アネさん探偵と小学生 7
「わかるよ」
声を絞りだして、二宮は答えた。
「とてもよくわかる。私も、良く『大人っぽい』って言われていたから。今も言われるけど。色んな責任とか、仕事とか任されて。たくさん傷ついたし、苦しかった。昔はね」
「……今は?」
「今はね、『大人になりたい』って思うから、大丈夫」
カズオが食いつくように、隣に座る二宮の顔を覗き込んだ。
「どうして? どうしてそう思えるんですか?」
「多分、好きな人ができたからだと思う」
二宮の脳裏に、田月の顔が浮かぶ。
「私の好きな人は、私なんかよりずっと『大人』なの。……その人の弱音を、私は聞いたことがない」
いや、ゴキブリを倒してくれとか、古典にコテンコテンにされた、というのはしょっちゅう聞いているが。
そうではなく、自分で決めることは自分で決め、自分の心を自分で立て直す力を、彼が持っているということだ。
「その人はご両親がそばにいなかったから、きっと私が両親に相談できることが、出来なかったと思う。それは、私が考えている以上に、大変だったんじゃないかな」
二宮は、田月の家庭を詳しくは知らない。知っていることは、現在母方の祖母と二人暮らしだということ。祖父は他界したこと。母親が著名な学者ということ。……父親の話は、しないこと。
親がいない環境が、田月翔太という人間を作った。それが不幸なのか幸なのか、二宮にはわからない。決める権利もない。
「その人はとっても頼りになる人で、でもね、頼りになるからって、全部厄介ごとをその人に押し付けていいなんてことはないの。頼まれたからって、無理だったらNOって断っていいの。なのに、それが出来ない時がある。……この願いを断ったら、その瞬間崩れてしまうほど弱い人だったら。自分が引き受けないと、この人は死んじゃうんじゃないかって思ったら。……殆ど脅迫だよね」
それが、小学校六年時代の二宮と、当時の担任の関係だった。
担任はとても痩せていた女性だった。特に手首は、きっとカズオの手首より細かった。たしか五十過ぎだったはずだ。けれど白髪は見当たらず、恐ろしく黒い髪をしていた。パーマがかったセミロングの髪。真っ赤な口紅。顔は白粉がはがれた人形のそれによく似ていた。子どもの二宮から見ても、弱弱しい姿で。いつも貧血を起こして倒れそうだった。
なのに、怒鳴り声は恐ろしく。二宮の周りに怒鳴る大人は殆どいなかった。甘やかされていた、と言われても否定出来ない。けれど、彼女の怒鳴りは度を越していた。一人でも忘れ物をすれば怒鳴る。給食を食べるのが遅くなれば怒鳴る。掃除するのが遅くなれば怒鳴る。何か一つ失敗しただけで、全員の前で怒鳴り散らす。連帯責任だと言って、全員を怒鳴る。あの人を怒鳴らせないようにするには、全員が完璧な『優等生』でなければならなかった。――そんなことは、出来るはずがない。
その全員を『優等生』にする役目を、二宮は担任から押し付けられた。誰かが失敗すれば、必ず彼女も連帯責任として一緒に怒鳴られた。
常に気を張らなければならなかった。担任は閉じた教室の中では神様だ。たった一人しかいない、神様の機嫌ひとつで教室の空気が左右される。
怒っていない時は、必ず笑っていたけれど。笑っている顔が怖かった。口は笑っているのに、目はいつも爛々と。キラキラという形容詞は的外れで、けたたましく鳴る警報機のような光が、黒い目に宿っていた。あの人が自分を見ている、その恐怖が家に帰っても付きまとっていた。
先に身体が壊れた。二宮は、朝起きられなくなった。夜中腹痛で目が覚めることが度々重なり、中々寝付けなくなった。給食の時間を思い出して、食事をするのが怖くなった。登校拒否を決め、安全地帯である家にいても、担任の怒鳴り声が頭に響いていた。逃げているはずなのに、逃げられなかった。
なんの不自由もなく、健康な体で産んでもらったのに。普通の生活をおくれない自分が赦せなかった。両親に申し訳なくて、悲しかった。
二宮の体調不良がきっかけで、二宮の母杏子が動いた。二宮の両親と、担任と、校長を交えた話し合いが行われ、その後、緊急保護者会が開かれた。その結果、クラスの半分が断続的に「休んで」いることが判明したらしい。その中でも、二宮を始めとする数人は通院している状況だった。
その現状と、保護者ごしに伝わる生徒の発言から、どう考えても担任が原因だった。
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