第56話 暴け、エドラディの秘めた過去!

 夜が明けた。

 時刻は九時五十分を回ったばかりである。

 頭上を見上げた人々を覆い尽くすのは、抜けるような晴天!


 エヴァンス家の吹き抜けになった大広間には、使用人たち、ドリス、シュードレはもちろん、昨日から常駐している数人の自警団員、グレダ夫妻、そして問題のエドラディが、相変わらずの締まりのない顔を並べていた。ときに、彼の左頬が赤く腫れていることに、ここにいる全員が気付いていたが、別段誰も言及しない。

 それよりもみんな、壁にかかった大きな古時計を見上げ、そわそわと落ち着かない様子である。――シュードレだけは、いつも通りの鉄仮面であったが。


「犯人は、詳しくは何も?」

 心配そうに訊ねたグレダ夫人に、ドリスが応える。

「ええ。十時に関係者を集めろ、としか……」

「そうですか……」

 母の傍らでエドラディは、きつく口を結んだまま、ぴくりとも動かず真っ直ぐ玄関の大扉を睨みつけている。

 その真摯とも取れる瞳の奥で、彼は何を考えているのか。許婚の身を案じているわけでもないだろう。この男は、そういう男だ。この場の空気にあわせて、心にもない表情かおを作っているだけに過ぎない。そうでなければ、婚姻相手が誘拐されたというのに、呑気に別の女と遊びに行けるわけがないだろう。


 その時だった。

 玄関の外を、ヒョオオオオ……と、鋭い風鳴りが、この屋敷に向かって走ってきた。

 一同の目が、一斉に正面扉へ向く。

 バターンと大きな音を立てて、両開きの玄関扉が内側へ開くや否や、大広間のあちこちから、絹を裂くような悲鳴が沸き起こる。


 全員が、吹き付けるすさまじい暴風に顔を伏せずにはいられなかった。

 風と一緒に吹き込んでくる砂粒や木の葉が、屋敷の床を散らかす。

 広間中の酸素がかき混ぜられ、突進してくるような荒々しい潮風うしおかぜの乱舞に、呼吸すらままならなくなる。

 必死に足を踏ん張って、吹き飛ばされるのを堪えていると、強風は徐々に収まり、辺りは瞬く間に静寂に包まれた。

 各々が周囲を窺うようにそっと顔を上げると、キャビネットの上を飾っていた壺や彫刻、額縁に飾られた絵が、毛足の長いカーペットの上に無残に転がっていた。

 荒れ果てた広間内を見渡す彼らの視線が、不意に玄関口に吸い寄せられる。今まではなかったはずの二つの影が、そこに佇んでいたのだ。


「キーリ!」

 いの一番に叫んだエドラディは、玄関先で佇立する片割れ――キーリ・エヴァンスへ向かって手を伸ばした。


「動くな! 全員、動くなよ。ちょいとでも妙な動きをしてみろ。この女の命はない!」

 電話の声と比べると、些か高めに響く少年のような声。

 フードを被り、スカーフのようなもので目から下を隠した若そうな印象の誘拐犯は、手にしたナイフを、彼女の華奢な首筋にぐいと押し付けた。

 後ろ手に縛られているのだろう。キーリは両手を背中に回したまま、一切抵抗する気配がない。悲鳴こそ上げないものの、その表情は紛れもない恐怖にかたまっている。


 大広間は、水を打ったように静まり返った。そのしじまを破るように、誘拐犯は大きく声を張り上げる。

「これから、こちらの提示する条件を問答無用で呑んでもらう。エヴァンス夫妻、あなたたちが、大事な一人娘を私たち誘拐犯から取り返すすべは、他にない」

 口を噤む一同の中で、真っ先に口を開いたのは、シュードレだった。

「では、その条件とやらを教えていただきましょう」

 誘拐犯は、スムーズに話が出来そうだと判断した彼女に向かって口を開いた。

「キーリ・エヴァンス嬢と、エドラディ・グレダの婚姻を白紙にしていただきたい」

 一気にざわつきだした大広間。それを、シュードレが静める。

「理由を窺っても?」

 誘拐犯は、正面に立つエドラディを、下衆を見る目で睨みつけた。

「単純なこと。その男に、彼女をめとる資格がないからだ。……いや、違うな。その男に、平穏の暮らしを手に入れる資格がないからだ」

 ……?

