突撃! 二宮家の晩御飯 終
ある影が、爆走していたバイクを横から吹っ飛ばした。
その影は素早すぎて、正体がなんなのか、田月には認識できなかった。
――まあある程度予想はついていたのだが。
「ぎゃあああああ⁉」
思いっきり飛ばされたバイクは、そのまま不愉快な音を立てながらアスファルトの上を滑る。恐らくかなり傷がついただろう。バイクにもアスファルトにも。
乗っていた人間はと言うと、アスファルトに直撃する前に、飛んできた影に支えられた。そこでようやく、その影が人間であることに気づく。ただ、微妙に街灯の光の外側に立っていたので、顔は逆光し見えなかった。――まあ正体わかるのだが。
乗っていたのは20代くらいの金髪の青年だ。髪の色が判別できたのは、ヘルメットを被っていなかったからだ。そのまま頭をうてば金髪が赤毛になっていただろう。血で。
彼を支えていた影は、どうやったのか青年を座らせた。尻もちをつかせたというべきか。その時、雲が晴れたのか、差し込んだ月光によって人影の顔が判明した。
ごく自然に立っていた人影は――ごくシンプルなTシャツとキュロットを着る杏子だった。
彼女は微笑んだまま、青年に話しかける。見下ろしながら。
「坊や、よく聞いてね。この時間帯ってね、涼しいせいか、ご年配の方がよく散歩の時間に使っていたりするのよぉ。それでね、あろうことか、こんな暗いのに黒い服装で出歩くの。そういう時、ヘッドライトで照らしても、本当に目と鼻の先まで近づかないと見えないのよね。それはもちろん、その人たちの注意不足というのも否めないけれど――」
そこで一度言葉を切る。静かで、囁くような声だった。正義感ゆえの怒りや、爆音で気分を害された負の感情は見えない。
「だからってねぇ、この人通りの多い住宅街で、こんな風にバイク飛ばしていいなんてことはないのよぉ。人じゃなくても、猫を轢いたりするかもでしょう? ――坊や、何歳? 名前はなんていうのかしら? 何処の学校? もしかしてもう働いている? このことが学校や仕事場でバレたら、どうなるかしらね? SNSで『こういう人がバイクを爆走させています』って投稿したら、『個人情報の流失』って言われて炎上するのかしら? 私はおばさんだから、あまりSNSはわからないのよねぇ」
ああでも、と杏子は続ける。
「回覧板に書こうかしら。触れ込みはこうよ、『最近シャレにならない暴走バイクが付近を爆走しております』。ついでにあなたの顔とバイクを写真にとって添付しましょう。公民館の掲示板にでも貼ったら、皆あなたのことを監視……認識するわねぇ。奥様の井戸端会議にも流しましょう。あなたこの町の人でしょう? 噂好きの奥様の手に掛かれば、簡単に親元がわかるわねぇ。まあそんな回りくどいことをしなくても、免許証を見れば大体――あら」
と、いつの間に取ったのか、彼女の手には免許証が握られていた。それを眺め、感嘆しながら杏子は言う。
「あなた、北原さんちの息子さん? 西1-39に住んでいる」
その住所は、ここからだとかなり離れた場所だった。
「なッ、なんで住所ッ実家の」先ほどの悲鳴で喉がやられたのか、掠れた声でようやく青年が口を開いた。
「そう言えばあなたのお母さま、息子はあなたしかいないって言っていたわ。たくさん話をするわけじゃないけど、教育熱心な方よねえ。あなた、東京の大学にいたんですって? とっても偏差値の高い。だけど上手くいかなくて退学して、地元に戻って来たって言う――だけど頑張って仕事をしているんだってお母さま誇りに思っていらっしゃったわ。建前や肩書より子どもの幸せを第一に考える、良いお母さまよねぇ」
「は、はおやだけには、い、」
「ねえ坊や。さっきあなた、注意した私に向かって、『うるせえクソババア!』だの、『働いてねぇ主婦が偉そうな口きくんじゃねえよ』だの、『田舎の人間ひき殺したって全国には流れねぇよ』だの、散々言ってくれた上に更にスピード上げたけど――」
凄絶に、杏子は微笑んだ。
月明りではない、丸い瞳に灯る光が、剣呑に輝く。
「主婦と田舎をなめると、痛い目遭うわよぉ? 坊や☆」
ガクガクと震えながらしきりに頷く青年に、杏子は微笑みながら「よしよし、良い子ねぇ」と頭を撫でた。
割と見慣れた光景だが、それでも田月は、やっぱり口を開いて眺めてしまう。いつからそこにいたのか、二宮が背後から来てこういった。
「……私ね、そろそろうちの母親は、警察に厄介になるんじゃないかなって思うんだ」
「いや……誰も信じねえだろ」
爆走するバイクを、横から走り幅跳びの要領で吹っ飛ばしたなんて、誰が信じるだろうか。しかも結局のところ誰も怪我はしてないし――そもそもの落ち度は青年の方にある。
自分の手を汚すギリギリ手前のところで、法律には触れず、巧妙に物事を進める。それが恐らく地上最強の主婦、二宮杏子である。それだけだと恐ろしい悪党だが、彼女はこれ以上ない善人だろうと田月は確信している。自分の技量に絶対的な自信を持ち、肝も据わり、義理人情に厚く、身内だろうと他人の子供だろうととことん守る、「武人」気質の人だ。
そりゃこんな母親だったら、二宮も安心して家の中にいるよな、と思う田月だった。
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