第55話 決戦前夜

《アイ》とエドラディが酒場で食事をいる頃。

 キーリ行方不明のまま時は過ぎ、町が藍色の空の下に沈む時刻、エヴァンス家のリビングに一本の電話が入った。

 部屋にいた人間たちは、びくりと肩を揺らして、けたたましく鳴り響くベルに目を向ける。悲鳴にも似た甲高い呼び声に、この場は凍てつくような緊張感に包まれた。

 連絡を受けて常駐していた自警団の青年がいち早く腰を浮かし、ドリスに出るように、ジェスチャーする。

 電話機の傍に置いた椅子の上でじっとしていた主人は、こくっと頷いてすぐに受話器を取り上げた。

「も、もしもし……」

 緊張に、声が引きつる。声が喉に張り付くような感覚が気持ち悪くて、出てこない唾を一生懸命飲み込んだ。

『連絡、遅くなってすまなかったな。あんた、エヴァンス家の主人?』

 電話は、例の誘拐犯からであった。

「ああ……そうだ」

 相手の妙な気遣いにほんの少し毒気を抜かれながらも、ドリスは冷静に頷いた。

『早速だが、こちらの条件を提示させてもらう。翌朝十時、エヴァンス家の大広間に、此度の婚姻の関係者を全て集めろ』

「関係者を……? どうして」

『明日わかるさ。必ず揃えてくれ。これは、あんたの大事な一人娘の未来にも関わることだからな。じゃあ、おやすみ』

「ま、待て!」


 いやに丁寧な男はただそれだけを告げると、制止の声に耳も傾けず一方的に通話を切ってしまった。

 ドリスは、痛みに耐えるような表情で、受話器を置いた。

「旦那様、今の電話は――」

 執事長が心痛のあまり、寝不足の顔で訊ねた。

 彼は電話の内容を、その場にいた全員に伝えた。

 皆が、解消しきれない不安に口を閉ざす中、窓際で外を眺めていたシュードレは一人冷静な顔で動き出し、今置いたばかりの受話器取って、どこかに電話をかけ始めた。

 突き刺さる視線などまるで意に介していないとばかりに、彼女の痩せた指先は冷静にダイヤルを回した。

「もしもし、シュードレ・エヴァンスです。夜更けに申し訳ありません。今しがた、例の誘拐犯から電話がありまして――」

 ドリスの言を電話口で告げる。どうやら通話の相手はグレダ家らしい。

 窓の外で風に靡いた木の葉がさらさらと音を立てる。

「ええ、それでは明日、十時に」

 そう言って切り、シュードレは仮面をつけたような顔で、使用人たちに向き直った。

「みなさん、本日はもう消灯です」



「た、ただいま……帰り、ました」

 と言って部屋のドアを開けたのは、《アイ》――もとい、ジェイ・エイリク・リフェールである。

 ライゼは、テーブルに置いた燭台の炎からすっと目線を外すと、

「おう、おかえり――なんでそんなに疲れてるんだ?」

「ええ、まあ」ジェイは、ちら、と寝台の方に目をやった。そこでは、のキーリが横を向いてすやすや眠っている姿があった。なんとも呑気な誘拐事件である。

「そちらの首尾は良さそうですね」

「まあな。さっき、最後の脅迫電話を入れたところさ。明日、決戦だよ」

 ジェイは気を引き締めるように頷いた。

「それはそうと聞いてくれよ。俺は、エドラディのとんでもない噂を手に入れた。いや、噂じゃない。真実だ」

「なんですか、それ?」

 ライゼが興奮気味に話し出すとジェイは、興味をそそられたように、正面の椅子を引いて腰を下した。

「知りたいか」

「もったいぶらないでくださいよ」

 ライゼは、少し怯えたような風情を漂わせて微笑した。そんなに度肝を抜かれるような話なのだろうか。「実はだな……」

 彼から告げられた、想像の遥か上空をゆくとんでもない事実に、ジェイは驚愕を禁じ得なかった。

「まさか! そんなことが……」

「目撃者に直接会って話を聞いたんだ。信憑性は高い」

 ライゼは、低く声を落とした。

「……奴がまだ、のうのうと日常生活を送っているということは、その……んですね?」

 ジェイは、己の鼓動が騒ぎ立てるのを耳の傍で聞きながら、言った。相棒はなんともいえない表情で深く頷く。

「そんな……。じゃあ、あいつは本物の外道ですね」と、ジェイ。吐き捨てるように。

 ライゼは、組んだ指の上に顎を乗せた。

「そこでだ。、お前に少し協力して欲しいことがある」

「僕に?」

「ああ。ま、正しくは、お前のを使って――」

 ジェイはそれだけで理解できたように、一つ頷いた。

「そういうわけだから、早朝、捜索に付き合ってくれ」

「ええ、わかりました」

 ジェイは、緊張に強張った顔でもう一度首を縦に振る。

「ところで、お前の方はどうだったんだ? 上手く?」

「ええ」

「そうか」

 紅茶色の目に燭台の炎が揺らめいて、妖しい光を放つ。

「ごめんな。今回は俺の方が巻き込んじまった」ライゼが苦笑しながら言う。

「お互い様でしょう」

 そっと微笑を返したジェイは、小さな炎だけが唯一の灯りである部屋の中で、美しい景色を眺めるときのような目付きで相棒を見た。

「僕らは、困ってる人を放ってはおけない性質なんですから」

「今回ばかりはヴェヌス国軍にばれちまうかもな」

 ライゼは冗談めかして言ったが、あながちないとも限らない可能性にドキリとする。

 商家同士で起こった跡継ぎたちのいざこざに、余所者の暗躍があったとなれば、軍が嗅ぎ付けることだってあろう。

「全て終わったら、すぐにこの町を出るぜ。……もう寝よう。明日のために」

 ライゼは、ふっと燭台の炎を吹き消すと、のそりと立ち上がって、窮屈そうにソファーに寝そべった。彼の寝台は、昨夜からキーリが使っている。

「はい。おやすみなさい」

 ジェイは、キーリの隣のベッドに潜り込むと、枕元に置いた旅の荷物を抱きしめながら目を閉じた。

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