第47話 火花散る

 水平線の彼方から昇った太陽は、満ち潮と共に、山脈の向こう側へ沈んでいった。

 普段より時間をかけて夕食を平らげた後、キーリに宿泊している宿を教え、彼女を家まで送り届けた。まだ宵の口とはいえ、歳若い女性を一人で家に帰すということをライゼが許さなかったのである。最初こそ彼女は、「すぐそこだから」と、その申し出を丁重に辞退していたが、相手が頑として引かなかったので、言葉に甘えて折れる形となった。

 酒場を出た三人は、夕食を共に囲んだことで、互い互いに打ち解けたような雰囲気が漂う中、昼間とはまた違った賑わいを見せる港町を横切ってゆく。

 すれ違う人々の中には、旅行客と思われる一団もちらほら見受けられ、中には、遠く離れた大陸の異国語を話す家族の姿もあった。

 出会いと別れが行き違う涕涙ているいの港町、店の軒先に並ぶ目新しいものたちが異国情緒溢れるナフティスの町を華々しく飾り立てている。


「ここがあたしの家です」

 いくらか歩いた頃、キーリが指を差して立ち止まった。さすが商家なだけあって、エヴァンス家は、それはそれは立派な建物であった。

 屋敷を見上げたジェイが、「でっかい……」思わずそう零したほどである。

 三人は、翌日の午前中にナフティスの海辺にある一番大きな茶店で待ち合わせの約束をしたあと、寝る前の挨拶を交わして別れた。



 ジェイとライゼは、人波ひとなみの合間を縫うように歩いていた。

 しばらくの間、無言で夜の喧騒を横切っていた二人だったが、ジェイが口を開いたことにより、両者の沈黙は破られた。


「大丈夫ですか、ライゼ。彼女、この辺じゃ名の知れた商家の娘なのでしょう? 大事にすると、金星国軍の目に付いてしまうのではないですか?」

 相棒の心配を余所よそにライゼはしれっと、「その辺のことは、作戦立てるときに考えるよ」

 無責任とも取れるその回答に、ジェイは反論したそうに目を見開いた。

「やはり、ノープランでしたか」

「……別に、そういうわけじゃ」

 ライゼはばつが悪そうに首の後ろを掻いた。

 彼と旅をするうえで、いくつかわかったことがある。ライゼは自分に都合が悪くなったり、今のようにきまりが悪くなると、右手で首の後ろを触る癖があった。

 今も、言葉では否定していたが、無意識の行動ばかりは支配が及ばなかったようだ。

 追い討ちをかけるようにジェイは、

「そうやってかっこつけて、勢いで安請けあいする癖、どうにかした方が良いですよ」

は余計だ」

 ――かっこつけてたくせに。

 ジェイは、しらけた目でライゼを見やった。

「何だよその目は! 別に、かっこつけてねえって言ってんだろ」

 夜目にもわかるほどに顔を赤くしたライゼは、

「くだらねえこと言ってないで、さっさと帰るぞ」

 と、歩調を速めた。

 その日は宿に戻ると、二人ともすぐに寝台へ潜り込んで、一度も目を覚ますことなく朝を迎えた。

 共同風呂でさっぱりと目を覚ました二人は、身なりを整えて、宿の食堂で軽い朝食を摂ると、約束の茶店まで歩いた。

 宿からその店は、歩いて十五分ほどの所にあった。

 ナフティスの町で一番大きな茶店、《アマルフィ》。

 陽光を受けて光り輝く海を一望できるテラス席で、そわそわと白いティーカップに口をつけているキーリの姿を見つけると、ライゼは心が急くのを堪えることが出来なかった。

 自然と歩調が速まり、彼女の潤んだ瞳に、一秒でも早く見つけてもらいたくて、まだだいぶ距離があるというのに、キーリの名前を叫びそうになる。

 息苦しいほどに心臓が高鳴った。鼓膜のすぐ傍で心臓が早鐘を打ち、それ以外に彼の耳に入る音は一切存在しない。ただひたすら、ライゼの心臓はキーリへの熱い想いを奏でるように、荒々しく鳴り響いていた。

 だがその時、ライゼの表情が不意に曇った。

 急に立ち止まった背中に、危うくぶつかりかけて、

「わ、どうしたんですか?」と、ジェイ。

「おい、見ろよ。あいつがいる」

「あいつ? あ!」

 ライゼの不愉快そうな声音こわねに違和感を覚えながら、彼の指差した先に視線を向けると、すぐにその原因たる男の姿を発見した。

 エドラディだ。

 今しがたテラス席に入り込んだ諸悪の根源たる忌々しきその男は、キーリが一人であるとわかるや否や、馴れ馴れしく隣席に腰を下した。あまつさえ、彼女の頼りない肩に腕を回して強引に傍へ引き寄せているシーンが、そこには展開されていたのだ。

