思い浮かんだ顔は、正式には初恋ではない。

はじめての恋という定義には当てはまらないだろう。

だが、これほど未練が残るような恋は彼の人生に無かったものなので、ある意味初恋と言えるかもしれない。


『え?いたんスか?実らなかった相手』

『…嬉しそうに聞くんじゃねえよ。実らなかったって言えるほど何かしたわけじゃねえけどな』

『じゃあ今からでも挑戦してきたらいいんじゃないスか』

『軽く言うよな…』


珍しく、桃太郎がつまらなそうな顔になった。

彼は社交的で女性の扱いも慣れている。

年齢の割に出世もしているし、家柄も良い。

だから部下の発言も半分は本気だったのだが、当の本人は複雑な胸中だった。


『ならお前らはさ、殺されるって分かっててわざわざ殺されに行くか?』

『ヤクザの女にでも手を出したんですか…』

『まあそれと変わんない…いや、こっちの方がやべえわ』

『…それはやめた方がいいスね』

『だろ?やめだやめだ。あんなんいくら命があっても足りねえよ』


桃太郎が腕を上げて伸びをする。

いつまでも過去ばかり見ていないで、新しい未来を見るべきだ。

暗いのは性に合わない。

すると、部下の中でいちばんごつい顔をした男が口を挟んだ。


『俺の妹なんてどうですかね。俺に似てて可愛いですよ』

『…それは勘弁してくれ』


すぐに断ると、笑いが起こる。

いつもの通り、楽しい飲み会だったと思い返してもそう思う。

その時彼がした発言全ては、酔った勢いで漏らしたことではあったが、本音だった。






(本音だったんだ…)

桃太郎はその日、空気の抜けるような音に起こされた。

その音が何なのか疑問に思う前に、まるで脳みそが吹き飛ぶような衝撃に襲われる。


「……」


横たわる彼の目の前には、同じく寝そべった雛乃がいた。

何を隠そう彼女が、ヤクザの女よりも手を出したらやべえ女である。

首のあたりまでふとんをかけた状態で、こちらをジッと、そのまん丸な瞳で見ている。

それを認識した瞬間、桃太郎の体中の穴という穴から大量の汗が噴き出た。

一体どうしてこうなってしまったのか、その理由は神に誓って心当たりはない。

だが、年頃の男女が朝起きたら隣に寝ていましたという状況が、世間では言葉通りに捉えられるはずがない。

実際記憶も定かではないので、何かやらかした可能性も大いにある。

(俺…殺される…!)

思い浮かぶのは彼女に惚れ抜いている同期と、最強生物と言っても過言ではない彼女の上司の顔。

彼の頭の中で、瞬時に100通りの方法で殺される自身の様が思い浮かんだ。


「…桃太郎さん」

「…っ!」


雛乃の声にビクッと体を震わせるのと同時に、現実に返ってくる。

慌てて謝罪なり質問なり口にしようとして、桃太郎は言葉を失った。

雛乃と目が合う。

その黒い瑪瑙めのうのように艶めく瞳は彼だけを視界に入れていて、起きたばかりだからかどこか熱っぽく見える。

白くきめ細やかな肌はほんのり上気し、朝日を浴びた彼女の髪は、燦然と輝いていた。


「雛乃…」


思わずごくりと唾を飲み込む。

考えていたこと全てが地の果てに飛んでいき、思考回路が鈍くなった。

自身の背後で再び排気音のような音がするが、それすらも彼の耳には入らない。

ゆっくりと彼女の方に身体をむけて、抱き寄せようと手を伸ばした。


「ひな…」

「伏せてください!」

「ぐえっ!」


次の瞬間、桃太郎の顔面を襲ったのは雛乃の手のひらで、頰を押しつぶされるように床に擦り付けられた。

彼の唇が畳と熱い口づけを交わし、その勢いで立ち上がった彼女は、もう片方の手で空中で何かを掴んだ。

期待と違う唇の感触に、桃太郎の思考は停止する。


「……ひなの。なにほれ?」

「…蛇ですね」

「蛇ィ!?」


手をどけてもらい慌てて起き上がると、彼女のもう片方の手には、喉元を掴まれた蛇がぶらんとぶら下がっている。


「ええ。蛇の威嚇音で起きたら、桃太郎さんの背後の柱に張り付いていたんですよ。急に動くから、飛びかかってきちゃって…危なかったですよ」

「あ、ああ…そう…」


桃太郎の返事が心無しか低くなる。

よく見れば自分も彼女もしっかり服を着ている上、桃太郎が寝ていた場所は畳で、同じふとんに入ってすらいない。

雛乃が熱視線を送っていたのも、自分ではなく背後の蛇だったのだろう。

それに安堵するより先に、どうしようもない落胆が襲う複雑な心境だ。


「岬さん。起きてください。朝ですよ。愛子さんも起こさなきゃ」

「んー…」


雛乃が声をかけると、隣のふとんがもそりと動いた。

(しかも、ふたりきりでもなかった…)

恥ずかしいやら悲しいやらで落ち込む桃太郎に、雛乃は手元の蛇を見ながら口を開く。


「山奥だし、どこかから紛れ込んでしまったのでしょうね。ちょうど良いです。朝ごはんに頂きましょう」

「…!?朝飯に蛇を食うってこと!?」

「え…駄目ですか?あっごめんなさい。ひょっとして蛇飼われてました?」

「いや飼ってねえけど、愛着があるからやめろって意味じゃねえよ!常食なの!?」


桃太郎の言葉に、雛乃が鳩が豆鉄砲を食らったような顔で困惑していた。

なんだったら起床時に、隣に蛇と男がいることがわかった時よりも驚いている。

その反応に、桃太郎が長年培ってきた常識が崩れ始めた。

(俺がおかしいのか…!?)