 使用人たちの視線が、恐る恐るエドラディへと向かう。

「な、んだよ……。なんで僕を見るんですか!」

「お待ちなさい」シュードレは、エドラディを庇うように、

「彼はグレダ家の家督を継ぐ優秀な次男。将来のため、家のため、幼少の頃より血の滲むような努力を成し遂げてきた好青年ですよ」

 エドラディは、ほっとしたように、シュードレに目を向けた。しかし、畳み掛けるように、誘拐犯がたっぷりと皮肉を込めた声を上げる。

「フフフ、彼は大人たちの目を上手くあざむいて生きてきたようだな。の裏で、彼がどんな愚行を繰り返してきたのか、あんたは知らないようだ」

「何を言っている!」

 エドラディは、ムキになって地団駄を踏んだ。

「ときに、エドラディ? 《私》の声に、聞き覚えはない?」

「……え?」

 エドラディは首を傾げた。誘拐犯の声が、急に高くなったことに違和感を覚えつつ、別の感覚が広がるのを悟った。――聞き覚えが、大いにあったのだ。それもつい最近、数日前なんてもんじゃない。

「お前は、その声、まさか……!」

「気が付いたようですわね」

 誘拐犯は、フードを脱ぎ、顔を覆ったスカーフを取り去った。

「ああ!」

「私のこと、覚えているかしら。アイ、と名乗らせてもらいましたわよね?」

 エドラディの顔が情けないほど歪んだ。目の前のを目にして、怒りのような、はたまた謎が引き起こす恐怖のような表情を浮かべている。


 昨夜、この顔に拳を叩き込んだ不躾な女! どうしてこいつがこんなところで、キーリにナイフを突きつけて立っているのだ?

 エドラディは顔中を疑問符にしながら、言葉をなくして《アイ》に指を差している。


「昨日はどうもありがとう。エドラディ・グレダ。――フフフ、何を驚いているのかしら? あなたはね、たまたま、キーリ・エヴァンスを誘拐した主犯格の私を、デートに誘ったのよ。大事な許婚が悪人にかどわかされたというのに、あなたという人は、ヨソの女に現を抜かしていたわね」


「な、なにをわけのわからぬことを……」

 エドラディは、慌てて指を引っ込めた代わりに余裕の笑みを浮かべたが、自分に都合の悪いことを暴露されるのではないかと警戒するあまり、声が震えるのをどうすることも出来なかった。


「ね、エドラディ? これを見て」

 アイは、着ていたブリオーの胸元を示した。ウエストを締め付けたベルトより上

に、二つの金のボタンが縫い付けてあったが、一番上の――ほつれた糸だけを残して、あるはずの釦がないことに、エドラディは気が付いた。「それがどうした」と言わんばかりの顔で、一夜の恋人に目を向ける。


「昨夜、繁華街の路地であなたに引きちぎられた金の釦、返してくださるかしら?」

 些か高圧的ともとれる彼女の口調に、エドラディは刹那的に息を呑む。

「釦……?」そんなものに心当たりはなかった。

「ええ、あなたに無理矢理されそうになった時に、取れてしまったみたいなの」

「なッ……!」

 エドラディが酷く動揺するのと同時に、広間中の空気が氷点下を下回るほどに凍てついた。

「違う! オレはそんなことしていない!」

 エドラディは慌てて身の潔白を守ろうと、声を荒げた。

「アハハハハハハハ、何をそんなに焦っておいでなのかしら? 何を今更、良い子ちゃんを決め込んでいるのかしら? 哀れな坊や、彼女たちの口に戸は立てられても、私の真実を語る声は、止めることは適いませんことよ!」

 昨日の淑やかな彼女こそ、仮初の姿だったのだ。エドラディは絶望の淵に立たされ、誘拐犯の堂々たる啖呵に返す言葉も見当たらなかった。


 哀れな次男坊の項垂れる姿に満足げな笑みを浮かべたアイは、不意にキーリの傍を離れて、真っ直ぐ彼に向かって歩き出した。

 この隙に人質を保護するべきなのに、何故であろう、自警団員も、使用人も、ドリスでさえ、その場から動くことが出来なかった。悪道を極める女誘拐犯の果敢な足取りに目を奪われるばかりで、誰一人として彼女をひっ捕らえようとはしなかったのである。

