第17話 不幸なふたり④


『弱い弱い!そんな情けないことで、本当に警察官になれると思っているのか!?』


道場に笑い声が響く。

桃太郎は手を背後で縛られた状態で、教官の足元に居た。

顔は赤く腫れ、唇の端からは血が出ている。

(クソッ…!)


『なんだその目は〜?負けたくせに生意気だぞ!』

『ぐっ…!』


助走をつけて顔を蹴られる。

(このっ…下衆野郎…!)

本来教えを請う人間に使うべきではない言葉ではあったが、この男はそれほどまでに趣味の悪い男であった。

現在も授業の一環と称して気に入らない生徒の手を縛り、皆の前で一方的な暴力をふるっている。

端正な顔立ちをしていた桃太郎もその標的で、顔ばかり重点的に攻撃を受けた。


『次!後藤!』


教官が次の生徒を呼んで、桃太郎を物のように蹴って脇へ転がす。

悔しくてなにより自分が情けなくて、桃太郎が歯を食いしばった。

例え品性に欠けた男でも、その強さだけは本物。

手を縛られた状態では勝てるわけもなく、無様に殴られて仕舞だろう。

そう思いながら霞む目で次の犠牲者を見ていたが、組み合ったと思った瞬間、教官が吹き飛んだ。


『え…』


予想外の事態に、桃太郎が顔を上げる。

それと同時に道場に太陽の光が差し込んで、勝った男はまるで、輝いているように見えた。

その時桃太郎の心によぎったのは、ほんの少しの嫉妬と、強烈な憧憬だった。






頭を揺るがす衝撃を食らって、桃太郎が正気に戻った。

慌てて足を踏ん張り、体勢を立て直す。

(やばい…意識が飛んでた)

頭を触ると手にべったりと血が付いた。


「うらやましい…」


すでに満身創痍の桃太郎に対して、目の前の後藤は意識こそ異常をきたしているものの、肉体の損傷はほとんどない。

そのあまりにも絶望的な状況に、桃太郎が思わず笑みをこぼす。


「…普通に考えたら、勝てるわけねえよなあ…」


それでも腰を落とし体勢を作ると、後藤の右足が桃太郎の腹に食い込んだ。


「ぐっ…!」


(見えやしねえ…!けど、)

鈍痛に耐え、後藤の左に回るが、今度は左腕が襲う。

それを紙一重で避けた桃太郎の頬を風圧がかすめた。

彼の目が凝視する場はひとつだけ。

(今だ!)

後藤の懐に踏み込んだ。

脇に手を通して後藤の肩を掴む。

後藤が技を解こうとするが、がっちり捕らえられた肩は外れない。

そのまま彼を背負うように、桃太郎が前のめりに踏み込む。


「俺の不幸を使ってやるぜ!」


後藤は、右足の蹴りの後に左腕の突きを出すと、わずかに重心が前に傾き、懐に隙ができる。

彼自身も気がついていなかった、些細な癖。

ずっと彼を観てきた、桃太郎だから気づいたこと。


「返せよ後藤!!」


投げられた後藤が、盛大に水の中に落ちた。

川底に身体をうちつけた彼の瞳に飛び込んできたものは、満天の星空と、こちらにまっすぐ手を伸ばして、橋の上から落ちてくる雛乃の姿。

落ちる浮遊感に少しだけ顔を引きつらせながらも、彼女の目は確かな意志を持って、彼と、彼の中にいる少年を見ている。

その白銀の髪と、同じ色をした瞳があまりにも綺麗で、後藤は一瞬、何も考えられなくなった。






両親の葬儀の記憶は、ほとんどない。

ふたりの死を聞いた時からずっと、ぽっかりと足元に大きな穴が口を開けて、自分を吸い込むような感覚に襲われていた。

それでも残してくれた道しるべがあったから、自分は前を向いた。

そうして必死に前だけを見つめて、気丈に振る舞っても、時々どうしようもない寂しさに襲われる。

思い出すのは、雨の中傘もささず屋根の下にも入らず、誰にも見えない隅で、膝を抱えて泣く幼い自分の姿。


『父上…母上…どうして、どうして…どうして、いなくなってしまったのですか…』


寒さで身体が震える。

大好きな両親だった。

尊敬できる父親、優しい母親。

ふたりとも惜しみない愛を与えてくれた。

その幸せがこれからも続くのだと、疑っていなかったのに。


『俺は、父上が出世街道を用意してくれてるんだぜ』


未だ生きていて、側にいてくれる存在がいる桃太郎の言葉に、激しい嫉妬を感じた。

それを認めたくなくて心を閉ざした。

(両親と一緒にいられるような、甘い奴と自分は違う)

人一倍努力して、とびきりの成績を残して、期待の新人と呼ばれて、褒めてもらおうと振り返る。

そこには誰も居なかった。

いきなり力が抜けたように膝から崩れ落ちて、心の中を絶望が支配する。


「頑張ったね」


突然抱きしめられて、すぐそこまできていた涙が止まった。

(……っ!)

