幕間と田月翔太と大人の話

 同じ頃、田月翔太もまた、二宮と同じところまで語り終えていた。

 佐藤は苦々しい面差しで、シャルルは信じられないという風に口を開けている。


「殴られたって……大丈夫だったの……?」

「あー、平気平気。一応病院に連れていかれたけど、鼻血すら出てなかったから。うまーく後ろに吹っ飛んだのが功を為したな」

「それボクシングの上級者防御術だろ。なんでそんなこと出来たんだ……」

「杏子さんに教えてもらった」


 ずるっと聞いていた二人が前のめりに倒れた。


「……なあ、聞き間違えじゃなきゃ、その技、二宮さんのお母さんから教わったってことにならないか?」

「だからそー言ってんじゃん」

「ちょっと待って二宮さんのお母さん何者⁉ あの時の人だよね⁉ 体育祭に来たとんでもなく若く見える美人!!」

「だからそー言ってんだろ二度言わせんな」

「何でぼくにだけ辛辣⁉」

「お前この状況で辛辣じゃない理由があったら言ってみろや」

「ごめんなさい」

「た、田月、それぐらいにしてやってくれ……」

 佐藤は冷や汗を流しながら止めた。――確かに大体悪いのはシャルルだが、もうこれ以上友人の身体が小さくなっていくのは見たくない。


「そ、それで? どうなったんだ?」

「ああー……ひとまず、親を呼び出されたんだけど、その頃ばーちゃんがうっかり骨折して、入院してたんだよなー。それで、代わりに杏子さんが来てくれた」

「杏子さんが?」

「そー……それで、あー、大人にかなわねえーって初めて思ったー」



                   ◆



 杏子は、自分を病院まで連れて行き、診断書を貰った後、「今日は、うちでご飯食べましょう」と誘ってきた。

 いえ、そこまでは、と断ろうとすると、いいえ食べましょう、と押し切られる。困ったな、と田月は悩んでいた。――ここしばらくは食事の誘いを断っていたのだが、今日は随分押しが強い。


 一人で食べるなんてことは、両親と暮らしていてもざらだった。むしろ、人と同じものを食べ、同じ時間に食べないといけないと思うと、自由を損なわれた気分だ。だったら、一人気ままにコンビニのおにぎりを食べたほうがいい。好きな時に食べられて、好きな時に止められる。本気でそう思っていた。

 だから、誰かと食事することは、苦痛を伴うものだとも思っていたのに。


『田月くんは、本を読むか? 良かったらこの間出した児童書、感想を聞かせて欲しいのだが……』年上の男性でおまけに強面なのに、まったく威圧して来ない、どこか柴犬のような人懐っこさを持つ父親の正和。

『田月くん結構喧嘩してきたでしょ~。手のひらの怪我でわかるよ~。あのね、かわす時は殴られた方法に逆らわず流すようにすれば、ダメージほぼないよ~』温厚な顔で、喧嘩の秘伝を教えながら食事を作ってくれる、母親の杏子。

『え、今日のごはん? せっかく翔太くんいるんだし、翔太君の好きな奴にしよーよ』自分の食べたいものより、田月の食べたいものを優先する、二宮。

 温かい御飯がある。自分の好みを考えて出された食事がある。常に笑い声と会話が途切れない。「……クマバチって巣はあるのか?」脈絡のない正和の質問により、突如始まる調べものタイム。



 ……気づけば田月は、客人として来るのではなく、一人の家族として食卓の場にいる気になっていた。

 喋るつもりはなかったのに、いつの間にか会話に加わっている。当たり前のように食事の準備に参加し、洗い物をしている。

 おかしい、と思った。こんな無条件に、愛された子供のような扱いを受ける謂れはないはずだと。

 二宮ならいい。実の娘なのだから。けれど自分は、他所の子だ。

 そこまで甘えていいはずがない、と何度も自分に言い聞かせた。

 けれどあんまりにも居心地すぎて、自分から遠ざける気になれず。二宮を理由にしなければ、ずっと参加し続けていただろう。


 暫くして、教室で自分と二宮の関係を囃し立てる同級生バカが出てきた。大分品のない囃し立てだ。それをいちいち反論していた二宮は、どんどん暗くなっていった。

 そんなの適当に聞き流せばいいじゃねーかと思った。けれど仕方ない。それが出来ないから、二宮は苦しんでいるのだ。と、二宮を理由にして、田月は食事の誘いを断ることにした。

