第13話 最愛④
〈月…どこへ行ったんだ…?今は常夜と言うのかい…?君に会いに行かなくちゃ…〉
ぶつぶつと声が聞こえる。
その発信源をじっと見ながら、雛乃が深く息を吐いた。
先ほどよりも太阳の呪詛は大きく大きく膨れ上がっており、まるで真っ黒な巨人が徘徊しているような光景だ。
「…太阳」
常夜の呼びかけに、巨人がぴくりと反応する。
こちらを見て、のそりと体を動かした。
「…常夜さん、いけます。いいですか?」
「……ああ」
彼女は太阳を長く見つめて、そのあとで目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
(……)
雛乃もぎゅうと眉を寄せて、覚悟を決めて矢筒から矢を抜く。
その髪は銀色だ。
ゆっくり矢を引くと、真っ白な光が彼女を包む。
「…いくぞ」
常夜の姿がゆるりと霞のように消える。
同時に雛乃が構えた矢先に小さな鈴がつき、矢がわずかに重くなった。
〈月…僕の月…どこに行ったの〉
太阳が近づいて来る。
その眉間に向かって、雛乃が照準を合わせた。
白い光が大きくなり、いちばんの輝きを放ったところで、矢羽根から手を離す。
「…あなたに、永遠のやすらぎを」
矢は呪詛の眉間に命中した。
(熱い…)
真っ白な光の中で、常夜が身をよじる。
やはり雛乃の神通力は彼女にとっては毒でしかなく、焼かれるような苦しみに駆られる。
(太阳…お前は、これ以上に苦しかったのだな)
心が壊れそうな苦しみの中でも、想うのは彼ただひとりだけ。
常夜が彼に向かって呟く。
「もういいじゃろう…太阳」
(私達は、こんなにも幸せだったじゃないか)
すると次の瞬間、常夜の痛みが急激に和らいだ。
〈もう…いいんだね?月…〉
顔を上げると、愛しくて愛しくて仕方がない、誰よりも、自分よりも大切な男性がいた。
彼は優しく笑い、常夜にむかって腕を伸ばしている。
「太阳…!」
思わず彼の胸に飛びつく。
彼の、優しい感情が流れ込んできた。
太阳が常夜に惹かれたいちばんの理由は、彼女が少しだけ、寂しそうに見えたことにある。
彼自身もどうしてそう思ったのか、わかっていない。
彼も生まれた時から孤独だったから、察知できたのもしれない。
『月』
彼女のことが好きだった。
その美しさも、自信満々なのに儚げなところも、誰も信じていないところも。
だから彼女が疑うべくもないほど惜しみない愛を注ごうと、努力をしてきたはずだったのに。
『君は…人間じゃなかったんだね』
『…そうじゃ』
自分は今、血の海に浸かって急速に命を削っている。
彼女の正体は巨大な獣だった。
『どうりで…君は、美しいわけだ』
心の底からそう思って、出た言葉だった。
常夜が息を飲む音が聞こえる。
あたりは騒がしくて仕方がないのに、彼女の声だけはまるでそこだけ切り取ったようによく響いた。
(でも君は、僕がいなくても、大丈夫だよね)
彼女は愛されようと思えばいくらでも愛される人だ。
そう思って、ゆっくり目を閉じようとした時、頰にポツリと温かい水が落ちてきた。
常夜が涙を流しながら、自分でもわけがわからないといった表情を浮かべている。
それを驚き見つめて、もうあまり動かない口を、なんとか開けた。
『…君の、そんな顔は、初めて見たよ…。得したなあ』
(月…僕は、君の中で大きな存在になれたのか)
それを嬉しく思うよりも前に、彼女への心配が先に立つ。
自分がぬくもりを渇望していることも知らなかった君が、これから先長い間、ひとりで生きていけるか気がかりだ。
僕はもっと側にいてあげるべきだった。
『……』
それでも現実は残酷で、命の灯火はゆっくりと消えていこうとしている。
手足が氷のように冷えていって、それでも頰に落ちる彼女の涙だけは温かい。
だから彼は決意した。
『大丈夫…僕は何度でも君の前に姿を現すよ』
愛してる。
愛してる。
愛してる。
だから僕は何が何でも、何を犠牲にしたって、君に会いにいく。
本当は寂しがりな君が、二度と泣かなくて済むように。
「ああそうか…」
誰もいなくなった暗闇で、常夜が呟く。
広げた手の中には何もない。
(ずっと)
ずっと、太阳が望んで自身のためにしていることだと思っていた。
太阳は常夜に会いたくて何度でもよみがえるのだと。
そうではなかった。
「お前は…お前はずっと、わらわのために…」
途方も無い長い時をかけて、どれだけ自分の魂を削ろうとも、ただひとつ常夜と交わした約束のために。
「太阳、太阳…」
声が震える。
心を静かにする方法などいくらでも身につけたはずなのに、想いが溢れて止まらない。
