中学生の話

幕間 彼女は車の中で思い出す

「だからー、萌え袖って言うのは、女がするのが可愛いのであってー。男がしても大して萌えないって。不燃ごみだって」

「異議あり! そんなことないです、田月くんの萌え袖はかわいです! 逆に私はぜんっぜん、これっぽちも似合いません!! 萌え袖は顔面の老若に左右されるのであって、男女で左右されるわけではないと思います!!」

「……杏寧ちゃん、それ、なんか、言ってて辛くない……?」

「でも夏の『ワイシャツ腕まくり』は、むしろ壮年の男性が似合うかもしれません。もちろん、喫茶店で働くギャルソンで、『ブラックコーヒーを飲んでるけど本当は甘党』を察して砂糖を入れてくれる大学生の先輩は、違う方向でカッコイイと思いますが」

「それな。ついでに私は、熟女でも言えると思う」

「……二人とも、楽しそうで何よりだよ」


 小学校の卒業式まで話し終えた後、何故か『萌える袖』談義に移行してしまった二宮と茅野。

 もはや緑川には止められず、長く続いたそれは、二宮のスマホが鳴ったところで終止符が打たれた。


「……あ、お父さんからだ」


 二宮が電話をとる。茅野が「帰り遅いっていうデンワじゃないー?」とのん気に言った。緑川もスマホの時計を見る。確かに、21時をとっくに過ぎている。


 あたしたち、どれぐらい『袖』の話してたんだ……? 緑川は気が遠くなった。自分はほぼ喋ってないが。



「うん、ごめん。お願いします。……茅野さん、エリちゃん、ごめん。もうそろそろ帰るね、私」

「そだねー。明日も学校だし。アネさん、終業式終わったら続き聞かせてくれる?」

「そうですね。……肝心な部分をまだ話していませんし」



 では、明日学校で、と続けようとして、二宮はやめた。数秒後、耳からスマホを離して、恐る恐る喋った。



「……あのね、二人とも。お父さんが、よかったら家まで送りますって」











 緑川と茅野を送り、後部座席で一人になった二宮は、窓の方に寄りかかり、ぼんやりと外を眺めていた。

 田舎だと言っても、この町は、道路が整備され、スーパーもショッピングモールもある。娯楽施設は少ないが、不便だと思ったことはない。



「……良い友達だな」



 唐突に、正和が言った。

 二宮は二人の顔を思い出し、うん、とうなずく。


 高校に上がっても、変わらないと思っていた。

 田月と緒方以外の友人は、出来そうにないと。そもそも、教室に入って授業を聞く姿が、もう想像できなかった。ましてや、友達と夜遅くまで外にいる、なんて。

 一年前の自分には、考えられないような日。

 中学校時代の自分は、望もうとすら思わなかった。

 今は授業にも出て、遊びに行く友達もいる。

 少しは成長しているかなあ、と二宮は思う。



 ――そう思った瞬間。

 前向きに何かを考えたり感じたりする時に思い出すのは、中学校の自分だ。



 六年の時も、辛かった。悲しかった。けれど、目の前の問題から逃げることで精いっぱいで、他のことは考えられなくて。

 あの教室と関係なくなれば、もう学校へ行けるものだと。新しい学校で頑張れるはずだと。そう信じて疑わなかった。


 入学式の日より一週間前から、腹痛が酷く、眠れない夜と起きられない朝が続いた。

 早起きできない。このままでは、最初から遅刻してしまう。まずい、と頭では考えても、身体はちっともよくならない。

 焦る中、制服が届いた。膝下より長いジャンバースカートは、ジャケットも合わせて着ると本当に重い。肩に衣服の重さが掛かる。白い靴下はふくらはぎを圧迫してくる。

 試しに着てみて、鏡の前で笑った。

 ニキビの出た肌。ボサボサの髪。顔色の悪い自分。

 悪霊に憑りつかれたよう。見るに堪えない姿。

 こんな格好で、人前に出たくないと心から思った。

 そう思う自分が、一番恥ずかしかった。



(一応、入学式は参加できたけど、式は途中で抜けたっけ)



 人が多いところに、ずっといるのが無理だった。だが、その後のホームルームには参加できた。腹痛は相変わらずだったが、トイレに駆け込むことはなかった。それだけで二宮はほっとした。

