第12話 最愛③
「〈さようなら。私はこの家のお人形なんかじゃない〉」
そう言って常夜が机に鍵を置いて、扉から出て行く。
夫役の男性からいくら名前を呼ばれようと、振り向くことすらしない。
ガチャンと錠前の閉まる音がした。
「……」
昨日見た新劇は、2度目でも素晴らしかった。
けれど前回とは違い、女優の性格を知っている自分からすれば純粋に観劇できないことも事実。
作品は、家庭に縛られる女性が愛も生活も捨てて自立を選ぶ様子を描いている。
(現実の常夜さんも…男性なんていなくても、ひとりで生きていけるだろうし…適役だなあ)
さながら夫役の男性は、太阳だろうか。
「…来たか」
雛乃が常夜の控え室に入ると、部屋の中にいた彼女が顔を上げた。
舞台用の化粧を落とし洋装から和装に着替えた常夜は、本来の美しさが際立っている。
「劇の席、用意していただいてありがとうございました」
「かまわぬ。今回の一件は一座には口外しておらん。余計な邪魔が入るのは嫌じゃからの。あくまで客として来た体でいてもらう」
「そうでしたね。わかりました」
話しながらも仕事着の巫女装束に着替え、弓と矢を装備する。
「黒鉄はいないです。良かったですか?なんだか言えばわかるって申してたんですが…」
「良い。…奴には別のことを頼んである」
「……?」
昨日残って話していた件だろうか。
常夜の台詞は、その意思が汲み取れないことが多い。
彼女も理解して欲しいわけではないのだろう。
「行くぞ」
雛乃の準備が整ったことを確認して、常夜が部屋の中央に立つ。
「準備は済ませてある。少し頭が揺れるぞ」
「はい!」
彼女が大きな挙動で手を合わせると、空間がぐにゃりと揺れた。
洋風で真っ白だった室内が一転、真っ黒な世界に様変わりした。
(すごい…一瞬で)
暗く明かりもないのに、常夜や自分の姿は見える。
足をつけて立てているので地面はあるようだが、上や横には際限なく闇が広がっており、果てがない。
不思議な世界だ。
「…あそこじゃ」
常夜の指差す方向を見れば、横たわった暁の身体。
寝ているとより幼く見える。
今回、内密に済ませたいとの常夜の要望を受け、彼女の作った結界の中で呪解を行うことになった。
常夜に負担はかかるが、呪詛は暁の中に存在するので、彼さえ呼べれば可能だ。
雛乃も室内だと動きづらい上に呪詛に逃げられてしまう恐れもあるので、そちらのほうが有難い。
寝ている暁のまわりに何枚か札を貼り、そこに手を置いたまま常夜を見る。
「…太阳さんを呼んでみてください」
「うむ…」
常夜が頷いて、暁にむかって小さく呟いた。
その瞬間、暁の胸の上あたりに、黒いかたまりが姿を現しす。
(呪詛だ…やっぱり暁さんの中にいた)
雛乃の仮説は合っていたらしい。
ぐるりと、その呪詛が動いた。
〈
「……?」
「…わらわの元の名じゃ」
常夜の説明に納得し、慎重に呪詛を見つめる。
かたまりはゆっくりと動きながら、声を出す。
〈愛してる…〉
「っ…!」
その穏やかな声にぎゅうと唇を噛んで、雛乃が札に力を注いだ。
〈ギャアアアアッ!〉
雛乃の髪色が黒から白に変わり、同時にまるで電気のような白い光が暁と呪詛を包む。
(浄化は…!)
〈邪魔を…邪魔をするなっ!!〉
雛乃が確認しようとした瞬間、大きくなった呪詛がこちらに向かってきた。
瞬時に背中の弓を手に構え、呪詛に向かって矢を引く。
「……!」
放つ寸前、汗が頬を流れ落ちた。
飛び出した矢は確かに呪詛を撃ち抜いたが、まるで意に返さずそのまま真っ直ぐ雛乃に向かって突撃してくる。
(…っ!)
「小娘!」
常夜の声が遠くに聞こえ、雛乃が意識を失う。
どろりと流れ込んできた感情は、恨みや憎しみとは似ても似つかない、穏やかな愛情だった。
雛乃が目を開けると、そこは今までいた世界ではなかった。
古い日本家屋を前に立っている。
庭には竹が生い茂っており、耳をすませばわずかな喧噪。
ぼんやりと霧がかかったような視界は、これは現実ではないと確信させる。
手元を見ると自分のものではない男性の無骨な手が見えた。
(これは…記憶?)
事実、声を出そうとしても口は開かず、雛乃の意思に反して体はどんどん歩いていく。
『常夜様!』
『騒がしい。なにかあったのか?』
室内から、ふたりぶんの声が聞こえた。
(これは…常夜さんが言っていた光景?)