「いえ、都会では見かけないのでたまにしか……あれ?ところで、桃太郎さんどうしてここにいらっしゃるんですか?」


ぴたりと時が止まった。






「うおーい!お前、昨日俺に何した!?」


10分後、桃太郎は宿の隅で怒鳴っていた。

この話が漏れ、万が一後藤の耳に入ったら困るので、まわりには誰もいないことを確認してある。

桃太郎の追求に、目の前の青年はにこりと笑った。


「何って…神宮寺先輩にお酒を注いだだけですよ」

「その酒!一杯だけしか飲んでねえのに、昨日の記憶がない上に、気づいたら女子部屋にいたんだけど!俺そんなに弱くねえよ!」

「部屋に送り届けたのも僕ですけどね…間違えちゃったかなあ」


そう美しい微笑を浮かべるのは、西園寺灯その人である。

昨日後藤たちと合流した桃太郎は、夕食後、夜更けに宿の主人から地酒を勧められた。

一応勤務中ではあったのだが厚意を無下にするのも憚られ、下戸の後藤の代わりに一杯だけ受け取ったのだ。

その時に酒を注いだのは西園寺で、さらに昏倒した桃太郎を部屋まで送り届けたのも彼。


「男は皆一緒の部屋なんだから間違うわけねえだろ!お前!何が目的だ!危うく…いや、その、大騒ぎになるところだったろ!」


まさか手を出そうとしたとは言えず口ごもる。

地酒と言えどさすがに一杯で眠くなるほど、桃太郎は酒に弱くはない。

その為なにか盛ったのではないかと疑ったのだが、当の本人はあっけらかんと口を開いた。


「ああ。性行為はできました?」

「……は?」


あまりにも包み隠さないその表現に、桃太郎が一瞬止まる。

その言葉を頭の中で何度か繰り返して、やっと漢字変換できた。


「でっ、できるわけねーだろ!お前は俺を刑務所にブチ込む気か!」

「チッ…効きすぎたか…」

「!?」


にこやかだった西園寺の顔が一転、凶悪な影が落ちた。

ギシィと奥歯を噛み締めて、吐き捨てるようにつぶやく。


「あんたがあの女と上手くいってくれれば、副署長も目が醒めると思ったのに…」

「…雛乃のことか?なんでお前が後藤の失恋を望んで…」


言いかけて、彼の表情を見て口を閉じる。

その時ばかりは神宮寺が頰を紅潮させて、恥ずかしそうにしていたからだ。


「副署長に恋慕しているからですよ…」


指折りの美青年のなんとも艶めかしい表情は、男の桃太郎でもグッとくるものがあったが、されたことを思い起こすとすぐに真顔に戻った。

どんな理由があろうとも、手段を選ばないその振り切れた性格には恐怖を感じる。

それからすぐに、自分がいかに後藤に好意を持っているか話し始めた西園寺を置いて、桃太郎は自分の部屋に戻った。

彼の部下が数人、着替えて彼を待っていた。


「神宮寺さん。昨日の夜部屋にいなかったっスけど、どこにいたんスか?大丈夫でした?」

「いや…俺って、とっても部下に恵まれてたんだなって思ってな…」

「なんスか急に…気味悪いっスね」


彼は引きつったような表情になり、一歩後ろに下がった。

他の部下も桃太郎の頭の心配をしてくるが、その反応が限りなく健全でむしろ嬉しい。


「神宮寺」


部屋の襖が開いて、後藤が顔を出した。

素振りでもしていたのか、汗だくな上に刀を担いでいる。


「雛乃が何か…不気味なものを捌いていたんだが、あれは何だ…?」






夜空に太鼓と笛の、祭囃子の音が響く。


「桜、キレイだねー」

「ですねえ…」


満開の桜の下で、岬と雛乃が木を見上げていた。

ふたりの顔にも花びらが降り落ちる。


「あっ!風船だ!ヒナちゃん。買ってきて良い?」

「良いですけど…一応勤務中みたいですからほどほどにしてくださいね」

「はーい!」


雛乃の言葉に、岬が満面の笑みを浮かべて走って行った。

その少年のような後ろ姿に、雛乃の肩の上で愛子がうめく。


「…あやつ、ほどほどにはできんじゃろう」

「まあそうですね。でも一般人に紛れろとの命令ですし、何にも楽しんでいないのも不自然ですよ」

「…だからと言って、雛乃。お前のそれは買いすぎじゃ」

「えっ!」


驚く雛乃の両手には、焼き鳥やら飴細工やらが大事そうに握られている。


「でも完全に一般の方々に溶け込んでますよね?」

「…溶け込みすぎじゃて」

「難しいですね…後藤さんにはお面を買って付けてあげましたけど、それでも人が避けて通ってましたもんね」

