田月翔太と大人の事情 2

 あの担任が弱弱しく俯いている。

 それも、泣いていたと一目瞭然だった。

 田月は驚き、慌てて二宮の両親を見る。二人はとても穏やかな顔をしていた。校長室から怒鳴り声は聞こえなかった。担任を酷く責めたてたようには見えない。

 最後にやって来たのは校長だ。校長は女で、担任より少し年上だ。パーマをかけたショートヘアと紅く太い唇以外は印象に残らないのは、心情が読みにくい表情だからだろうか。だが無感情な人間じゃないはずだ。校長が担任のように、廊下で何度も生徒や他の教師に当たり散らしているのを見たことがある。あー、類はなんとやらだなー、と思いながら前を通ったものだ。その校長が、ここまで表情を無くすことって??

 一体校長室で何があったのか、とんと見当がつかない。



 校長が二宮を呼んだ。はい、と二宮は返事をする。

 何か会話があった。正直担任が身も蓋もなく泣いているのを見て、頭に収まっていた何かが飛んでしまい、聞き流してしまった。多分飛んだのはネジ。

 だがさらに、頭のネジが飛ぶようなことが起きた。



「二宮さん、私そんなに怒鳴ってないわよねっ。ねっ」



 涙の痕をぬぐうつもりもないのだろう。校長に向き合う二宮に、担任は縋りつくように身を寄せた。

 二宮の身体が凍ったように固まる。

 切れ長の瞳が、石を投げた水面の様に揺れた。



「……あの、」

 二宮が何かを言おうとする。

「…………その」

 何か、言おうとする。

 けれど、その続きは訪れない。



 田月は後ろから咄嗟に、二宮の手を掴んだ。二宮がこちらを向く。

 迷子のような表情だ。実際、彼女は子どもだった。あのクラスの中で、誰よりも純粋でやさしい、知恵のない子どもだった。

 田月は無言で訴えた。

 何も言うな。笑うな。「先生は、怒鳴っていたつもりはなかったのかも」って、一秒たりとも考慮しなくていい。

 そいつは、自分の都合のいいように物事をとらえるんだ。自分が泣きついて言えば、お前が感じてきたこと全部撤回できると思ってるんだ。情けなんてかける必要はない。



(二宮に「泣くな、泣いてゆるしてもらえると思うな」とか言って責めたてたくせに、自分がそれやってんじゃねえか!)



 ぎゅうと、怒りで内臓が絞られるような怒りを覚える。

 元々一貫性のない人間だった。そこに今更腹を立てるなんて、どうかしている。

 だが、ようやく田月は気づいた。

 まあいいか、と子どもが諦め流すだけ、子どもに甘え、寄りかかり、食いつぶしていく大人がいることを。

 大抵の大人はそうだと思いながら――そこになんの危機感も持っていなかった自分に、ようやく気付いた。


 二宮は何も言わなかった。唇を強く噛みしめて、その場をやり過ごす。

 終わらせたのは、杏子だった。


「あの、もういいでしょうか? 夕飯の支度したいんですけど」


 フランクに尋ねると、校長が、「本日はご足労頂き……」と述べる。

 担任は、二宮から離れた。先ほどとは打って変わって、無表情だった。



                  ◆


 校長と担任に話をしてくる、と言った二宮の両親に、俺も混ぜてください、と田月は言った。

 そんなわけにはいかない、と杏子に断られた。これは大人の仕事だ、子どもに負担させるわけにはいかない、と。

 田月は、何もわからないままで話を進められるのはいやだ、と返した。知らなかったせいで、教師から不用意な条件を呑まされる可能性を潰したい、と。

 杏子は渋った。しかし、夕食をとり二宮家を出ようとした間際、二宮の父正和が録音機を渡してくれた。

 ベッドの上で音量を大にして聞いたそれは、――呆れて物事をうやむやにしたくはないが、怒り狂えば狂うほど損をしそうな内容だった。





 暫くノイズが続いたと思えば、ガツン、という音が突然響いた。


『この度は、誠に申し訳ございませんでした!』


 校長の声だ。

 その後、『謝れ!』と矢が飛ぶような声。他にも何か喚いているが、聴こえずらい。他に聞き取れたものは、『お父様に大変申し訳なく』という声。


『……あの、何故私に謝るのですか?』

 そこに、朴訥とした正和の声が、良く響いた。


『私は父親ですが、当事者ではありません。当事者は娘です』

『い、いえ……それは、教育の一環、「指導」ですので……』

『では、何に対する謝罪でしょうか。それから土下座を強要するのは、生徒たちに見せてよい姿なのでしょうか』



 ――土下座させたのかよ校長! 田月は思わず叫びそうになった。

 しかも、父親には謝罪するが、隣にいるはずの母親は無視。明らかに家制度の考え方だ、「長いものには巻かれろ」精神だ。――というか「指導」ってことはとどのつまり二宮のせいってことじゃねえか! こいつら全然悪いと思ってねぇー!!