太阳の2度目の人生について話してくれた内容に似ている。
死んだものだと思っていた太阳が、生まれ変わって彼女に会いにきた際の、いちばん最初の記憶だろう。
『そ、その、人間が…』
常夜の使い魔である、糸目の少女の姿が見える。
その隣、障子から姿を現した女性は常夜だった。
『おお…!なんと美しい』
今とほとんど変わらないが、わずかに纏っている雰囲気が違う。
常夜と先程まで共にいた雛乃でさえも、改めて綺麗だと思った。
『お主は…』
常夜がこちらを見て息をのむ。
彼女は魂の色で太阳と判断したと聞いたので、きっとすぐに見て分かったのだろう。
そして次の瞬間目にした光景に、雛乃が言葉を失った。
「小娘!」
常夜の声が先程よりも鮮明に聞こえ、慌てて飛び起きる。
白い壁に硝子の照明。
寝ていた場所は常夜の控え室の長椅子だった。
「……」
手元を見れば、白く細い女性の手。
自分の手だ。
「全く…気絶しおって。わらわが助けねばどうなっていたか。お前に怪我をさせるわけにはいかぬのじゃ」
「…太阳さんは」
「結界の中に残してきたぞ」
常夜がこちらに背を向けて腕を組む。
「貴様にも太阳が浄化できんとなると…やはり別の方法を試してみる他はない…」
「常夜さん」
雛乃が口を開く。
そんなはずはないと思いながらも、ぬぐいきれない疑惑が心の中に根付く。
あの記憶の中で見た光景は。
「太阳さんに愛情はないという言葉は、嘘ですよね?」
常夜が顔だけを雛乃に向ける。
その鉄仮面のような無表情は、どこか悲しそうに見えた。
『わらわを、殺してくれ』
その言葉を伝えると、黒鉄は少しだけ眉を動かした。
雛乃だけを先に帰し、ふたりきりの室内で口を開く。
常夜が、黒鉄にだけ頼みたかったこと。
『小娘にやらせてみるが…太阳の呪詛は何千年という長い時の流れを生き抜いてきた。浄化は難しいかもしれん』
常夜とて今まで何もしなかった訳ではない。
あらゆる専門家に頼んできた。
それでも太阳の呪詛は消えない。
『あの小娘にも解決できぬのなら、もうこの世に太阳を止める方法はない。…わらわが現世からいなくなる以外はの』
常夜が静かに話す。
『…死ねないのだと思っていた。わらわは自然現象の一部。自分の意思で死ぬことはできぬ。だが、先ほど戦ってわかった。貴様なら、わらわを跡形もなく消せるだろう?』
『……』
『封印されることも考えたが…太阳は…諦めないじゃろう。さすがに塵ひとつ残さずにわらわが居なくなれば、太阳の呪詛も消えるに違いない』
『…何故お前が犠牲になってまで、呪詛を消したがる?』
聞くと、ふたりの間を沈黙が流れる。
黒鉄が追求を諦めようとしたその時、常夜が覚悟を決めたように、静かに言った。
『太阳を、愛しているのだ。心の底から』
最初に出会った時、男は一国の主だった。
常夜が後宮に招かれた時、あまりにも思惑通りに行きすぎて、思わず笑ってしまった。
(王といえどこの男も、他の人間と変わらない)
この美貌と知略で幾人もの人間を陥れてきた。
男は孤独だった。
今でこそ皇帝の座についているものの、もともと彼は兄弟の中でも下の子だった。
本来なら上の兄たちが継ぐはずだった地位は、后妃たちの殺し合いの末、彼に回ってきた。
父親からの愛もなく、母親は他の后と刺し違えて死んだ。
すべては彼を時期皇帝にすることで、父親から寵愛を受けるために。
血塗られた玉座だった。
それに座り家臣の言う通り政務を遂行しながらも、彼の心を支配したものは孤独。
(なんと都合の良い)
常夜はほくそ笑んだ。
孤独ならば、その穴を埋めてやればいい。
美しい容姿で優越感に浸らせ、無償の愛を囁いてやればいい。
それだけで人間は常夜に心酔する。
何度も騙してきたのだ。
人間の勝手は知っている。
『君が、寂しそうだったから』
『…はあ?』
それなのに、男は妙なことを言った。
なぜ常夜を娶ったのか、その理由を聞いた時の返事だ。
(ふん。強がりを言いおって)
本当に人間はくだらない存在だと思った。
『月、君が好きだと言っていた果物だ』
『君のために国いちばんの織物師を呼んだよ』
『足元が危ないよ。僕の服を敷いて』
男は常夜に尽くした。
常夜にとっては一時期の暇つぶしのつもりだったが、あまりにも甲斐甲斐しく接する男の態度に、心が動いた。
ほんの少しの情が芽生えようとしたその時期に、国は滅ぼされた。
『…戻ってこなくても良かったものを』
焼けていく城の中で、常夜が呟く。
足元には、皇帝の男が血まみれで倒れていた。
後宮を捨てて男だけを救おうとした家臣を置いて、彼は戻ってきたのだ。
最後まで彼は常夜に尽くそうとした。
『君は…人間じゃなかったんだね』
『…そうじゃ』
常夜は今完全に獣の姿に戻っている。
全身に血が付いているが、それは全て返り血。
歯には大量の血と人間の臓物がこびりついている上、部屋の隅には無残な死体が積み上げられていた。
声だけで常夜とわかっただけでも上出来か。