後藤が我に返ると、真っ白な世界に雛乃がいる。

その前には彼女より小さな少年の姿。


「大変だったでしょう。たくさん努力したでしょう。本当に、えらかったよ」


ぼうっと宙を見ていた彼の大きな瞳が、水面のように歪んだ。

大粒の涙が、その小さい頰を伝って行く。


「どうして…どうしておれだけっ…!うらやましい…うらやましいよ…」


少年の口から嗚咽が漏れた。

雛乃が遠い目をしながら、ゆっくり口を開く。


「羨ましいよね…わかるよ…」


普通の家庭が羨ましい。

当たり前のように愛される環境が、当たり前のようにそばにいてくれる生活が、羨ましくて仕方がない。

苦しくて苦しくて、なぜ自分にはないのかと、周りを恨むぐらいしか逃げ場がない。


「でも、私たちは、それでも前を向いて、生きるしかない…。周りを恨んだら、もっと不幸になっちゃうから…」


雛乃がぐっと眉間に皺を寄せて、目を閉じた。

その言葉には、説得力がある。

上辺だけ取り繕ったものではなく、自分も同じことで苦しんだことがある者の、心の底からの共感の言葉だ。


「あなたも本当はわかっていたから、川に引きずりこんでも、命を奪うことはできなかったのでしょう?」

「……うん…うんっ…」

「たくさん頑張って、たくさん苦しんだから、もう良いね。これ以上頑張らなくて良いんだよ」

「うん…」


落ちた涙が、ふわりと白く輝いて消えて行く。

それに乗せて、少年が細かい粒子となって、上へと昇る。


「あなたに…永遠のやすらぎを…」


天を見上げて、雛乃がつぶやく。

まるで光る雪が彼女に降っているようで、後藤が目を細めた。

それは自分が見たことのあるものの中で、いちばん美しい光景だと思った。






彼が再び目を覚ますと、川の中でも真っ白な世界でもなく、河原にいた。

重い体を持ち上げると、桃太郎の前に座る雛乃が見える。


「痛え…雛乃、早くしてくれ」

「う、動かないでくださいね…久々だからできるかな…」


雛乃が桃太郎の顔を両手で持ち、額を合わせる。

ぼんやりとした白い光がふたりを包み、しばらく光った後、ゆっくり消えて行く。

桃太郎が片目を開けた。


「…ん?おお!痛みが少し引いた気がする!便利だな」

「…炎症を抑える程度ですよ…折れた骨なんかは治せません。私そもそもこっちは得意じゃなくって…力の加減が難しいんです。逆に相手にもっと酷い怪我を負わせることも…」

「!?俺、さっきそんな危険な状況にさらされてたの!?」


桃太郎が冷や汗をかく。

後藤が起き上がったことに気がつき、雛乃が駆け寄った。


「後藤さんお怪我は?」

「…肩を川底に打ち付けたらしい。右腕が上がらん」

「ギャッ!それは私にはどうしようもないですね…日が昇ったらとりあえず診療所行きましょう」

「…わかった」


後藤が大人しく頷く。

それをなんともなしに見ていた桃太郎が、片方の眉を上げた。

(……ん?)