 奴の醜い指先が、キーリの陶器のように滑らかな頬を這う。たちまちライゼの頭にカッと血が上った。


「あ、待ッ、ライゼ!」

 ジェイの静止を振り切って、彼は物凄い勢いで駆け出した。

 それはまさしく疾風のように。

 人間の脚力を遥かに凌駕した、妖人族のちからで。

 すれ違う人々に突風をお見舞いしながら、ライゼの視線は仇敵、エドラディ・グレダを刺し貫いている。

 キーリとエドラディは、こちらに猛進してくる男の両目が、滴る血のように真っ赤に光ったその光景に、息を呑まずにはいられなかった。

 その男はテラスを囲む低い柵を飛び越え、エドラディに向かって右手を伸ばした。

 ぐわっと眼前へ突きつけた手は異様に大きかった。それに加え、指先に張り付いた爪が、獲物を引き裂く肉食獣のそれのように鋭く尖っている。

 半妖人化したライゼの手は、キーリに寄り添った不届き者の胸倉を捕らえた。


「捕まえたァ!」

 二人は、もつれ合うようにテラスの床を転がった。他の客は店内で優雅にコーヒーなどを啜っていたが、外で起こった突然の乱闘騒ぎに、好奇心に満ちた視線を投げかけている。

 床に引き倒される形となったエドラディは、いきなりのことに目を白黒させるばかりで、一層間抜けな顔をライゼの眼前に晒した。

「よう、エドラディ! 嫁入り前の女性に、そう気安く触るもんじゃないぜ」

 素早く身を起こしたライゼは、元の大きさに戻った掌をぱたぱたとはたきながら立ち上がった。

 不気味に煌いていた赤い双眸も、いつの間にか通常の紅茶色に戻っている。

「やあ、キーリ。待ったか?」

 待ち人の爽やかな笑顔に、キーリは驚いた様子で頷いた。


「お前、昨日の」

 恨みがましい声に振り返ってみると、傍のテーブルに手を着いて立ち上がったエドラディが、こちらを睨みつけていた。

「昨日といい今日といい、一体何のつもりかな」

 上品に振舞ってはいるが、隠しおおせようのない敵意は押し殺した傍から、オーラの如くエドラディの周囲を禍々しく歪ませた。


 ジェイは息を切らしてテラスに入ってくるや否や、ただ事でない雰囲気にギョッと目を剥いた。

 

「女性に対する礼儀を弁えることがそんなに難しいこととは思えないが、あんたにはちょいと難儀であると見えるな」

 ライゼは皮肉たっぷりにエドラディを見下ろした。

「何を言うんだ。僕はただ、キーリを今夜、屋敷に誘おうとしただけで……」

 彼は、弁明するような口調で言うが、それを遮るように、

「嫌がるのを無理に誘うのは、三流男のやることだぜ」と、ライゼが一笑に付す。

「何だと……」

 二人の間に、青い火花が散る。

 ジェイとキーリは、一触即発の空気に言葉を挟む余地なく、顔を見合わせるばかり。


「お前らヨソ者だな。一体どういうつもりだ」

「メッキが剥げてきてるぜ。口調の乱れにも気が付かないほどイラついてるらしいな」

 煽るように指摘され、エドラディは、はっとしたように口元に手をやる。

 それでも、徐々に剝がれつつある表の顔を保とうと、必死に言葉を重ねた。

「キーリはオレの許婚いいなずけだ。ヨソ者のお前らに、ちょっかい出されるのはいい気がしない」

 ライゼは嘲るように、彼の言葉を笑い飛ばした。

「許婚? ッハハ! 聞いたかい、キーリ。君、コイツの許婚なのか?」

 振り返ったライゼは、彼女の怯えた瞳を、正面からじっと見据えた。

 彼のこの力強い双眸には、今ここで勇断ゆうだんせよと強いているような、屈強な色が宿っていた。

 キーリは、声を失ってしまったかのように、唇を薄く開けたまま、ライゼを見つめていた。その刹那、目の前にいるこの勇猛な青年の声が、耳にではなく心に直接響いてくるのが聴こえた。


 ――君の望む幸せを手に入れるためなら、俺は協力を惜しむつもりはない。


 その音無き声は、か弱い娘に勇気を与えた。

 穏やかである一方、不安そうに翳りを見せていた彼女の瞳に、見違えるような勇敢な輝きが宿ったのはその時だった。

「……いいえ、違います。この男は、あたしの許婚などではありません」

 力強い否定の言葉と共に、矢のような視線に貫かれたエドラディは、信じがたい光景を目の当たりにした時のように瞠目した。

 まさか、キーリにこのような言葉を叩きつけられるとは夢にも思っていなかったのだろう。返す言葉も失くし、あまりのショックで、後ろに二、三歩よろめいたほどだ。

 ライゼは、意地が悪そうに、ニィと笑った。

「よく言った、キーリ!その言葉が、俺らとお前を結ぶ強固な約束となろう」

 再びエドラディに向き直ったライゼは、挑発するように顎を反らすと、

「そういうわけだから。キーリはお前にやるわけにはいかなくなった。残念だったな」

 宣戦布告。

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