『6-1、24番。私は、二宮杏寧』
お腹が痛い。
腸も痛いけど、胃も痛い。
頭も痛い。
あれ、痛くないところあったっけ? 痛くない日があったっけ?
わからない。
でも、今日は特段に痛い。
なんで生理なんてくるのかな。
こんなのなかったら、もうちょっと楽なのに。
なんか、だるい。
行きたくないな。休みたいな。
でも、昨日、休んじゃったな。
ごはんをたべるのもおっくうだし、眠るのも怖いし、起きるのは辛い。
そう思うのって、だめだよね。
生理は病気じゃないし、世の中にはもっと病気で大変な人たちがいる。その人たちに比べたら、私の体調は『仮病』なのだ。学校は行かなくちゃ、だめだよね。だって学校に行けない子どもだっているんだもの。食べられない人がいるのに、食べられる私たちが残しちゃダメなんだよね。良い子は早く起きて、早く寝る。三文の徳だ。遅刻してくる子は悪。低血圧なんて言い訳。
学校に行きたくないなんて、多分私が間違っているんだ。間違っているから、正さないといけないんだろうな。
そう思いながら、学校へ向かう。教室、遅刻しないで間に合うかな。
……でもやっぱり、行きたくないなあ。
チャイムが鳴るギリギリで、教室に入る。
大分賑やかな教室。でも皆、先生が来た瞬間に座れるよう、自分の席に近い場所で喋る。
ランドセルを教室の後ろにあるロッカーに入れる。ロッカーの上には、今日も花瓶の花が揺れている。
六月はじめに挿された紫陽花はすでになく、代わりにひまわりの花が挿されていた。
なんで先生、花を持ってくるんだろう。
先生は、「花をきれいだと思うことで、よい心を育てる」と言った。
でも私は、きれいなんて思えない。
花瓶に挿すだけ。誰かが愛でている様子はない。枯れて落ちた花びらは、花瓶の水の中に浮かんではぐちゃぐちゃになって溶ける。むしろ汚い。その汚い花をゴミ袋にいれると、濡れた水が袋から零れて、焼却炉に持っていく時手が濡れる。汚い水に、触りたくない。
そう思う私は、悪人なんだろうか。
わからない。
自分のことがわからない。
私の思っていることは、本当に正しい? 自己中心的で、空気が読めなくて、独りよがりになってない?
私が何か言えば、クラスの和を乱してしまわない?
私が泣くから、授業が進まないと言われ、怒鳴られた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
私も、どうしていいのかわからないんです。どうして涙が出るのか、もうわからないんです。中学受験をする人、ごめんなさい。騒がしくして、邪魔してごめんなさい。他の人の足を引っ張ってごめんなさい。
涙が出ないように歯を食いしばってみるけど、やっぱり涙が止まらないんです。声を出さないようにしたいのに、しゃっくりみたいに止まらないんです。
存在ごと、消してしまいたい。
そうしたら、皆に迷惑かけないで済むのに。
授業の準備をする。一時間目の授業は、社会。必要なものは、教科書と、資料集と、地図帳。
用意している時、誰かの泣き声が聞こえた。
私の席は、教壇から向かって教室の左上の角にある。その対角の席の子が泣いている。ボブカットの、大人しめな女の子。その子より背が高くて、綺麗なロングの髪の子が、背中を撫でて慰めていた。
一度も話しかけたことはない。でも気になって、私はその子たちの会話を聴いてみる。
「ちず、ちょう、わすれちゃったぁ……。おこられるよぉ……」
「他の教室の子に聞いてみた? 持ってるかもよ?」
「ないっていわれたぁ……! どうしよう、おこられる……っ」
どうしよう、と、おこられる、を繰り返し、泣く女の子。
青ざめた顔で、それでも落ち着かせようとする、その友達。
それを見て。
その、泣いている子を見て。
私の頭の中で、糸が切れてボタンがはじけ飛んだような、そんな音がした。
「はい、授業を始めます。でもその前に」
いつも通りの授業の始まり。
忘れ物をした人のあぶり出しが始まる。
「忘れ物をした人、正直に手を上げなさい。挙げないと怒ります」
じろっと、先生が睨みつけた。
――正直に手を上げたところで、怒鳴られるのは目に見えている。
けれど、挙げないわけにはいかない。
先生は、それぞれ一人ずつの机を見て回る。そして、教科書、資料集、地図帳が本当にあるのかを確かめる。嘘がばれたら、その倍怒られる。
