第45話 ナフティスの美女

「うわぁ……きれい……」


 馬車の窓から身を乗り出したジェイは、うっとりと呟きながら、眼前に広がる大海原に目を輝かせた。

 雲一つない晴れ渡った空を映したような青い海は、真っ直ぐと濃く引かれた水平線の下で、宝石を散りばめたようにきらきらと光っている。

 吹きつける風は深い潮の香りに溢れ、嗅いだことのない新鮮な匂いに、ジェイの心はうきうきと躍った。


「すごい。大きいですね、海」

「あんまり身を乗り出すなよ。落っこちるぜ」

 と、ライゼに服の裾を引かれ、いそいそと馬車の中に引っ込む。


「はしゃぎすぎだ」

 ライゼは苦笑しながら言った。


「海を見たことがなかったものですから」

 ジェイは、はにかんだように返し、舗装された道の、ゆるやかな揺れに身を委ねた。


 オルガン山脈を越え、次の町に向かう道すがらに馬車をつかまえた二人は、窓の景色から緑の気配が薄れる頃、目指している町の話題に移った。


「今日から――そうだな、二日間くらい滞在する予定だ。港町・ナフティス」

「港町!」

 ジェイがわくわくしたように呟く。

 まるで旅行に浮かれる子どものような反応に半ば呆れつつも、

「ま、確かに、爽快な気分になるな」

 と、ライゼは、窓の外の景色を見やり、ほんのりと頬を桃色に染め上げた。


 やがて馬車は、ナフティスの町に到着した。

 馬車を降りて、ライゼが御者ぎょしゃに金を支払っている間、ジェイは道ゆく人の多さに目を白黒させていた。

 人、馬車、広い道をいっぱいいっぱい埋め尽くすほどの人口密度に、言葉を失って立ち尽くすばかりである。


 町全体を見渡すと、背の高い建物も多く、話し声や馬車の行き交う雑踏は、ジェイに、感じたことのない圧迫感を与えた。

 しかし、不快な感じではなかった。

 自分の世界が広がってゆくような感覚とでも言おうか。真新しいものに満ちたこの土地の空気は、春の丘を出たことがなかったジェイの瞳に、眩しく輝いて見えたのだ。

 力強く降り注ぐ陽光を白い石畳が照り返し、緩やかに吹き込む海風の暖かさたるや。ジェイは、服の中がじんわり汗ばむのを感じた。


 自分たちを運んでくれた馬車が去ってゆく。


「さァて、まずは宿を探そう」

 ブリオーの袖をまくったライゼが、ジェイの肩を叩く。


 二人は数多くある宿の中で、料金が比較的リーズナブルなところにチェックインすると、必要な荷物だけ持って、ライゼは日用品の、ジェイは食糧の買出しへと出かけた。


 一通りの買い物を終え、ライゼは大きな紙袋を抱えて宿へ向かっていた。

 さすが都会なだけあって、いろいろな物が売っている。あれこれと目移りしていたら、予定にないものまで買い物籠に入れてしまった。

 

 いつもより重い買い物袋を何度も抱えなおしながら、海へ通じる細い川の上に架かった橋を渡った。宿は、この橋を渡ってすぐの場所にあり、港町の賑わいからほんの少し離れた所に建っている。

 そのせいか、橋の近くに人はおらず、真下に流れる川のせせらぎが、やさしく耳朶を撫でるばかりであった。


 と、その時。前方から、身形の良い一人の女性がふらりと現れた。

 真っ白なブリオーを纏った腰に、豪奢な刺繍が施された幅の広いベルトを巻いている。腹周りに余裕を持たせ、長い裾を脹脛ふくらはぎの辺りで揺らし、細い脚は洒落たブラウンのブーツを履いている。

 どうやら彼女はこの町の裕福な家の娘のようで、癖毛気味の赤毛を結う赤いリボンも、質のよさそうなベルベット地だ。

 しかしおかしいのは、彼女はいやに不安定な足取りで歩いているということだ。昼間から酒でも飲んでいるのかと思うほどの千鳥足で、やがて彼女は橋の欄干にぶつかるように近寄ると、そのまま上半身を乗り出すように手を掛けた。


 ライゼは立ち止まり、次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 乗り出した上半身が、ゆっくりと川底に向かって傾いてゆく。

 ――危ない!