 エドラディは無意識のうちに後退っていた。アイはその分、詰め寄った。

 やがて、彼女の手はエドラディの胸倉を捉え、物凄い力で自分の方へ引き寄せると、空いた方の手で彼の上着のポケットを探った。

 彼は、この行動の理由に理解が及ばず、されるがままである。


「ああ、ありましたわ。御覧くださいな、彼の衣服のポケットから私の服の釦が出てきましたわ。この釦は昨夜、彼が私を無理矢理、路地裏へ引きずり込んだときに、抵抗した際、彼の上着のポケットに落ち込んでしまったものですわ」


 アイは、細い指先で金の釦を摘むように持ち上げると、全員に見えるようにその場で一回転した。


「ほら、ご覧になって、エドラディ? 私の服についている釦と、今あなたの上着から出てきたこの釦、全く同じデザインでしょう? 偶然だなんて言わせませんわ。あなたは、昨日、キーリ・エヴァンス誘拐で大混乱に陥っている両家を尻目に、私とお楽しみでしたものね?」

 少し表現は膨らませたが、嘘ではない。彼はこの証言に負けず劣らずの下衆男である。

「フフフフフ、これだけじゃありませんよ、エドラディ。私の釦なんてものは、これから明らかになる衝撃の事実の前ではなんの効力も発揮しないし、これはただの私のお遊び。あなたをこうして動揺させるための、単なるお遊びのようなものだわ」


「……何が言いたい?」


 その刹那、アイは――否、ジェイは、藍色の瞳に燃えるような憎悪を漲らせた。

「私が何を言いたいか、知りたい?」

 その場にいた全員が、悪しき誘拐犯の言葉の真意を測りかね、口を噤んだ。

「私は知っている。その男――エドラディ・グレダの秘めた過去を」

《秘めた過去》というスキャンダラスなワードに、使用人たちは一気に浮き足立った。

「適当なこと言うな。下手な鎌のかけ方してんじゃねえ!」と、エドラディ。我を忘れて口調が乱暴になる。

「黙れェ! 言い逃れは出来ないぞエドラディ。証人だっているんだからな」

 もはやそこに《アイ》の面影はない。この謎の人物の見事な豹変振りに、一同が息を飲んだ。

「証人だと?」

 エドラディの顔から血の気が引いた。たいそうな心当たりがあるのだろう。

「数々の女性との度重なるトラブル、心当たりありますよね。その解決法は、専ら金! 女性たちの弱みに付け込んで、かなりの額の金を握らせて口に戸を立ててきたらしいが、その末にお前はとんでもない罪を犯した。なんともおぞましい、この町に大いなる恐慌をきたす大犯罪者め!」


 冷静な誘拐犯とは対照的に、エドラディは青い顔で泣き叫ぶように声を放った。

「デタラメを言うなァッ!」

「こちらにはそのが、真実であると裏付ける確固たる証拠がある」

 エドラディの顔色が、青を通り越して病的なまでの白に変わった。

「まさか、あいつら……」

 口の中で呟いた言葉は、彼を取り巻く空気を一変させた。

 その時だった。

 四人の美女が足並みそろえて、エヴァンス家の敷居を跨いだ。

 新たな役者たちの登場にざわめきだす大広間内で、唯一言葉を失いその場に膝をついたエドラディ。

 彼女らは、誘拐犯の傍らで横一列に並ぶと、八つの瞳でエドラディを睨みつけた。


「エドラディ・グレダの罪状は――」


 いつの間にかキーリの隣に立っていた男が言った。脅迫電話の声の男だった。

 もう一人の誘拐犯同様に、目深に被ったフードと口元を覆ったスカーフでしっかりと顔を隠している。

 全ての視線は、この謎多き誘拐犯たちに注がれた。

 裁判官の口から明らかになる真実を待つように、辺りは沈黙した。――ただ一人を除いて……。


「やめろ……」

 エドラディが縋るように言った。

「やめろ、頼む……」

 もはや声に覇気はなかった。

 無情な裁判官は、大勢の傍聴人の前で、彼の罪を告白した。


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