……本当に『倍』なのかは、わからないけどね。でも、「正直に報告した」という名分は出来る。その正直さがあるから、「自分は黙っている人間よりましな人間」と思えるところがある。
私は。
堂々と、手を挙げた。
迷わず、誰よりも先に手を挙げる。
恐る恐る挙げようとしていた、あの泣いていた子が、こちらを凝視しているような気がした。
先生が、こちらへ向かってくる。
私は顔を上げない。
コツコツと鳴る、先生の上履きの音が止む。先生の重い溜息が、わざとらしく響く。
「……二宮さん。どうして地図帳を忘れるのですか? あなた、どうやって授業を受けるのですか?」
私は、まだ顔を上げない。
でも、声だけは、毅然として上げる。
震えないように、しっかりと。
「先生。地図帳がなくても、授業は受けられます。もし地図が必要なら、私、紙に日本地図描けます」
私の、数少ない特技。
都道府県がどこにあって、どの県と隣り合っているか、地図ごと覚えている。
日本地図なら、何も見ずに描ける。
その私の答えに、先生が怒鳴った。
「口答えしないっ!! 忘れ物して、あなたこの先社会でやって――」
でも、その日は。
私も――怒鳴った。
「なんか大切なものの順番間違ってない⁉」
立ち上がって、叫んだ。
座っていた椅子が、後ろに吹っ飛ぶ。
その音に、私の視界に入るすべての人の肩が、飛び上がった。
反撃されると思っていなかったのであろう。
先生が怯えたのを、私は忘れない。
「たかが忘れ物をして、どうしてこんな風に! 言われなきゃいけないの⁉ ねえ、それより大事なことあるでしょう⁉ いじめられている子がいるのに、泣いている子がいるのに――どうして助けないのっ⁉」
ふざけるな。ふざけるな。
「悪口言われたら傷つくとか、無視されたら悲しいとか! 誰も助けてくれないの怖いとか!! なんでわかんないの⁉ 自分がそういう立場になったらって――どうして考えないの⁉」
どいつもこいつも、なんで声を上げないんだ。どうしておかしいって言わないんだ。
誰か一人だけに押し付けて、安全地帯? 『自分には関係ない』?
反抗しないで、黙ってやり過ごすのが賢い手?
そうやって――後で「先生が嫌だった」「先生がうざかった」って文句を言うのは、自分たちの癖に。
「遅刻しても忘れ物しても、それでその場でどうしようもないの、わかんないの⁉ これ以上どうしようっていうの⁉ そんなことに時間かけるんだったら、授業進めてよ!! 一人が忘れたって、残りの三十二人にはカンケーないじゃん!!」
どうしてその人のミスを、全員の責任だなんて言い張るんだ、この人は。
忘れることなんて皆する。当たり前じゃないか。
どうしてそんなことで、ここまで怒る必要があるのだ。
「忘れるの悪いのわかってるよ! でも次気を付けるとか! そんなんじゃだめなの⁉ ねえ先生、そこでこんなに怒鳴る必要ってあるの⁉」
「だ――黙れ!! 黙れ二宮!! うるさいうるさいうるさい!!」
ぐい、と髪を掴まれた。
痛かった。
先生の顔が、怖かった。
もう自分が何を言っているのかわからない。涙が止まらなかった。涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだった。
声が震え、枯れ、呂律は上手く回らない。きっと、教室の皆には、何を言っているのかわからないだろう。でも、言葉を止めることは出来ない。
怖くても、痛くても、私は怒っていた。
どうせ伝わらない。伝わらなくてもいいと思った。
この後、どうなってもいいと思った。――ここで、怒鳴り散らせるならと。
そんな状況を静めたのは。
つかつかと教室の後ろへ向かい。
ロッカーの上にあった花瓶を、持ってきて。
私の席の隣の机に立って。
花が入ったまま、花瓶をさかさまにし。
バシャっ。
花瓶の水を、先生の頭にぶっかけた、田月くんだった。
ポタポタと、先生のパーマがかかった髪の毛から、水が落ちる。
その水は、机の上に溜まっていく。
床には盛大に、水と、ひまわりの花が落ちた。
「うるせえんだよ。クソバアア」
田月くんの声が、静かになった教室によく響いた。
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