第42話 また会いにくるよ

 早朝、ルシェラは深い眠りの中から目を覚ました。泉の底からゆっくりと浮上するような安らかな起床だ。

 目を開けた途端に、ここが病院であることを思い出し、洗い立ての白い枕カバーに頬を擦り付けて、しばらく目を閉じた。


 よく寝たおかげか、起きぬけの気だるさもなく、冴え冴えとした爽やかな気分だ。のそりと上半身を起こすと、病院着の襟元が少しだけ肌蹴る。


 カーテン越しに差し込む白い陽光が、部屋を朝の景色に染め上げていた。


 未だ世間は眠りの園にあるようで、外から聞こえる音も、小鳥の囀りや春風の駆け抜ける音と言った、自然界の歌声に満ちている。


 ルシェラはうーん、と伸びをしながら欠伸を放った。

 全身は軽かったが、目元に重い違和感を感じ、昨夜のことを思い出して、「最近、よく泣いてるな」と苦笑する。


 今までは流した涙は何処にも帰ることが出来なかった。ただ零れ落ち、冷め切った少女の心に氷の花を咲かせ、身が凍るような孤独の花畑を作っているだけだった。


 このままずっと、自分の心の中には、悲しみで生まれた冷たい世界しか存在しないと思っていた。


 永遠の冬を思わせる彼女の心に現れたジェイとライゼ。二人に出会ってから流した涙は、ルシェラの冷え切った心を暖めてくれた。彼らの手が、ルシェラの涙を暖めてくれた。

 氷の花畑は、たちまち色とりどりの賑やかな世界に生まれ変わった。


 ルシェラは正面のテーブルに目を向けた。そこには、ジェイとライゼが額を合わせるように突っ伏して眠っている。

 ベッドの傍には、二人分の寝袋が並んで敷いてあったが、そこに誰かが寝た形跡はない。


 ――昨日、眠れなかったのかな。


 そんな風に思いながら、ルシェラがこんこん、と小さく咳をすると、腕の中に顔を突っ込んでいたジェイががばっと顔を上げた。ルシェラは思わず吃驚して、肩を飛び上がらせる。

 彼は数秒間、ぼんやりと虚空を見つめていたが、はっとしたように目を瞬くと、眠たそうな顔でこちらを向いた。


「大丈夫ですか。今、咳……」


 寝起きの掠れた声で言いながら、ジェイは目を擦る。


「はい……少し、喉が渇いただけです」


 ルシェラがキャビネットの上のコップを手に取り、水道へ向かおうとベッドから抜け出しかけたところを、さっと立ち上がったジェイがその手からコップを取り上げて、水を汲んで戻ってきた。


「ありがとうございます」


 ルシェラはベッドに腰掛けたまま、コップの中の水を飲み干した。

 冷たい水が、渇いた喉を通って胃の中に落ち、全身に水分が染み込んでゆく感覚は、少女に生きていることを実感させる。


 たちまち、半分眠っていた身体が目覚め始め、空腹感に襲われる。昨夜は夕食のスープを一杯飲んだだけで眠ってしまった。

 昨夜の分も取り戻そうとでも言っているような強烈な空腹は、食べ物を要求する声を部屋中に響かせた。


 ルシェラは赤面しながらお腹を押さえて、

 

「お腹空きました」と素直に言った。


「俺もだ」


 いつの間に起きたのだろうか、ライゼが椅子から立ち上がると、欠伸をしながらルシェラに同意した。


「よお、ルシェラ。よく眠れたか」


「はい」


「そっか。じゃ、俺、朝食貰ってくる」


 ライゼは、頬に衣服の袖の痕をつけたまま病室を出て行った。

 さほど時間もかからず、三人分の朝食が乗ったワゴンを押して戻ってくると、ジェイが「僕たちの分まで用意していただけたのですね。ありがたいです」


 と、言いながら自分のお腹を撫でた。




「え! もう発つんですか」


 と、ルシェラが叫んだのは、テーブルに着いた三人が温かいスープを啜っている最中のことだった。昨日飲んでいたのは、セーダ豆を煮込んだスープで、今朝出されたのは、ミルクと麦を煮込んだ、甘みの強いスープだ。


「はい。昨日、二人で話していたんです」


 ジェイが眉を下げながらスープ皿の上に木のスプーンを置いた。


「そんな……急に」


 ルシェラはショックを隠せない様子だ。手にしたスプーンを、今にも床に落としてしまいそうな雰囲気を醸し出す。


「元々、ラシン村での滞在は一日か二日の予定だったんだ。旅を急ぐ身なのでね」


「すみません、あたしのせいで予定が狂ってしまいましたね」


「お前のせいじゃないから謝るな」


 ライゼは、予定が狂うことなんてしょっちゅうだ、とさして気にもしていない様子でスープを啜っている。


 ルシェラは素直に頷きながらも、その大きな瞳の中に縋るような気配を過ぎらせた。

 行かないでほしい。――彼女が心の中でそう思っているのは明らかだった。


 彼らも、退院しないまま彼女を置いて行くことは本意ではなかった。するまでこの部屋に泊まりこみ、村での騒ぎの火種となってしまった責任を果たしたかった。このまま彼女が一人で村に戻るには、少々不安が残る。

 それでも彼らが旅路を急ぐことを選んだのは、いくつか理由があった。


 一つは、昨夜、ラシン村の風が言っていた、村での彼女の立場の変化についてだ。まだ両者の蟠りは解けなくても、彼女が虐げられる理由は解消したと思っていい。


 そしてもう一つ。ルシェラは、もう苦しむ必要が無くなるのだ。


「それで、なんですけど」と、ジェイ。

 少し緊張した面持ちで、床から拾い上げた鞄を膝に乗せる。中からなにか、小さいものを取り出した。――アルルの実だ。このときはライゼも食事する手を止め、じっとジェイの手元に注目している。