 衝撃を受けている間、話は流れていく。

 娘は担任の怒鳴り声や執拗な責めたてにストレスを受け、体調を壊し、最早登校どころか日常生活にすら支障をきたしている、と、杏子が淡々と述べた。

 最初、『私はそこまで怒鳴っていない』『生徒を指導していただけ』『生徒を想ってやったこと』と主張していた担任だが、杏子の次の言葉に口をつぐんだ。



『娘は過度の仕事を請け負っていた、と聞きました。体育祭の実行委員、地元の子ども新聞の記者、学級委員長……内容と量からして、一人に負担させるのは明らかにおかしいと思いますが』

『それは、杏寧さんの意志です! 杏寧さんが積極的に手を挙げたからで』

『はい、それも他の生徒さんたちから聞いています。――ですが、子どものキャパシティーを考慮するのも大人の仕事ではないのですか?』



 ――……積極的、ね。

 学校行事に関する役職に自主的に手を挙げさせようとして、誰も手を挙げないことにイライラし、怒鳴り散らしたのは誰だ。それでも誰も手を挙げないから、二宮を槍玉に挙げたのではないか。『学校行事に参加するつもりがないの?』『クラスに貢献するつもりがないの?』と。

 それで挙手したことが、果たして自主的なんて言えるだろうか。




『他の子に仕事を回してもよかったはずです。限界値を越える仕事を生徒にさせるのが、教育なんですか? 』

『そ、それは……杏寧さんなら、きっと出来ると』

『娘が体調を壊したのは、一週間二週間じゃありません。二か月以上も前です。その間、私も、何度か申し上げたはずです。――それなのに、多量の仕事を請け負わせた。教育のプロとしてどうなんですか?』




 指導だ、教育の一環だというのなら、説明して欲しいのですが。

 かっけぇ、と田月は感嘆する。杏子の声は、何時ものより低く、落ち着いている。だからこその威圧感だ。そして冷静に、相手の主張を切り崩していく。




『今日娘があなたに訴えたことは、ごく普通のことだと思います。しかも、暴力ではなく言葉で意見しました。それに対し、あなたは言葉ではなく娘の髪を掴んだ。それを身体を張って止めた田月くんは、事情も聴かれずに別の先生に殴られました。当たり所が悪ければ、死んでいたかもしれません。それでも、田月くんを大切に想っている人たちに、指導だと説明するんですか』



 ……いや、そこまで身体張ってないけど……結局殴られたから、そうなんのかな? まあいいか、と思いつつ、田月は続きを待つ。

 しばらく、沈黙が流れる。担任から返答はなかった。代わりに、すすり泣きが聴こえる。

 ――って、ここで泣きだしたのかよ!!

 嘘だろ、と田月は思った。これがあの、担任か?

 無茶難題を述べようが一貫性がなかろうが、三十三人の生徒の前で散々自分が正しいと怒鳴り散らした担任は、たった二人の前で泣きべそをかいている。あの威勢どこに消えたんだよ、あんだけ喚き散らしてたってことは自信あったんだろ、とりあえずなんでもいいから言ってみろよ! と思わず応援してしまうが、やはり、返答はない。



 信じられなかった。ここまで中身がなかったなんて。

 じゃあ、教師の「指導」とやらに四か月近く振り回されていた俺たちはなんなんだ? 半日近くをあのくそったれな教師に支配されて、それをやり過ごしていた時間って何なんだ? んなことに強制的に付き合わされる俺たちは、何なんだ?



 わけがわからなかった。

 その後の会話は、一応、田月の怪我についても触れていたが、その話題が長く続くことはなかった。田月を殴った教師はそこにはいなかったからだ。

 わけがわからないまま、再生は終わっていた。

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