第48話 負け戦はしない

「キーリ、お前は必ずオレの嫁にする! お前が何と言おうが関係ない! お前はオレのものだ!」


 そう言って、エドラディが去っていったのが、今から数分前である。

 ついには品性の仮面をもかなぐり捨てて、本来の態度で啖呵たんかを切って帰っていったその背中に、ライゼは聞くに堪えない暴言をいくつも吐き捨ててやった。


「はああ」

 三人は、テラス席で額を付き合わせながら、深々と溜息をついた。

 キーリは、「ああ、やってしまった」と、若干の後悔の念を抱いている様子だった。

 今しがた運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけたライゼは、三人の間に漂う沈黙を取り払うように口を開いた。

「さ、これで後には引けなくなっちまったわけだが……キーリ、大丈夫か?」

 キーリは少し顔色が優れないようであったが、しかし、はっきりと頷く。

「彼、あんなこと言ってましたけど、負け惜しみの罵声では終わらないでしょうね」

 ジェイが不安そうに口を開いた。

「安心しなよ。俺は負け戦はしない主義だ。絶対に君を、あんな男に嫁がせたりはしない」

「はい」

 慰めの言葉に幾度も頷き、キーリは顔を両手で覆った。

「ありがとうございます。お二人のおかげで、こうして立ち上がることができました。感謝しかありません。もう後に引けないのなら、とことんやってやる。首輪を繋がれたってあんな人と結婚なんてしませんわ。この決意は変わりません。あたしには、心に決めた唯一の人がいるのですから」

 自分の決意を表明し、キーリは両手の下から揺らめく炎のように力強い瞳をちらと覗かせた。

 ……ライゼは、己の耳を疑った。

 今、彼女はなんと言った?

 困惑したようにキーリに視線を向けるが、彼女は気が付かぬまま、目線をテーブルの一点に定めている。

 ああ、恋する乙女の顔。紛れもない、恋の顔。空耳ではなかったのだ。彼女の表情には、それがあった。

 その反応が、ライゼを昏い地の底へと突き落とした。

 動揺が言葉に現れるのを恐れ、必死に口を閉ざす。

 心のどこかでやんわりと産声を上げていた恋の予感が、こうもあっさりと散ってしまったことに、大きなショックを受けた。

 相棒の心情など露知らず、ジェイは会話を先に進める。

「心に決めた相手、というのは?」

「グレダ家の長男です」

「長男? 彼は確か……」


 グレダ家の長男。名は、カランと言ったか。

 彼は商家の長男であるのだが、皆が呆れるほどに自由人で、放浪癖もある。よって、彼は家督を継がず、表向きばかりのしっかり者・次男がやがては一族の主となる。


「カランは、あたしの母が亡くなった時、毎日毎日、励ましてくれてたんです。昔からのんびり屋さんで、マイペースで、ぼんやりしてて何を考えているかわからないような、ちょっと変わった人だけど、落ち込んでるあたしのために、面白い本を読んでくれたり、甘いお菓子を作ってくれたり……」


 キーリは、うっとりと目を細めながら、カランとの思い出話を語った。幸せそうな顔で遠くの記憶を手繰る。彼女の記憶の中にいるのが、自分でない他の男だと思うと、ああ、胸が引き裂かれそうであった。

 酷いひとだ、キーリ・エヴァンス。たった一日で、こうまで一人の男の心を翻弄してしまうなんて。

「あたしが愛しているのは、カラン・グレダ、ただ一人です。エドラディなんかと結婚するくらいなら……自死を選ぶことだって厭いません」


 ライゼは、ふ、と顔を上げた。

 真正面に、きりりと眉を吊り上げたキーリの顔があった。


 愛する男のために。

 情の無い男と一緒になるくらいなら――。


 ――横恋慕、か……。

 ライゼは、己の痛む心を嘲笑した。

 好きになったから、という理由だけで彼女に協力しようとした己の浅はかさに、嫌気が指す。

 いつから自分は、助ける人を選ぶようになったのか……。

 偉そうに、俺って奴は。

 彼女は、本気でカラン・グレダを愛しているのだ。


 心の奥底に、何かがストン、と落ちた音がした。


 ああ、悲しみよ、苦しみよ。

 若き妖人族の胸に宿った儚き恋心よ。

 今だけは、この強き決意を抱く彼女に手を差し伸べるだけの、心の強さを与えてくれ。

 すべてが終わればいくらでも悲しもう。幾日も泣こう。

 だから今だけは、勇敢にも立ち上がった、か弱き乙女のために、強くてかっこいい男を演じさせてくれ。


 ライゼは、軽く息を吐き、湿った心を取り払うように顔を上げた。

「その心意気、気に入った。だがな、お前に自殺なんてさせないぜ」

 生き生きとした光をその瞳に漲らせながら、一層深く身を乗り出すと、

「エドラディの黒い噂を探る。あのじゃ、叩けばいくらでも埃が出てくるだろうぜ。言い逃れできないような弱点を、掴んでやるのさ」と、ライゼは言った。



 その日の夜、キーリが自室でライゼたちとの話し合いについて思案していると、メイドのレイが部屋の扉をノックした。

「失礼します、お嬢様」

「あら、レイ。どうかした?」

 キーリは、回転椅子ごと振り返った。扉のところにうやうやしく佇んだレイは、

「奥様と旦那様がお呼びです」と、小鳥が囀るような声で言った。彼女はキーリの五つ上で、十五のときからこの屋敷の使用人として住み込みで働いている。

「お父様たちが?」

 キーリは嫌な予感を感じ取り、思わず表情を曇らせる。

「わかったわ」

 気乗りしないままリビングに足を運ぶと、ずらりと並んだ高級家具たちがキーリを出迎えた。

 父・ドリスと、義母・シュードレは、広い部屋の真ん中に置かれた二人掛けのソファーに並んで腰を下していた。滑らかなベルベット地のソファー。かつてはドリスの隣にシュードレではなく、母・ループが腰をかけていたのだ。