「ありがとう…すまぬ、すまぬ…わらわは、わらわは…幸せ者じゃ…たくさん、心配をかけたの…おぬしは、わらわの最愛の人…一生忘れまいよ」
「……」
常夜のその小さな後ろ姿を見ながら、雛乃はぎゅうと自分の手を握りしめる。
暁の体は無事。
太阳の呪詛だけが、きらきらと光りながら上へ上への昇っていったことを雛乃は確認した。
(もう大丈夫)
今度こそ彼の魂は幸せな人生を歩めるだろう。
もう2度と、常夜と出会うことはないけれど。
「終わったか?」
雛乃が暗い面持ちのまま劇場の外に出ると、黒鉄がこちらに背を向けて立っていた。
その黒い背中に、何故だか胸がしめつけられる感覚に陥る。
寄って行って、コツンと頭を当てた。
「…終わりました」
「そうか」
「常夜さんと暁さんは無事です。…太阳さんも天に昇りました」
「…そうか」
黒鉄の声は相変わらずいつも通りで、そのことに少しだけ笑みがこぼれる。
「…芸妓さんとの約束を蹴ってまで、助けに来てくださってありがとうございました」
「フン。誰が好き好んでそっちに行くか」
「…もしかして、すっぽかされたんで、ぎゃっ!痛い!」
言葉の途中で雛乃が額をバチンと叩かれた。
どうやら的を射てしまったらしい。
「まさか憂さ晴らしのためにあれだけ暴れたんですか!?そ、そういうことするからー!」
「帰るぞ」
額を抑えながら雛乃が顔を上げた。
先に歩いて行く黒鉄の背後に満天の星空が映って、それに心を奪われる。
(あ…)
同じ夜空のはずなのに、ほんの少しだけ昨日より星が輝いているように見えた。
分署の個室にて、松尾慎太郎巡査部長はウンウンと唸っていた。
眉を寄せて頭を抱える彼の前には、腕を組んだアメリアの姿。
「あんな小さな少女に色情を覚えているだなんて、あの男がいずれ犯罪者になることは目に見えていますわ!」
「……」
松尾がこんなにも悩んでいる原因は、上司のことである。
先日、市井への見回り中にて、変質者を発見した。
今目の前に立つ女性の大声による通報だったのだが、幼女趣味の誘拐犯と聞いた時点でなんとなく嫌な予感はしていた。
その為全力疾走で誰よりも早く現場に駆けつけ、容疑者を目の当たりにした。
すると何ということか、通報された人物は彼の上司であり、この分署の副署長だった。
(や、やっぱり…!)
この事が漏洩してはとんだ不祥事なので、誰にも気づかれないようにこっそり分署まで連れて来た。
後藤の存在は惜しい。
優秀で謹厳実直、荒くれ者の署員の心をあれほど惹きつける上司はそういない。
だがその一方で、彼が非常に幼い少女に懸想していることは見逃せない事実である。
「なんの話をしている…?私はそのような幼気な少女を誘拐した覚えなどないぞ」
そしてその容疑者は、一切自覚がないらしい。
「まー!白々しい!やはりこの男は危険人物ですわ!おそろしい」
「副署長…流石にあんなにわかりやすい対応をしていれば、私でも気がつきますよ…」
「!?だからなんの話だ!」
まるで気がついていない。
アメリアがびしりと後藤を指差した。
「あんぱんで釣って、誘拐しようとしていたところを見ましたわ!わたくしは!」
「…あんぱん…?幼女とは、雛乃のことか?…私が、雛乃に恋慕していると…?」
自分で言って、後藤の顔が上から下まで真っ赤に染まった。
その反応に、松尾の顔は上から下まで真っ青だ。
「ほら!やっぱり危険な男ですわこの男は!」
「ち、違う!いや、彼女への想いは本物だが」
「変態!あんな年端もいかない女の子を、」
「雛乃はっ!18歳だ!」
ぴしゃりと、まるで雷でも落ちたかのようにあたりが静かになった。
しばらくたってから、松尾が口火を切る。
「それは…無茶な話ですよ」
「さすが犯罪者は言い訳が下手ですわ…」
「ち、違う!本当だ!確か彼女は女学校を出ていたはず。調べてくれてもいい!」
後藤の言葉に、今度はアメリアが衝撃を受ける番であった。
口元に手を置き、目を見開いてブツブツと呟く。
「…わたくしとふたつしか違わないの…?確かに発言はずいぶん大人びていましたけど…嘘…」
(私としては君が20歳なことにも驚いているよ…)
松尾がほっと一息つく。
雛乃とアメリアの実年齢は衝撃的だったが、それでも世間を賑わす醜聞になる事態は避ける事ができた。
安堵する松尾の横で、アメリアが何事か考えながら口を開く。
「雛乃が18としますわよ。なら、雛乃に情欲を抱いたのはいつですの?」
「じっ!?…さ、三年前だ」
「…それは歳を知る前?歳を知った後?」
「……」
後藤が少し考え、そしてサッと目を逸らした。
その顔からは冷や汗が流れている。
今あれだけ幼く見える彼女のことだ。
三年前と言えば15歳だが、実際は10歳未満ぐらいに見えていただろう。
