第59話 世界に光が差し込む

 とんでもない事実が明るみになった。

 使用人たちは、みな、互い互いに顔を見合わせていたが、やがて視線は雇い主へと向かい、エヴァンス家の執事長が、「旦那様……」と、呟くように言った。

 エドラディとヨーコらが去っていくや否や、驚愕によって沈黙を強いられていた一同の時間を、マギーが動かした。

「ドリスさん」

 ドリスは我に返り、マギーに向き直った。

「この度は、うちの愚息の犯した愚かな行い、非礼の数々、お許しください」

 深くこうべを垂れるマギーに、ドリスはただ呆然と頷くばかりだ。彼はまだ、己の眼前で明らかになった事実を受け入れることができないようだった。

「此度のこの婚姻、非礼を承知でこちらから辞退させていただきたい。このような事態を、我が愚息が招いてしまったこと、心より深く謝罪申し上げる」


 かくして、無事にキーリとエドラディの婚約は破棄された。彼の悪事は陽光の下に明らかとなり、正しき法の下で鉄槌が下ることだろう。めでたし、めでたし。

 ……さあ、この町での務めは終了。キーリを解放した二人の誘拐犯――ジェイとライゼは、彼女の未来を後押しするかのように、その華奢な背中をそっと押した。


「じゃあな、キーリ。さようならだ」ライゼが、春の日差しのような声で言った。

「あ、待って――」

 振り返った刹那、びゅう、と一陣の風が吹いた。次に目を開けたとき、そこに彼らの姿はなかった。開け放たれた扉の向こうから、さわやかな港の風がそよいでくるばかりである。

「あ……」

 二人の姿を求めて、手を伸ばした――その時、

「キーリ」

 背筋を凍らせる声が、彼女の耳朶を撫でた。恐る恐る振り返ると、そこには相変わらずの仮面で本心を隠したシュードレが立っていた。

「……シュードレ」

 キーリは、背筋が伸びる思いで義母に向き直った。

 義母は、背中に長い棒切れでも入れてるみたいに姿勢を正し、つかつかとキーリの目の前まで歩を進めた。

 無言の凄みに圧倒され、思わず後退ろうとしたが、次の瞬間に起こった出来事が、彼女にそれを許さなかった。


「無事でよかった」


 冷たい表情は一切変わらなかったが、囁くように放たれた言葉には安堵の響きがこもっていた。――聞き間違いかと思った。

「え……」

 そして次の瞬間、微かなジャスミンの香りがキーリを包み込んだ。シュードレが気に入って愛用しているルームフレグランスの香り。彼女の部屋は、いつもこの香りに満ちている。

 自分が、心の底から嫌悪している母の腕の中に閉じ込められていると悟ったのは、いくつか瞬きを繰り返してからだった。

「シュー……」

「ごめんなさい」

 シュードレが、聴いたこともないような弱々しい声音で言った。いつもの氷のような声からは想像がつかないほど、温かな慈愛と、激しい後悔に満ちていた。

「今まで、ごめんなさい」

 ああ、とうとうあたしの耳はおかしくなってしまったのだわ。キーリはそう思った。そうでなければ、あの冷徹で情の欠片もないような女の口から、そんな言葉が出てくるはずがないのだから。

 ……しかし、シュードレの謝罪の言葉は続く。


「私は不器用な女だわ。前妻のループを愛している貴方に、後妻の私は一体どうやって接すればいいか、わからなかった。ドリスから、貴方は賢くて人懐っこい、愛らしい娘だと聞いていたから、血の繋がりがないことなど、最初はなんの試練にもならないって、そう思っていた。けれど、エヴァンス家に嫁いできたとき、貴方は私を拒絶したわよね。当たり前だわ。本当の母親ではないんですもの。貴方の母親はループ。私は、エヴァンス家唯一の他人です。幼かった貴方が、新しい母を受け入れることが出来なくて当然です。けれど私は、貴方のそういう態度が悲しかったと同時に、ほんの少しだけ目障りだった。娘となる貴方に舐められては、立派な母親にはなれないと思ったわ。だから、貴方に対してあのような冷たい態度を。ごめんなさい、キーリ。私は母親失格です。今まで通り、私のことは他人だと思ってくれて構いません。けれど私は、貴方のことは本当の娘だと思っているわ」


 キーリは言葉を失った。

 これがあの冷徹な女、シュードレ・エヴァンスの言葉だと、信じることが出来なかった。

 けれどその言葉は彼女の耳元で、偽りのない愛情となって、愛しい娘の心に深く染みわたっていった。

 この言葉に偽りはないと、キーリは確信した。

 ――もしかしたら私は、この人を誤解していたのかもしれない……。

 心が解れてゆくようだった。まるで、氷に包まれた世界が、雲間から顔を覗かせた春の太陽によって恵みの季節を迎えるかのように――。


「シュードレ……いえ、おかあさま」

 シュードレは娘を抱きしめたまま、小さく息を呑んで目を剥いた。彼女が自分を「おかあさま」と呼んだのは初めてのことだった。

「謝るのはあたしの方だわ。子どもだったあたしを許して。確かに、あたしは本当の母親を愛している。あなたを愛していなかったのは、あなたがあたしを愛していないと思っていたからです。けれど、本当の娘だと思ってくれていると知った今となっては、今までの自分の浅はかさに顔から火が出そうですわ。ごめんなさい、おかあさま。あたし、あなたを誤解していた」


 キーリは、そっと母親を抱き返した。

 果たして彼女らは救われた。エヴァンス家を襲った誘拐事件によって。

 すれ違いばかりしていた母子おやこの絆は、この家を襲った忌まわしき事件の解決と共に、長い年月をかけた末に結ばれたのである。


 ――その時だった。

「キーリ?」

 玄関の方から、若い男の声がした。

 名前を呼ばれたキーリは反射的に振り返る。そして、目を瞠った。

「カラン……?」

 そこにいたのは大好きな人、カラン・グレダ。エドラディの兄にして、グレダ家の長子である。

「どうして、あなたがここに?」

 キーリは、名残惜しげに母との抱擁ほうようを解き、彼の元へ歩み寄った。

「キーリが誘拐されたって聞いて」

「それで、来てくれたの?」

「ああ」

 カランは、照れくさそうに首の後ろを撫でた。

「そう……。ありがとう。あたしはこの通り、無事よ」

 しばらくして、二人はどちらともなく抱き合った。

「エドが、ついにやらかしちまったみたいだな」

「ええ」

「そうか……」

 二人は、囁き合うように言葉を交わした。

「キーリ」

「なに?」

「俺、やっぱり、家を継ごうと思う」

「え……」

 キーリは少し身体を離し、愛しい彼を上目遣いに見る。

「エドもあんなことになっちまったし、それに、何より……俺がお前と一緒になりたいんだ」


 キーリは、幾度となく夢見た相手からの告白に、静かに涙した。


 ――遠くの空で、結ばれた二人の姿を見つめるライゼの瞳にも、きらりと涙が光った。

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