田月翔太と二宮家 3
……と、様々なことを考えても、何かが劇的に変わることはなく。何事もなく、穏やかに時間は流れ、卒業式まで来た。
随分と長いこと、二宮と過ごした気がする。この日のために買ったスーツを着た田月は、卒業証書を握り締めながら思う。
実際の年月は一年。けれどこんなに濃い付き合いになるとは思わなかった。正直、濃密度で言えば、実の家族以上だろう。
何事も、と言いつつも、それなりに色々ありはした。
例えば、担任が二宮の様子を見に家へ来ると言い出し、杏子は怒り心頭でそれを食い止めたこととか。代わりにメッセージカードは定期的に田月に渡され(それを田月から受け取った杏子は二宮の目に触れぬようにした)、二宮は週に一回の面談を言い渡された。杏子はそれも拒絶しようとしたが、当の本人によって承諾されたこととか。
それを聞いて田月は呆れてしまった。「なんで了承しちゃうんだよ」と思わず口に出すと、二宮は俯いて黙った。
……教室を抜け出しても、彼女の心は依然として捕らわれ続けている。それは人を拒絶できることが出来ない彼女の弱さであり、どこまでも純粋な優しさだった。
ポツリ、と杏子が田月に漏らしたことがある。
『別に先生に言われなくたって、あの子の前では人の悪口言わないようにしてたけど……もし、私がカンタンに喋ってたら、あの子、ここまで苦しむ必要なかったのかな』
カンタンに、辛いこと、喋ること出来たのかな。そう言う杏子の顔は、とても寂しそうで。
正しくありたいと願う人間は、その分傷を負う。
きっと二宮は、経験や立場と言うのを抜いて、公平に考えようとするだろう。
「私にも何か悪いところがあったのではないか」「先生の立場を考えて」「他人のことを責められるほど、私は出来た人間か」。彼女が田月にぽつりぽつりと告げる言葉に、そんな声が聴こえてくるようだった。
だが、田月から見れば、二宮と担任は別種の生き物だ。同じ基準で考えるなんて無意味に過ぎない。
二宮がいくら公平に考えようとしても、担任は自分の非を認めることはない。寧ろ、自分は被害者だと思っている節があるのではと田月は疑っていた。
世の中には、現実を直視できなくて嘘をつき続けると、それが本当のことだったと思い込む人種がいる。
それは二宮には、どうしようもないことなのだ。
だから、とっとと忘れればいいものを。……そう思いながら、黙ってずっと二宮家に通い続けた。
自分の考えが正しいとは思う。けれど、それを口に出せば、ここには通えなくなってしまうのではないか。二宮を傷つければ、居場所を失ってしまうことを恐れた。
本当は自分でもよくわからない、漠然とした不安だったのだが。
リハーサルには参加しなかった(出来なかった、が正しい。彼女の不調は卒業式間近に酷くなっていた)二宮は、本番一発で参加することになった。ステージの上に登る彼女が緊張しているのは、田月には見るだけでわかる。だが、大概の人間は知らないのだろうな、と田月は思った。
通った鼻筋。艶めいた髪。紅い唇。切れ長の目。
歩く彼女の横顔は、モノクロのワンピースと対比して鮮やかに見えた。すらりと伸びる足も、長い腕も、一目見た人間には子どものようには見えない。
そして、酷く傷つき、今も腹痛や頭痛に苦しんでいるなんて、二宮の事情を知らない人間には察する事すら出来ないだろう。助けが必要な子どもだと、露ほどにも思わないのだ。
何事もなかったように終わっていく。
それは彼女にとっては良いことだったかもしれないし、悪いことでもある気がした。
式が終了し、寄せ書きなども一通り済ますと、田月と二宮は体育館を出ていた。教室やクラスメイトに感慨深く想うこともない。
校門に続く道には、桜の木が植えられている。ただし、花は咲いているどころか、つぼみすらない。枝だけが青い空に映える。
「今年植えたからねえ。花がつくのは、来年でしょうねぇ」杏子が空を見ながら言った。年齢よりも若々しく見えるその顔は、今日は化粧が施され、人目を惹く。
「卒業式に、桜がないのは味気ないだろうって、PTAから送られたそうよぉ。教頭先生も、頑張ってくれたみたい」
「へぇ」生返事で田月は返した。来年いねぇしなあ、関係ねぇやと、身も蓋もないことを考えていたからである。元々、花に綺麗だと感想を抱くタイプでもない。
「そろそろ帰るか? 杏寧もそろそろ、限界のようだが」
珍しくスーツを着る正和が言った。髪はいつも通りだが、やはり新鮮に見えた。
「う、うう……もう帰りたいです……」
「お外でご飯って思ったけど、それどころじゃなさそうねー」
口元を押さえる二宮に、「いっぺん家に帰るかー」と、ケラケラ笑いながら杏子は背中をさすってやる。
「よく頑張ったわぁ、杏寧。リハもなしに」
「……『仰げば尊し』、全然歌えなかった……あんな曲だったっけ……? 『翼をください』は歌えたけど……」
「あー、卒業の歌、お前練習してなかったもんな……」
「メロディ全然わかんなかったし……歌詞も『仰げば尊し、わが師の恩』ぐらい……」
娘の言葉に、「そうねぇ」と杏子はにっこり笑いながら、
「あなたたちにとっては、『仰げば恨めし、わが師の怨』だものねぇ~」
「杏子さんそのジョーク、ここで言うのはやばいです」
「じゃあ『祝いの言葉』は『呪いの言葉』だな」
「お父さん? なんでそこで乗っかるの?」
……と、こんな感じで、卒業式は無事に(?)終了した。
田月はこの時、何故二宮が苦手なのか、そして、どうしてここまで関わってしまったのか、それなりに答えは出ていた。
きっと田月は、二宮になりたかった。
正しく、純真で、優しい存在に。それをそのまま守ってくれる、大人が欲しかった。
二宮が当たり前に手に入るものが、自分にはないことが、どうしても痛ましくて。
それなのに二宮は、あの日鍵を無くして呆然としていた自分に、『うちに来る?』とあっさり、手渡してくれたものだから。
ずるいよなあ。
こんな風に当たり前に優しくしてくれる大人がいる。なんて贅沢なんだろうと。
きっと二宮はすぐに立ち直る。こんな二人が親なのだから。こんな二人が、守って救ってくれるのだから。
いいよなあ、と田月は思っていた。
けれどそれは、とんでもない思い違いだったのだと。
中学校に上がり、田月は気づかされることになる。
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