 それは自分に対する言い訳だということに、薄々感づいていたけれど。


 やんわりと拒否し始めた田月に、杏子はなんとなく心配そうな顔をしながら、受け入れた。ここしばらくは食事に誘われていない。

 けれど今日は、絶対に引く様子を見せなかった。


 どうして他所の子の面倒なんて見てるんだろう、この人は。

 二宮家に向かう車の中、田月は運転している杏子に言った。


「あの……俺、大丈夫ですよ。割とこういうの、慣れてるんで」


 返事は来ない。

 聴こえなかったのかな、と思いつつ、田月は続けた。


「……前の学校でも、殴られたことありましたから。俺、身体小さいんで、弱っちく見えるらしくて。抵抗したら、今度は暴力的な奴ってレッテル貼られましたけど、それから教師にも同級生にも殴られることは無くなりましたし」

「……」

「過去に何度か変な男に付きまとわれたこともあって、この間は誘拐されそうになったけど、なんとか撃退できましたし……」

「……」

「……あの、だからその……えっと……」それ以上は、言葉が出なかった。



 殴った張本人――3組の担任は、『誠に申し訳ございません』『ですが指導で』『教師に水を掛けるなど生徒としてあるまじき』とはっきりしない言葉を続けていた。杏子はそれを『今謝罪は結構です』という一言で遮り、



『あなたの体格と彼の体格の差を考えて――本気で殴ったら、怪我だけじゃすみませんよね? まずは彼を病院へ連れていきたいのですが』



 そう言ってさっさと田月の手を引き、病院まで連れて行ったのだ。

 病院だって、今まで散々一人で行っていたし、今日だって一人で行けたんだけど……。



「……もし君が今まで、一人で何とか出来てきたというなら、それは前借よ~。大事な子ども時代がなくなるから、気をつけてね~」

「え……」


 子ども時代が無くなる?

 それは別にどうでもいいことでは? と、田月は思った。

 子ども時代なんて、何の生産性もない。常に大人に管理され、時間さえ自由に手にすることが出来ない。何もできない。


 それだったら、とっとと大人になって独り立ちすれば。誰にも迷惑をかけることなく、一人で何とかできるようになれば。

 誰にも構われず、誰のことも気にせず、気ままに生きていける。


 そう考える田月の心を見透かしたように、杏子は言った。



「子どものうちにね、守られないと、守ることが出来なくなるのよ。……自立っていうのはね、他人からちょっとずつ助けを請う力だから。助けてくれそうな人を、見抜く力が必要なの」


 だから今は何も考えずに守られておきなさい、と杏子は言った。


「それであなたが私に恩を感じるのであれば、大人になった時に子どもにしてあげて。自分の子どもであれ、よその子どもであれ」


 ……いいんだろうか。この優しさに甘えて。

 よその大人に、そんなことしていいのだろうか。

 はじめて言われた言葉に、田月は戸惑いを隠せなかった。


「……けど、二宮、いや、杏寧さんは。多分杏子さんが必要だと。一番まいってんの、あいつだし、娘だし……」

「あの子には今、まー……お父さんがついているから、大丈夫。あ、もしかして今あの子と顔合わせづらい? だったら、昼食がてらファミレスにでも行く?」

「え⁉ いや、そういうわけじゃ……」


 その通りだった。

 きっと、二宮も自分とは顔を合わせづらいだろう。なにせ、下世話なことを騒ぎ立てられて以降、距離を置き始めたから。……自分はそれに付け込んで、二宮家から距離を置いたわけだが。

 だが、さすがにそこまで甘えるわけにはいかないと思い黙る。


「あ、あの子のことは気にしなくていいよ。なにせ、私に君を頼んだのはあの子だから」

「え?」

「『お母さんごめんなさい』『田月くんを巻き込んだ』『お母さんお願い、田月くんを助けて』って、何度も繰り返してたよ。もちろんお祖母さんにも頼まれてたけどね。……ねえ、田月くん」



 まだ詳しいことはわからないけど。

 あの子の味方になってくれたんだよね。ありがとう。


 その時の杏子の顔は、田月の席からは見えなかった。

 ただ、ひたすら柔らかい声が、田月を安心させる。

 安心して、つい、甘えた。



「すみません……外で飯、いいですか?」

「あらいいわよ~。どこいこっか~。田月くん、行きたい店ある?」

「じゃあ……洋食で……」



 気を緩めてしまうと、泣いてしまいそうだった。

 というか既に涙で視界が歪んでおり、出る声は鼻声だ。


 怒られると思っていたのだ。二宮杏寧を守らなかったことに。

 こんなことになるまで、自分は一つも助けに入らなかった。

 助けに入ったところでややこしくなるだけだと分かっていたし、大体の問題は気の持ちようだ。自分のために他者が変わることなどありえないし、自分でどうにかしないと解決しないことだとも思っていたから。

 けれどそれは、二宮を大事に思う人間からすれば、見捨てているのと同じことだとも理解していた。


 田月翔太は、今まで生きてきた中で、一番ほっとしていた。

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