 気付いたときには、既に駆け出していた。

 抱きかかえた荷物を放り投げて、人間離れした脚力を駆使し、橋の下へ落下しかけた彼女の身体に飛びついた。


「ひゃっ」

 と、彼女が小さく悲鳴を上げたとき、ライゼは自分の足の裏が地面から離れてゆくのに気がついた。

 ――まずい。

 と思った瞬間、抱き合った二人は、川底へ向かって真っ逆さまに落下していった。



 浅い川でよかった。

 ライゼは、ブリオーの彼女を岸に引っ張り上げながら、内心で呟いた。

 力なく座り込んだ彼女は、深く俯いたまま肩で呼吸を繰り返す。

 重苦しく纏わり付く濡れた衣服は、噎せ返るほどの潮の香りを漂わせている。塩分が多くてべたつく不快感を拭い去れぬまま、ライゼは、苛立たしげにチッと舌を打つと、乱暴に彼女の肩を掴んだ。


「てめぇ、何してやがる! 危ないじゃねぇ、か……」


 語尾が徐々に消失してゆく違和感を頭の片隅で感じながら、ライゼは不意に怒りが萎んでゆくのがわかった。

 彼女の顔を一目見て、今まで受けたことのない衝撃を受けたのだ。

 身なりに負けず劣らずの美しい娘だった。

 白い頬はほんのりと桃色に色付き、長い睫毛の先にダイヤモンドのように光る水の玉が散っている。アーモンド形につり上がった大きな瞳は涙を多く含んで、今にも雫を零しそうに潤んでいる。呼吸をしようと小さな口が閉開する度に、白く小さな歯が見え隠れした。水に濡れた薄化粧は、持ち前の艶やかな顔立ちを引き立て、まるで、舞台上に立つ花形役者のような煌びやかな印象に飾り立てた。

 息を呑むほどの美しさとはまさにこのこと。ライゼは石にでもなってしまったかのように、彼女から視線を逸らせないでいた。

 

「……」

 このように言葉を失うのは初めてだった。

 さながら、雷にでも打たれたような感情が、彼の胸の中をかき混ぜた。

 どくどくと心臓が暴れている。そのせいかどうかはわからないが、きつく締め付けられるように胸が痛んだ。

 妙に顔が熱くなり、それとは裏腹に、たった今、彼女を厳しく叱責してしまったことによる罪悪感が心臓を冷やした。


 彼女の瞳から、一粒の雫が零れ落ちた。それが川の水でないことくらい、すぐに理解できた。

 ライゼはギョッとして、彼女の肩から手を退けると、

「ご、ごめん」

 と、動揺しながら謝罪した。

 しかし彼女は、手で顔を覆って、本格的に泣き出してしまった。

 どうしようもなくなったライゼは、「ちょっと待ってろ」と言い、急いで橋の上へ戻った。

 紙袋から零れ出て散乱した荷物をかき集め、乱雑にしまいこむと、それを抱えて下へ戻る。

 ライゼは、彼女の傍らに片膝をつくと、買ったばかりの荷物の中から新品のタオルを引っ張り出して、彼女の髪を拭いてやった。

 よくわからない緊張で、微かに手が震えた。


「怒鳴って悪かったよ。泣くなよ」

「――う」


 彼女は何かを呟きながら、首を左右に振った。


?」

 ライゼの言に、彼女は一つ頷く。

 

