第54話 内緒の置き土産

 舞台が終わって劇場を出る頃には、空はすっかり西日色に染まり、あちこちの酒場にぱらぱらと客が入ってゆく様子が確認できた。

 二人は休憩がてら、いてる酒場に入った。

 店内にはまばらに客があり、これから少しずつ混雑してくるのが予想できた。

 テーブルに通されると同時に、葡萄酒をふたつ注文する。


「今日はありがとうございました。全て、お金出していただいて」

 ジェイは初々しい少女のように上目遣いで言った。

「気にしないで。君を楽しませるために、僕が勝手にしたことなんだから」

 エドラディは、組んだ指の上に顎を乗せ、細めた目で《アイ》を見た。

「ね、君がよければなんだけど、これからも僕と会ってくれる?」

「えッ」

 ジェイは辟易したように声を引きつらせた。

「僕ね、君の事好きになっちゃったんだ。今日、すごく楽しかったから、また遊んでくれると嬉しいんだけど」

 なるほど、彼はこのように女の子たちを楽しませてから、シンプルな言葉で口説いてゆくスタイルなのか。あくまで、遊んでもらったのは自分、というていで話を進めてくるのが厭らしい。

 これで誠実な人となりなら、社交的で好感が持てるのだろうが……。キーリの許婚が聞いて呆れる。

 作戦遂行のためには、ここは素直に頷いておくに限る。奴を調子に乗らせるのだ。

 ジェイは、はにかんだように微笑み、

「あの、はい……。私も、また会いたいです」

「本当かい? よかった」

 ああ、哀れな男、エドラディ。その有様はまさに蜘蛛の糸にかかった雅な蝶の如く。目の前の純真な少女の熱っぽい瞳にまんまと騙されて。この美しい姿は、己を陥れるための仮初の姿だというのに。


 そこから二人は豪勢な夕食を囲み、舞台の感想を語り合って、夜も深まったところで酒屋を出た。

 その頃になると、ジェイは既にくたくたであった。面白みの無いおしゃべりをすること以外に余念が無いエドラディ・グレダの相手をたった一人ですることが、こんなにも体力を消耗することだとは思わなんだ。心なしか、化粧を施した顔色が優れないようにも見えてくる。

 それでも彼は、精一杯の笑顔で、

「ごちそうさまでした」と、お礼の言葉を忘れない。

「たくさん食べた?」

「ええ。もうお腹一杯です」

「ヨカッタ。じゃ、行こうか」

 エドラディは、少し強引に《アイ》の手を引くと、繁華街の方へ向かって歩き出した。

 夜の繁華街は、大層な賑わいを見せていた。飲食店の呼び込み、酒に酔った大人たちの愉快そうな笑い声。軒下のテーブル席で交わされる議論の声。

 活気に漲る夜の港町。静寂を知らぬ町。常にどこかに、人々の楽しそうな声がある。

 物静かな春の丘で暮らしてきたジェイ少年には、人々から溢れる賑わいの声がとても新鮮であると同時に、孤独だったあの頃を懐かしむような感情が溢れてきた。

 正直な心を吐露するならば、早く帰りたい。春の丘に。でも、それは今ではない。自分には、やるべきことがあるはずなのだ。春の丘を守るため。そして、この《神の実》が、この地上へと下りてきた意味を知るために……。


 ところでエドラディは、これからどこへ行こうというのだろう。口には出さないが、もうだいぶ疲れてきた。もっと言えば、そろそろ帰りたいところなのだが……。


「あの、エドラディ?」

「うん?」

「どこへ行くのですか? もう夜も遅いですし私、そろそろ――」

 その時、エドラディはジェイの手を強く引き、右手側に伸びる人気のない路地へと引き込んだ。

「あっ」

 予期せぬ事態に、成す統べなくエドラディの胸に飛び込む。

 すぐに離れたかったが、あろうことか、奴はジェイの背中に手を回し、情熱的な抱擁ほうようを交わしてきたのだ。


 ――ギィヤアアア!


 喉から込み上げてくる悲鳴を何とか飲み込んだが、宙をかくように動いた両手が、彼の悲惨な心情を物語っている。

 全身を鳥肌が覆った。が、ジェイはその刹那、はっとしたように自分の胸元を探った。その手が、一瞬、エドラディの腰辺りを彷徨さまよったと思うや、

「キャアアアア! 何をするのですか!」

 精一杯の力でエドラディを突き飛ばすと、その横っ面に拳を叩き込んでやった。

「いッ」

 ドサ、と尻餅をついた彼には見向きもせず、脱兎の勢いで逃げ出したジェイは繁華街を物凄い速さで横切っていった。

 いつの間に取れてしまったのか、ブリオーの前を留めていた金のぼたんが、ほつれた糸を残してどこかへ消えてしまっていた。

 肌蹴た彼の胸元から覗く胸板は、ああ、なんと虚しいまっ平ら……。

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