 三人家族で過ごしていた大切なリビングも、大好きな母の笑顔が消えた今では、あまり好きではない。


 キーリは、母のいた懐かしい光景を思い出し、無意識のうちにシュードレにきつい視線を向けた。

「座りなさい」

 シュードレは、己に向けられる義娘の冷たい視線を跳ね返すように、氷のような声を放った。

 キーリは無言で、テーブルを挟んで向かいのソファーに座った。相対する二人の様子が妙に畏まって見えるのは気のせいだろうか。


「何用でしょう」

 キーリは無表情で言った。

 ドリスは落ち着き無く指先を動かしながら、

「実はだね、キーリ……」

「明日、グレダ家のご子息との入籍の儀を執り行うこととなりました」

 主人の言葉を攫うようにして引き継いだシュードレは、無慈悲な声で、キーリの心を強く打ちのめした。

「なんですって……!」

 あまりの衝撃に、彼女は座っていながらも激しい眩暈めまいに襲われた。

 なんということだ。こんな急に! 入籍……グレダ家に籍を入れる! 考えたくも無いこと。同じグレダの人間でも、弟の嫁として籍を入れなくてはならないなどと。

 キーリは、カランの顔を思い出し、悲嘆に暮れた。

「どう、して……?」

 やっとのことで声を出したキーリは、絶望による涙で視界が滲んでゆくのを、堪えることが出来なかった。

「もう大人なのだから、結婚は早い方がいいでしょう。こちらも向こうも、可愛い孫を見るのを楽しみにしているのですよ」


 ……孫。

 その言葉に、キーリはゾッとした。

 好きではない男の子どもなど、愛せる自信が無い。否、あんな奴の子など……!

 吐き気すら催すシュードレの未来図に、彼女はついに頭を抱えてうな垂れた。

 感情が酷く荒れ狂い、頭の中を悪夢のような高波が襲った。

 己の感情に溺れてしまいそうになりながらも、何とか顔を上げ、血の気の下りた白い頬を引きつらせた。そして、言った。


「……嫌です」

 震える声。怒りとも、悲しみとも取れる感情が、キーリの喉から迸った。

 ドリスは、娘の強気な発言に、瞠目せずにはいられなかった。

 今まで娘がここまで強く自分の意志を主張したことは無かった。

 いつも、親の言ったことに文句一つ零さず――心の中ではどうかわからないが――「わかったわ」と、快く頷いていた、あのキーリが。


「なんですって」と、今度はシュードレが言う番である。娘を威圧するように細められた目元には、軽蔑の色が漂っている。

「相手はエドラディでしょう? 嫌よ。あたしには、心に決めた相手がいますもの。その人を裏切るような真似は出来ません」

 毅然きぜんと言い放ったキーリは、二人の協力者の姿を脳裏に思い浮かべる。

 ライゼとジェイ。

 旅先で出会ったばかりのただの女に、惜しまぬ協力を申し出てくれた、正義の人。

 自分は、彼らの協力に応えなければならない。立ち向かう相手に、膝を屈してはならないのだ。そんなことをしてしまえば、二人を裏切ることとなる。

 キーリは、言を曲げぬ決意を露に、目の前の両親に向き直った。

 

 シュードレは、義娘の言葉に、冷静に目を細めた。

 女二人の熾烈な睨み合いが始まった。

 キーリの切実な瞳。

 シュードレの、見た者を骨の髄まで凍らせるような冷たい瞳。


「だめです」

 シュードレが、有無を言わさぬ風情で言った。

「そんなこと、許しません。あなたは、エドラディ・グレダの妻として、グレダ家、エヴァンス家、両家の架け橋となるのです。

 キーリは、話にならないとばかりに立ち上がった。

「どこへゆくのです」

、あなたは、あたしの母親だけれど、あたしはそうは思ってない。だから、あなたの言うことに、ただ頷くだけの良い子ちゃんだと思わないでくださいませ。あたしの母親はあなたではない。あたしの母親は、ループ・エヴァンス、ただひとり」

「キーリ!」

 ドリスが咎めるように叫ぶが、

「うるさいッ! うるさいのよ、どいつもこいつも!」

 キーリはそう叫んで、リビングを飛び出した。

 廊下を走っていると幾人かの使用人とすれ違い、彼らは、ただ事ではない様子を察して声をかけてきたが、キーリは全て無視して玄関を飛び出した。


 ナフティスの夜は、賑わっている。

 人の多い町は、なかなか眠らない。

 藍の空を冷たく照らす銀の三日月は、音のない夜を恐れ、ナフティスの人々の奏でる雑踏に安堵している。

 エヴァンス家を飛び出したキーリの足は自然と、ある場所へと向かった。

 町の喧騒から逸脱した橋の向こう側へと――。

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