と言うことは、後藤は19歳の時に10歳未満に見える雛乃に恋した事になる。
年齢を知らずに。
「…いや駄目でしょう。やっぱりド変態じゃないですの!!犯罪者になる前にさっさと処分して頂戴!」
「や、やめてくれ!私は彼女の見た目に恋をしたわけではなく、いち個人として素晴らしい女性だと思ったからで」
「言い訳ご無用!あの見た目の時点で恋心を抱くののは犯罪者ですわ!」
アメリアと後藤が言い争いになる。
せっかく解決したと思った問題が火に油を注いだかのように燃え上がり、松尾は再び頭を抱えた。
よく晴れたその日、鈴に呼ばれて事務所の扉を開けると、美しい立ち姿の女性が立っていた。
洋装に帽子を目深にかぶっていたが、その綺麗な唇には見覚えがある。
「常夜さん」
「中に入れてはくれまいか。手土産に洋菓子を持ってきたから、珈琲でもご馳走しておくれ」
そう言って穏やかに微笑む彼女は、前に会った時よりも数倍も美しくなっていた。
「女優業、辞めちゃうんですね…」
常夜を応接室に入れて、珈琲を出す。
机に置かれた新聞には、稀代の女優が引退宣言との見出しが書かれている。
「ああ…。もともと太阳への想いを断ち切るために始めたことじゃ。ほかの男を愛したり、男を捨てる演技をすることで少しでも薄れればいいと思っての」
「……」
「だが、今となってはそうは思わぬ。われらは本当に愛し合っていた。それをなかったことには…できぬよ」
常夜は珈琲に口をつけ、先を続ける。
「わらわが抱えて生きるしかないんじゃ。太阳との思い出を…何度も繰り返し追思して…そうして過ごすよ」
「そうですか…」
「なにせ一千年ぶんの逢瀬じゃ。材料には困らんて」
そう言ってくすりと笑う彼女からは、前のような張り詰めたような雰囲気を感じない。
相変わらず眼光は鋭く、時折厳しい言動を見せるものの、その表情はどこか余裕がある。
「雛乃。世話になったな。次会うときは、おぬしが愛を理解できていると良いの」
「うっ…できますかね…」
「できないのならできないで良い。余計な悲しみを背負うことになるやもしれぬ」
「……」
雛乃は少し考えてから、口を開けた。
「常夜さんは…太阳さんと出会ったことを後悔していないですか?」
「……」
常夜が黙る。
してはいけない質問だったかと雛乃が取り消そうとした時、その綺麗な口が声を発した。
「後悔している。後悔するほど、愛していたからの」
「そうですか…」
「だが、太阳が居なかったら、わらわはこれほど幸せな感情は知らなかった。…良いところだけを、楽しめたら良いのにのう…世知辛い、世知辛いことよ…」
常夜が遠くを見るような目になる。
その表情を、雛乃が眩しそうに見つめた。
彼女の瞳にはきっと、自分には及びもつかないような景色が映されているのだろう。
「では行くよ。何か困ったことがあれば、一度だけ頼りにしてよい」
「ありがとうございます。お元気で」
「うむ。おぬしもの」
常夜が応接室を後にする。
廊下に立ち、ゆっくりと玄関の方向を見た。
「…よお」
そこに立っていたのは黒鉄。
呼びかけを無視して、常夜は口を開いた。
「黒鉄。お前は、わらわと同じ運命を辿る」
「……」
黒鉄の横を通り過ぎ、玄関まで歩いて行く。
すれ違う寸前、呟くように声を出した。
「その日まで、足掻き続けよ」
「常夜さん!」
事務所を出た瞬間、小さく声をかけられた。
顔を上げて、少しだけ驚き息を飲む。
「…園田か」
「はい!こちらに向かったと聞いて追いかけてきたんです。間に合ってよかった」
そう言って胸をなでおろすのは暁。
彼の両手には大きな荷物が握られている。
「…実家でも、元気での」
「ありがとうございます!常夜さんもお気をつけて」
常夜の引退にあたって、暁も任を解かれ地元に戻ることになった。
前ならば彼女について行くと言い出しただろうが、太阳の呪詛が消えた後、暁の常夜への恋慕はおさまったようで、それを言ってくることはなかった。
それは喜ばしいことのはずなのに、彼女の頭には少しの後悔がよぎる。
「では失礼しますね」
「……ああ」
暁が頭を下げ、常夜が頷く。
そして顔を上げたとき、彼は大きく口を開いた。
「僕…実はあなたが初恋なんです!」
恥ずかしそうに笑って、暁は背を向けた。
そしてそのまま歩いて行く。
その背中に思わず手を伸ばし、名を呼ぼうと口を開けるも、言葉を飲み込んだ。
暁はこちらを振り返らない。
小さく、ほんの少しだけ声を出す。
「……わらわもじゃ」
伸ばした手は何も掴めず、呟いた言葉は宙に消えた。
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