「…あやつも思い通りに行かなくて殺気立っているのじゃろ。まさか…斑目が討ち倒されるとはな」


昨夜こちらに着いた後藤達が知った内容は、すでに斑目が捕まったとの情報だった。

大津宛に電報が打たれていたのだが、移動中でちょうど入れ違いになってしまったらしい。

本隊はすでに撤退しており、後藤は斑目をひと目見ることすらできなかった。


「本当ならすぐ帰ることになるんでしょうけど、お祭りに参加できたのはよかったですね」


この地方はちょうど祭りで人手が足りなくなる時期を迎える。

その為若手の桃太郎と後藤が残り、警備に当たることとなったのだ。


「稀代の殺人鬼も、大量の銃弾に囲まれてはひれ伏す他ないのじゃな。良い時代よ」

「すみません。愛子さんには、せっかくここまで来てもらったのに」

「良い。むしろ連れてきてくれて礼を言う。儂がやらずとも、誰かがあの男とあの刀を止めさえしてくれれば良かったのじゃ。奴の処遇を見届けて、それから成仏するよ」


愛子の言葉にほっと息を吐く。


「でも、先に捕まって安心しました。…あの弥生丸という刀は…後藤さんが持つと、とても嫌な感じがしましたから」


そう言う雛乃の頭に思い浮かぶのは先の光景。

人の手を離れていれば何の変哲もないごく普通の刀だが、後藤の手元にある時はまるで、意思を持ったかのように闇が蠢いて見えた。


「…大和丸と弥生丸は、人の感情を喰いそれを力に変える妖刀じゃ。本来なら人が使って良い刀ではないのだ…元々は時代を作る刀になれとの意味合いで、名付けられたらしいがの」


(斑目の手に渡り、最悪な形で時代を作ってしまったがな…)

けれど、それももう終わり。

あれだけの被害者を出した斑目が釈放されることはないだろう。


「刀の名前にそんな意味が…子供の名付けみたいですね」

「名前には何でも意味があるものよ。名付ける者の意思、その者との関係性が顕著に現れる」


愛子が続ける。


「例えば儂の名前。子という漢字は漢数字の一と終わりの了という字で成り立っておる。一から了まで、一生に渡って愛されるようにという願いが込められておるのじゃ」

「素敵ですね…」


雛乃が感嘆のため息と共につぶやく。

その声に、愛子が彼女の顔を見た。


「誰かが誰かの為に一生懸命考えるから、だから名前って、あるだけであんなに嬉しいものなんですね…」


その頰はわずかに紅潮し、目は遠くに思いを馳せている。

ほんのり緩んだ口元は、その思い出が良いものだったことを象徴しているかのようだ。

(…誰かさんが見たら嫉妬に狂いそうじゃの)

巻き込まれたくはないので心の中に仕舞うと、岬がぱたぱたと走ってきた。


「ヒナちゃん、お待たせ!」

「えっ!?岬さん、風船買いすぎでは…?そんなに買ってどうするんですか…」


呆れる雛乃の声をよそに、愛子はふと祭りの中心部に建てられたやぐらに目を向ける。

大きな祭りなだけあって、力を入れているのだろう。

通常より大きく派手に作られたその上には、現在は入れ替わりの時間なのか人の姿はない。

それを見つめたまま、愛子が口を開けた。


「…雛乃」

「だってすぐ割っちゃうから、いっぱい買っておかないと」

「わ、割らないようにするんですよ。明日帰るのに…この量、汽車に持ち込め…」

「雛乃ッ!」


突然降って湧いた大声に、雛乃が顔を上げる。

愛子が呆然と見つめる視線の先に目を滑らせて、言葉を失った。

櫓の上。

本来なら誰も居ないはずのその上には、ひとつの影が佇んでいた。

深い編笠を被り、体全体を覆い隠すほど大きな上着を羽織った奇妙な男だ。

(あれは…!)

なによりも彼の背後から立ち昇る巨大な黒い闇に、雛乃が無意識のうちに唾を飲み込む。

櫓の男に気がついた、年配の男性が彼に声をかけた。


「おいアンタ。そこに乗っちゃあ、」

「美しい夜だなァ」


男の声は喧騒の中にも関わらず、ぞっとするほどよく響いた。

その笠の隙間から、不愉快な笑い声を出す。


「ヒヒヒ。人を殺すにはうってつけの夜よ」


足を広げ上着をずらすと、腰に隠されていた刀が露わになった。

同時に、雛乃の目には彼の背負った黒い塊が、ひとまわりもふたまわりも大きくなったように映る。

男は刀をゆるりと抜き、まるで月に突き立てるように構えた。


「我が名は斑目。呪われた人間よ」

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