 昨日の晩に二人が話したのは、出発に関することだけではない。これからの旅について。一昨日、湯船に浸かりながら話した身近な目標について。

 その答えが、これだ。


「これは、僕が住んでいた地に昔から伝わる薬です。不治の病だろうがなんだろうが、この実を食べれば、必ず完治します。これを食べるときに忘れてはいけないのは、希望を持つことです。絶対治る、治してやる! そう強く願って、食べてください」


 ジェイは一つ一つの言葉に力をこめるようにして語った。

 ルシェラの手にアルルの実を握らせ、最後にもう一度、


「大丈夫です。絶対に治してくれます」


 ――これが僕の出した答え。僕は、アルルの実を、救いを求めている人のために使う!


 アルルの実の正体を明かさず、真に救いを求めている人のために神のちからを使う。


 ――身勝手な考えかもしれないけれど、神のちからで人を救うことが出来て、自分の大事な春の丘を守れるのならば、偽善者だと言われてもいいからこのちからを使う。傲慢だと言われても構わないから、神のちからを人々の役に立ててやる。


 自分がこの実と出会ったのだ。他の誰でもなく、この実を手にしたのはジェイ・エイリク・リフェールなのだ。


 ――だから、この神の実のちからは僕が世界のために使う。


 金星国の軍人たちはこのアルルの実を狙っている。奪われる前に、自分の手で、自分の信じる正義のために使ってしまえば、こちらの勝ち。相手が挑んできた理不尽な勝負に対抗するこの策こそが、ジェイの信じる正義だ。


 そっと離れてゆくジェイの手。

 ルシェラは自分の手の中に納まった、胡桃に似たその実をじっと見つめた。


「一つ、お願いがあります」


 ジェイが声を落として言うと、少女は顔を上げる。


「この薬は大変貴重なものでしてね。じつは、この薬がとある人たちに狙われてしまったせいで、僕らは旅をしているのです。もし……まあ、大丈夫だとは思いますが、僕たちのこと、この実のことを聞きに来るような大人に会ったら、僕たちのことは言わないでいてくれますか」


「二人は、追われてるんですか?」


 ルシェラが驚いたように訊く。


「たぶん、うん、そうです」


「そうだったんですか。……あの、あたし、アルルさんたちのこと、誰にも言いません。この薬を貰ったことも、誰にも言いませんから」


 ルシェラは真剣な顔で頷いた。


「ありがとうございます」と、ジェイはほっとしたように笑う。


「いいか、真面目に食えよな。ほんの気休めだろ~だなんて思って食うんじゃねえぞ。本気でだ。病魔め、この身体から出てけ! って叫びながら食うつもりで食え! 信じられないようでもな、俺は一度、ジェイとこの実に救われている。怪我で死にかけたときに、こいつらが救ってくれたんだ。経験者の俺が保障する。だから、ちゃんと、希望を捨てずに食え」


 ライゼが全身を使って実の効力を説明していると、ルシェラは薄く笑みを浮かべながら頷く。


「ありがとうございます」と、ルシェラは、アルルの実を握り締めた。


「本当に、ありがとう。さん、さん」


 ……二人は、ばつが悪そうに顔を見合わせた。



 ささやかな食事会は終わりを告げ、旅人たちは出発すべく腰を上げる。そんな二人の背中を、ベッドに座ったルシェラが寂しそうに見つめている。


「本当に、行ってしまうんですか」


「行ってほしくないか?」


 ルシェラは何も答えなかったが、その無言こそ、肯定の意であった。


「ごめんな。退院するまでいてやれなくて」


「いえ、そんなことは……」


 ルシェラは首を横に振りながらも、


「ちょっと、ほんのちょっとだけ、寂しいですけど」


 と、弱々しく笑う彼女の顔は、僅かにやつれて見えた。


 命のカウントダウンはとっくに始まっている。このままルシェラはどんどん痩せて、やがては起き上がることも出来なくなり、床の上でその生涯を閉じることになるのだろう――このまま何もしなければ。


「僕だって、同じ気持ちです。不思議に思いますよ。二日前、初めて出会ったのに、もうこんなに情が移ってる。僕は友人が少ないので、こうして旅をする中で、友人と呼べる相手と出会えることに、純粋な喜びを感じます。なので――」


 ジェイは、はにかんだように目を伏せ、ルシェラの手を取った。


「ルシェラという友人に会いに、一ヵ月後にまたラシン村へ行く予定です。必ず行きますから、一ヶ月くらいは待っててくださいね」


 ルシェラは一度、視線を下に向けると、


「一ヶ月……」と呟いた。


「あっという間だろ? それくらい」


 ライゼは椅子の上で脚を組みながら言った。


「俺たちは安心してんだよ。お前、もうあの村でも大丈夫そうだな」


「え……?」

 ルシェラが顔を上げる。


「お前の勇気は、村人全員の心を動かすことが出来た。あいつらはお前の勇気ある行動を信じて、医者でもないお前に少年の命を託した。お前はヒーローだ。退院したら、ラシン村じゃあヒーローの凱旋パレードが待ってるだろうぜ」


 ライゼは椅子から立ち上がると、


「そろそろ行こうか」と、促した。


「はい」


 ジェイは寂しそうに笑いながら、約束の言葉を口にした。


「一ヵ月後、また一緒に食卓を囲みましょう」


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