男は息も絶え絶えに、口を開く。
『どうりで…』
冷たい瞳で男を見下ろす。
この男も、私を化物と呼ぶのだろう。
騙していたのかと、二度と近づくなと、罵るのだろう。
過去に何度も言われた言葉だ。
死の淵に立てば、人は本性を現す。
(人間など、そのようなもの、)
『どうりで…君は、美しいわけだ』
時が止まったような感覚だった。
聞いた言葉が理解できず、口が動かなかった。
『…君の、そんな顔は、初めて見たよ…。得したなあ』
男は彼女を愛していた。
たとえその正体が、自分を破滅させる化け物であったとしても。
『大丈夫…僕は何度でも君の前に姿を現すよ』
皇帝の男は、そのまま息を引き取った。
その時彼女は初めて気がついた。
誰からも愛されず孤独だったのは、自分だったことに。
次に出会った時、男は大きな土地の領主だった。
二度と会うことはないのだろうと思っていた。
けれど彼は、例え記憶がなくても常夜に会いにきた。
『おお…!なんと美しい』
山奥、竹林の中に常夜が建てた日本家屋の中で、男は笑っていた。
『お主は…』
心臓が早鐘を打つ。
夢にまで見た男だった。
常夜は口元を両手で抑え、その美しい顔をくしゃくしゃにして、泣いた。
常夜は男のもとに嫁いだ。
男は記憶がないにも関わらず、前と同じかそれ以上に彼女に愛を注いだ。
当然子供はできなかったが、常夜は幸せな日々を過ごした。
領主の男は、その一年後に病で死んだ。
彼は死ぬ直前まで常夜の名前を呼び続けた。
次に出会った時、男は武士だった。
まるで自然なことのようにふたりは出会い、男はすぐに彼女を見初める。
当時の常夜は妖力が減っており、回復のために山に籠らねばならなかった。
それを話すと、男は家の全てを投げ捨てて、彼女と共に山に居を構えた。
今までと違い贅沢な暮らしも豪華な屋敷もなかったが、掘っ建て小屋でふたりは仲良く暮らした。
太阳がいれば、他にはなにもいらないと思った。
ところが武士の男は、次の満月の夜に常夜に恨みを持つ別の妖怪に殺された。
その時に常夜は、太阳との関係は秘密にしなければならないのだと泣いて後悔した。
男は漁師だった。
男は画家だった。
男は政治家だった。
男は農民だった。
男は。
「なぜ…」
常夜の声が震える。
雛乃がぴくりと反応した。
「なぜ…わらわは、妖怪なのだ…」
太阳と共に死ぬこともできない。
新しい生でやりなおすこともできない。
「愛してる…」
愛してる。
愛してる。
愛してる。
太阳と過ごした日々が、一体どれだけ幸せだったか。
何をしようとも忘れられない。
「常夜さん…」
雛乃が声をかけると、常夜が目を閉じた。
ゆっくりと息を吐き出す。
「…太阳の寿命は…生を繰り返すほど短くなっておる。このままでは魂が壊れる」
本来の運命の道筋を大きく外れて、普通でいられるわけがない。
もともと、妖気が強すぎる常夜は長く共にいるだけでも人間に害を与える。
太阳の死に様も凄惨なもので、彼女と出会ってから彼は一度も、天寿を全うしたことがなかった。
「もう…こんなことは…やめなければならんのじゃ」
常夜の声は、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
彼女は少し遠くを見たあとで、雛乃を振り返った。
「お前は恋をしたことがないのじゃろ」
「うっ」
痛いところを突かれた雛乃がうめき声をあげる。
「お前は確かに抜きん出た力を持っている。…が、これは苦手な分野じゃ」
雛乃の力を支えるものは共感。
愛どころか恋さえしたことがない彼女には、太阳の心に共感ができない。
だから太阳の呪詛に自分の力が通用するか不安だったが、やはり効きづらいようだ。
「す、すみません…」
「良い。…わらわが貴様の共感の代わりになる」
常夜の言葉に、雛乃が顔を上げる。
「お前はそのまま矢を放て。わらわがその力に乗れば、太阳の元に届くかもしれん」
「でも…おそらく私の神通力と常夜さんの妖力は相性が悪いはずです」
「…わらわが力を抑える。さすればお前の力の邪魔はしないであろ」
「理論上は可能ですが…抑えた場合、私の力で常夜さんが損傷を受けるかもしれません。あなたを消滅させることはできないでしょうから、中途半端に苦しむことに…」
雛乃が言い淀む。
太阳には自分の持ち得る最大出力で挑むことになるだろう。
それに触れれば、常夜だって無事では済まない。
想像を絶するほどの苦痛が襲う上、雛乃の力では彼女を消滅させることは不可能。
常夜は生きながら苦しむことになる。
ところが当の本人は、一度も見たことが無いような穏やかな表情で微笑んだ。
「太阳は今までさんざん、わらわに命を捧げてきた。最後ぐらい、わらわが捧げたい」
(愛してる)
だから自分のことなど忘れて、幸せになってほしい。
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