 担任の辻村先生は女性だったが、小六の担任よりずっと若く、そして明るい人だった。この人ならうまくやれる、と素直に思えた。

 だが、母と一緒に保健室の先生に会いに行った際、二宮はその人に違和感を覚えた。

 保健室の先生は笑っていた。しかしどこか、ピリピリとした空気を感じる。

 保健室の先生も女性で、年齢は自分の母親より上に見えた。もっと言うなら、小六の担任と同年代に見える。

 こわい。

 そう思った時、いけない、と二宮は思い直した。この人と、あの先生は違う。そんな、外見だけで反応するなんて。


『こんにちは、二宮さん。何か困ったことがあったら、何でも言ってね。力になるから』


 そう言って笑った保健室の先生に、二宮も笑って「よろしくお願いします」と返した。

 気のせいだと言い聞かせて。






 中学校との約束は、四つ。

 一つ目は、遅刻してもいいから、諦めず途中でも授業に参加するということ。

 二つ目は、教室に行きたくない場合、保健室で過ごしていいということ。

 三つめは、限界だと感じる前に、早退していいということ。

 四つ目は、授業態度の評価はいれない。テストを受ければ、高校入学には不利にはならない、ということ。


 一つ目は、ものの数回で諦めた。

 授業中に教室に入る場合、しまっていた扉をあけて入る。すると、ガラっという音で必ず全員が二宮を見るのだ。

 学校公認の行動だから、教師が面と向かって何かを言うことはなかった。だが、中には迷惑だと顔をゆがめる教師もいた。そして、授業の途中だということは、教師が説明している途中ということで、二宮はわからないことが増えた。

『今からこれをやれ』と言われても、途中から来た二宮にはさっぱりわからない。

 正直に何をやればいいのかわかりません、と尋ねると、教師からは周りの友達に聞け、と返された。


 田月と緒方とはクラスが違う。二宮の隣は、話したことのない女子生徒だ。

 それでもと、思い切って声を掛けてみたのだが。


『自分が遅刻する方が悪いんじゃん』『最初からいれば二度手間になんないのに。私に聞かれても迷惑』


 そう返され、正論だと思った二宮は何も言えなくなった。




 一つ目が出来なくなった二宮は、二つ目を実行しようとした。

 保健室の隅っこで勉強する。教科書の問題や、問題集を見ながら。

 だが、その意欲も、少しすればなくなった。

 勉強しようと教科書を開く。その度に、教室の光景がいつも頭を過る。

 皆が私を見る。迷惑だと言う。その通りだと思う私。

 それを振り切るように文章を読もうとすると、胃液がせり上がって、喉がからからと乾いた。それでも気のせいだと思いこみながら数式を見ると、腸がきゅうっとしまって、トイレに駆け込んだ。学校のトイレは、何人が使えるものと多目的トイレがある。二宮は後者を使った。

 自分がこのトイレを占領することは出来ないとわかっていながらも、そこから中々出ることが出来なかった。


 ある日のこと。

 珍しく体調が良くて、授業の途中ではなく、合間にある十分休みにたどり着くことが出来た。二宮は進歩だと思って、前向きに足を運ぶ。

 いざ入ろうとした時、男子生徒の声が聴こえた。



『二宮だけズルイよな。遅刻しても文句言われねえんだもん』

『小学校から不登校なんだって』

『そんなに学校いやなら、来なきゃいいのにな』


『ホント、教室に来られるだけ迷惑だってわかんねえのかなー』



 ……二宮は、教室に入ることが出来なくなった。

 その次の日から、昇降口にすら入ることが出来なくなった。




 そのうち、勉強しようとする意欲はなくなった。

 自分が今まで出来たことが、出来なくなっていたということに、ショックを受けた。

 真面目だった自分が、真面目じゃなくなったことが許せなかった。

 特別扱いを受ける度、比例して他の子から拒否される自分を、恨んだ。


 成功したと、進歩したと思った瞬間に、打ちのめされる。その度に傷つき、悲しみ、恨んだ。

 自分にはこれが出来ない、と、血眼で自分の欠点を探し始めたのは、あの時から。

 期待して傷つく自分を守るためなんだろうと、今ではわかっている。

 わかっているのに、頭は勝手に心を傷つけるのだ。




 つう、と二宮の頬に涙が伝う。

 あの時のことを思い出して、激しく泣くことはなくなった。それでも、記憶は自分の意志とは関係なく蘇っては心を乱す。

 過ぎ去ったことだと割り切るには、思い出す頻度が多すぎた。


「……少し、寄り道しようか」

 正和が、こちらを見ずにそう言った。

 うん、と二宮は頷く。


 町の光が眩しい。

 外なんて見れないと、二宮は目をつぶった。

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