「あの……助けてくださって、ありがとうございました」

 顔は伏せたまま、透き通るような声で言った彼女は、薄く白粉をはたいた頬を手の甲で拭った。


「無事でよかった」

 ライゼがどぎまぎしながら返すと、彼女は安心したように、再び泣き出した。

「君、名前は?」

 彼女のすすり泣く声しか聞こえなくなることに胸が痛んだライゼが問うと、

「キーリ・エヴァンス……」と、小さな声が返ってきた。


「キーリ、ね。俺はライゼ。その……あの、一体どうした? 何か嫌な事でもあったのか?」


 ライゼは、濡れて重たくなった前髪をかき上げようとして、初めて自分が帽子を被っていないことに気がついた。

 落ちたときに流されてしまったのかもしれない。無くなってしまった物は仕方ないか。

 キーリは、一生懸命にライゼの問いに答えようと口を開いたが、迷っているような素振りを見せたため、

「いや、いいんだ。今会ったばかりの知らねえ男にゃ、言いづらいこともあるよな」

 いつになく控えめな態度に、己自身、動揺しているのだと悟る。何に動揺しているのだ、などと野暮なことは聞かないでくれ。


 まともに彼女の顔が見れない。

 目なんかが合ってしまえば、どきどきしてまともに言葉も出てこなくなってしまいそうだ。

 いたたまれなくなったライゼは、すっと腰を上げると、キーリの手を取って一緒に立ち上がる。


「じゃ、俺行くから。そのタオル、やるよ」

「あ……」


 何か言いかけた彼女の言葉を聞こえないフリでかわし、ライゼは荷物を持って走り去った。

 背中にキーリの視線を感じる。

 この胸の苦しみは、重い荷物を持って駆けているせいか。

 それとも、彼女との運命的な出会いに、深く胸を打たれてしまったせいか……。それがわからぬほど、ライゼは子どもではない。

 この感情は紛れもなく、恋であると。

 ライゼは宿へ向かう一本道を走りながら、そう思った。



 部屋には既にジェイがいた。

 ベッドの上で地図を眺めていたようだが、帰ってきた連れが全身びしょ濡れであると気がつくや否や、「どうしたんですか!」とひっくり返りそうな叫び声を上げた。


「いや、別に、たいしたことじゃない」

 ライゼは煙に巻くように言い、鞄の中から着替えを取り出すと、


「湯浴みしてくる」

 と、さっさと出て行った。

 共同の浴場は一階にある。

 まだ時間も早いせいか、浴場には誰もいなかった。

 ざっと水を浴び、全身に纏わり付く海の匂いを洗い流すと、そこで濡れた衣服も簡単に洗った。

 それから部屋に戻り、洗濯した服を、部屋の中央を走らせるように括りつけた洗濯紐に引っ掛けておいた。

 

