田月翔太と大人の事情 1

 二宮が反論し、田月が担任に花瓶の水を掛けたその日の夕方。二宮の両親、担任、校長を交えての話し合いが校長室で行われた。

 その間、病院から帰った(ついでに外で昼食をとった)田月と二宮は隣の職員室にいた。二宮は一度家に帰り、午後の授業も放棄していた。そのまま家にいても良かったが(寧ろ両親には学校にいることを心配された)、話し合いが終わって両親の顔をすぐに見られる方が、精神的に楽だった。

 だが、そこに田月がいたのは想定外だ。二宮は今日のことを含め、田月との距離は測りかねていた。



「田月くん、怪我大丈夫だった……?」

 なんともぎこちないが、話しかけないのもおかしい。ひとまず体調のことは聞いておかないと、と二宮は思った。

 一方田月は、普段通りの口調で返す。

「あー、平気平気。一応頭撮ってもらったけど、どっこもないって。一応、二日経ったらもう一度見せろって言われてる」

「よかった……」


 ここで会話が途切れる。

 時計の秒針が半分回ったところで、また二宮が別の話題を切り出した。


「……えっと、助けてくれて、ありがとう。……それから、ごめんなさい」

「何が?」

「……え」

「二宮は俺に、何か悪いことしたか?」

「……えっと」


 ここでまた会話が途切れた。

 二宮は俯く。

 時計の長針が一周した時、沈黙を破ったのは田月だった。



「ごめん」

「え?」

「大変な時に、お前の母さん取っちまったな」



 思えば田月は、初めて人に謝ったかもしれない。

 だが、二宮はそれを即座に拒絶した。




「謝らなくていい!」

「え?」

「田月くんが、一番大変だったんだから。謝らなくていい!」



 私のせいで殴られたんだから! 強い口調で二宮は言い切った。



「……いや、二宮が大変だっただろ。間違いなく。それに殴られたのは二宮のせいじゃないし」

「いーえ私のせいです! もし田月くんがあーしてくれなかったら、きっと私の頭皮はずるっと剥けていたはずです! ありがとう田月くん私の頭皮守ってくれて!」

「あ、……うん」

 これは、笑うところか……? 田月はかなり悩んだが、結局笑うことはしなかった。



 だが、それで空気は大分緩んだのだろう。

 それから途切れることはなく、会話は続いた。

 なんてことのない、他愛のない話だ。「今日何食べたんだ?」「カレー。一度家に帰って食べたの。お父さん、カレー好きだから……」「へぇ」「お父さん、うっかりすると毎日カレー食べそうになるんだよ。まいっちゃう」「インド人みたいだな」「日本のカレーはイギリスのもので、インドのカレーは煮込み料理の総称だよ。おまけに外国人しかカレーって言葉は使わないって聞いた」「誰から?」「……お父さん」「ぶはっ。本当に好きなんだな」

 本当にくだらない話だ。けれど田月は、今まで生きてきた中で一番心地よく喋っていた。くるくると二宮の表情が変わっていたことも関係しているかもしれない。この顔は、普通は二宮家しか見られない表情だ。今、両親が一つの壁を隔てた場所にいるから、こんな顔を見せているのだろう。


 彼女にとって家とは、――両親がいる場所は、心から安心できる場所なのだ。



「お前の母さん、すごい人だな」

 ふっと、意識せずに、田月は杏子のことを話した。大人のことを、それも友人の親のことを話すなど、初めてだ。ましてや、こんな風に、気づいたら尊敬の念を込めて言うなんて。

 二宮はわかりやすく眉をひそめた。


「……それは、ものすごく変ってこと?」

「変じゃなくて、奇特な人ってこと」


 奇特。言葉や行い、心掛けが優れていて褒められるさま。

 どこかの辞書の内容を思い出した二宮は、即答する。



「それは言い過ぎ。あれは、変な人。変人」

「んな真顔で……」しかも言い聞かせるように言うなよ。

「……そりゃ、自慢の母親ではあるけど」



 そこで言葉を止め、二宮は俯いた。


「……腹、悪かったってな。ここんとこ、休んでいたのはそのせいか」

 田月は尋ねた。「間違いなくストレスだろ。なんで杏子さんに相談しなかったんだよ。あの人なら、絶対的にお前の味方になっただろ」

「……恥ずかしくて言えなかった」


 長い睫毛が、綺麗な楕円の瞳に影を落とす。


「忘れ物したり、遅刻したりするのって、やっぱり悪いことでしょう? それを指摘されて泣いたりするのは、親に甘やかされているからって……自分の悪いところを認めないのは、わがままで自己中な人間がすることだって」


 おいブーメランじゃねえか、と田月は心の中で突っ込んだ。

 名前は伏せられているが、そんなことを二宮に言うのは担任だけだろう。どの口が言うか。散々自分の不注意と勘違いで生徒を振り回したのは誰だ。それらを全て、生徒のせいだと喚いたことも忘れない。


 けれど田月は、そんな矛盾だらけで不始末を子どもに押し付ける大人のことを、なんとも思わなかった。正面から向かい合う方がバカを見る。適当に聞き流して、あとは巻き込まれないように息をひそめるだけ。

 そうやって、今までやり過ごしてきた。間違いだとは思わない。


 ――けど、それだけでよかったのだろうか。


 泡沫のように浮かんだ疑問は、何かを苛む気持ちも連れてきた。それを振り切るように、田月は言葉を放つ。




「聞き流せばいいんだよ、んなもん。いっつも思ってたけど、あんな矛盾だらけの言動、一々取り合う必要なかったんだぜ」



 言ってしまって、しまった、と思った。

 自分と二宮の感性は大分違う。繊細な奴にとって、この言い方は冷たいと感じるかもしれない。ひょっとしたら泣かれるかも。

 それから生じる感情は、弱い奴が一々めそめそする姿を見たくない、面倒くさい、という気持ちではなく、「嫌われたらどうしよう」という恐れだった。――その感情を自覚したのは、もっと後のことだったが。

 だが二宮の声は、どこまでも穏やかだった。



「……自分のいたらなさが、親のせいだなんて、思われたくなかったの」


 だから、注意されたこと全部、受け入れないとだめだって思ったのかも。二宮はそう言った。


「他人の悪口に耐え切れなくなったのも、誰かを思いやるとか、悪口を言われたら悲しいとか……それを平気で否定することが、まかり通って欲しくなかったから。ダメだって教えて育ててくれた人を、悪く言われたみたいで」


 でも、やっぱりだめだったのかな、と二宮は言った。


「……私が聞き流せないで、バカみたいに真面目にとるから、だからこんな、大げさなことになっちゃった」


 どこか諦めたような投げやりな言い方は、扉が開く音と重なり、紛れてしまう。

 校長室に通じる扉から、二宮の両親と、何故か涙目の担任の姿があった。

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