心なしか残念そうに見える彼の表情に、その理由を考えて、行き着いた心当たりにぴたりと思考が止まる。


「いや、まさか…そんな訳ないよな。ハハ…」

「おいおい、こんなところにカモがいるなあ」


突然降って湧いた第三者の声に、その場の全員が背後を振り向いた。

いつの間に現れたのか、数人の男が提灯を持って、こちらを見ている。

皆顔の一部を隠していたり、またむき出しの武器から、一般人ではないと警鐘が鳴った。

口元を隠した体格の良い男が、こちらを指差す。


「若い男ふたりに、ガキひとり…大したモンは持ってそうにねえが、綺麗な顔をしてるし良い値はつくだろ」

「…最近この近辺に出没する追い剥ぎか?」

「それを知っててうろつくたぁ、身ぐるみ剥がされたかったのか?だがなあ、最近は追い剥ぎも儲からなくてよぅ、人売りに鞍替えしようと思ってたんだ」


そう言って彼らはニヤニヤと笑う。

雛乃が背から弓を取り出した。


「しかもなんだ?武器を持ってんのはそこの嬢ちゃんだけで、お前ら男の方は武器を持ってねえどころか、右腕が使えねえ奴と、すでに傷だらけの奴じゃねえか。恨むんなら、自分の馬鹿さ加減を恨むんだな」


じりじりと距離を詰めてくる。

桃太郎は振り向かずに、背後の雛乃に声をかけた。


「雛乃。このまま後退して、土手を上がれ。走れるな?」

「…おふたりを見捨てて逃げろと言う事ならば行きません」

「違う。人を呼んできてくれ。このあたりは民家は少ねえけど、追い剥ぎは署でも問題に上がってた。巡回している巡査がいるかもしれねえ」

「…わかりました。一瞬だけ気をそらせますか」


雛乃が素早く弓を背に仕舞うと同時に、後藤が河原の石を下から飛ばした。

石は直線上に進み、男の提灯を持つ手に直撃する。


「いっ、てぇ!!」

「なんだ!?」


光が落ちたことでわずかに動揺した隙をついて、雛乃が踵を返して走り出した。


「逃げたぞ!見張り!追え!」


素早く土手を上がり切るが、ひとりが気が付き声を張り上げる。

すると橋の影から数人の男が飛び出し、雛乃を追って行った。


「……っ!」

「後藤!」


それを追いかけようとした後藤を、桃太郎が止める。

振り向くと、真剣な瞳とかち合った。


「お前が取り憑かれてたあの時、橋から飛び降りることを提案したのは雛乃自身だ。横から来るより上の方が気付かれにくいってな」

「……」

「あの高さで普通はそうは判断できない。あいつは只のガキじゃあない。大丈夫だ」


桃太郎がそう言って彼女の消えて行った方を見上げると同時に、ドカンと爆発音がして煙が上がった。


「…思ったより大丈夫そうだな」

「この糞餓鬼共が!全員でやるぞ!散らばれ!」


その掛け声と同時に、ふたりのまわりを男たちが取り囲む。

後藤と桃太郎が背中を合わせるように立った。


「神宮寺。案はあるのか」

「ない。とりあえず倒す目標比率は、俺3対お前7な」

「…右腕を動かせない私にとんだ仕打ちではないか?」

「実力を鑑みろよ。だいたい俺の方が、お前に袋叩きにされてボロボロだわ。それに…」


桃太郎が言い終わる前に男のひとりが奇声を挙げて、手にした刀を振りかぶった。

後藤はそれをかわすと、前に踏み込む。

男の武器を持つ手を殴り、その緩んだ掌から刀を奪い取った。

そして左手一本で、相手の男を斬り伏せた。

桃太郎がその様子をちらりと見て、口を開く。


「それにお前…両利きだろ」






最後のひとりが足元に倒れこむ。

それを見届けて、後藤が顔を上げた。

視線の先には座り込む桃太郎の姿。

彼も顔を上げて後藤を確認すると、にやりと笑い片手を顔の横に差し出した。


「……」


桃太郎の手のひらに向かって、自分の手をそれに合わせて軽く叩く。

パン、と小気味好い音が響いた。


「後藤さん!桃太郎さん!」

「雛乃」


後藤と桃太郎が顔を上げた。

空は明るくなり、こちらに向かって手を振っている雛乃の姿が見える。

後ろには数人の巡査。

泥だらけの桃太郎が、肩の力を抜いてふうと息を吐いた。


「あー疲れた…これ、追い剥ぎ捕まえたから今日は仕事しなくて良いとかねえかなあ」

「…神宮寺。ひとつ教えてはくれないか」

「ん?」


後藤はじっと雛乃の方を見ている。

彼にしては珍しく、少し言い淀んでから声を出した。


「その…女性を下の名前で呼ぶときは、どうすれば良いんだ?」

「……あ?」


桃太郎の口が開く。

後藤の顔を覗き込むと、今まで見たことのないような表情をしていた。

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