 太陽が西の空に傾きかけた頃、窓の外を一羽のカモメが横切ったそのタイミングで、地図を放り出したジェイが唸り声を上げながらベッドに突っ伏した。


「何やってんだお前」

「……お腹空きませんか?」


 ゆっくりとこちらを向いたジェイの顔は、心なしかやつれて見えた。


「少し早いけど、夕飯にするか」

「賛成です」


 ジェイは飛び起きると、鞄を肩に掛けて、ベッドの下に脱ぎ捨てたブーツを履いた。

 二人は、近くの酒場を目指した。

 港の町並みは、西から射した夕日によって麦色に染められている。

 昼間、ここへ着いた時と比べると、人通りは更に増えたように思える。

 ジェイとライゼは人混みをすり抜けるようにして歩いた。


「あ」

 と、ライゼが声を上げたのは、酒場の前に着いた瞬間だった。

「あら」

 と、ライゼの姿を認めて、思わずといった様子で声を上げた女性がいた。


「キーリ……」

「ライゼ、さん……」


 名前を呼び合った二人を交互に見、ジェイは首を傾げた。

「知り合いですか?」

 ライゼは説明を試みたが、上手く言葉にならず、立ち話もなんだからと、とりあえず二人を酒場に押し込んだ。


 テーブル席に座った三人の間に立ち込める雰囲気は、微醺びくんを帯びて上機嫌になった周囲の客たちと比べると、やけに重々しかった。

 ジェイは黙ったまま、隣と正面に座った大人の男女に視線を送ったが、各々、自分の食べたいものをオーダーしたきり、何故かどちらも喋ろうとはしなかった。

 ――空気が重い。

 ジェイはため息が出そうになるのを必死で堪えるしかなかった。

 やがて、特に会話もないまま、三人の前にはオーダー品が通される。

 ジェイは様々な果物を搾ったフルーツのジュースを、ライゼとキーリは葡萄酒を飲んでいる。

 テーブルの中央には海の幸を使ったオードブルが、居心地悪そうに二皿並び、最後に運ばれてきた三人前の魚介のドリアは、真っ白い湯気を立ち上らせたまま、手を付けられるのを待っていた。


「……」

「……」

「あの」


 ジェイは痺れを切らしたように、沈黙を破った。


「なんだ」

 我に返ったようにライゼが言う。


「いい加減、説明していただけませんか」

「ああ」

 ライゼは、あちこちに視線を泳がせながら、

「彼女は、キーリ。買い物に行ったとき、出会ったんだ。……こいつは旅の相棒のジェイ」


「はじめまして。キーリ・エヴァンスです」

 キーリは、軽く微笑みながら言った。

「はぁ、どうも。ジェイです」

「昼間、ライゼさんに、危ないところを助けていただいたんです」

「危ないところを?」


 聞いてないよ、という視線をライゼに向ける。


「もしかして、あなたがずぶ濡れで帰ってきたのって……」

「川に落ちそうになったあたしを助けてくれようとして――」

「一緒に落ちた」

 ライゼは自棄やけになったように言った。

「ははあ、なるほど……」

 ジェイは、熱いドリアをかき混ぜながら頷いた。


「あの、これ」

 キーリは足元に置いた鞄の中から、綺麗に畳まれた白いタオルを取り出した。先程、川から上がったキーリの髪を拭いてやったタオルだ。


「わざわざ洗ってくれたのか。別に、返してくれなくてもよかったんだぜ」

 ライゼは、妙に素っ気無く言った。


「きちんとお礼も言いたかったので」

 キーリは、困り顔で笑った。

「あれから、家に帰ってすぐ洗ったんです。今日は天気が良いから、すぐに乾くと思って」


「ありがとう」

 ライゼは伏し目がちに言って、タオルを受け取った。

 

「昼間は、本当にありがとうございました。お礼に、ここはあたしが持ちますので、沢山食べてください」


「待てよ。何もそこまで。助けたって程のことでもないじゃないか、あんなの。俺が勝手に……」


「いいえ、違います。あたしは、ライゼさんの行動にお礼がしたいのですから。あんなに必死になって、他人のあたしを助けてくれようとした、それが嬉しくて」


 ライゼは、そう言って微笑んだ彼女の表情に、言い知れぬ違和感を覚えた。

 心からの微笑ではないことは、すぐにわかった。

 彼女は、一体いつから、こんな下手な笑顔しか浮かべられなくなったのだろう。

 その不器用な笑顔を見ていると、酷く胸が苦しい。手を差し伸べたくなってしまう。

 どうしてそんなに辛そうに笑うのだ。笑顔で隠しているつもりなのであろうが、ライゼには笑顔の仮面の下にある悲痛な素顔が見えるようであった。

 それは、ジェイにも見破ることが出来たようで、彼らはそっと顔を見合わせた。

 互いに無言であったが、言葉を交わさずとも、考えていることは同じだったらしく、代表してライゼが口を開いた。


「なあ、やっぱり、何があったか訊いてもいいか?」

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