第41話 生きて欲しいと願うこと
いつの間にか日が暮れていた。
草木も眠る丑三つ時……の、何時間か前である。
ジェイは、キャビネットの上からランプを持ち出すと、テーブルの上に置いて燐寸で火を灯した。
向かいの椅子にはライゼが腰を下している。
お互いが口を閉ざしたまま、硝子の中で揺れる炎をぼんやりと見つめていると、音という概念が消失したもの寂しい世界が完成する。
さんざん泣いたルシェラも、今は静かに眠っている。夕食の後に飲んだ薬が効いているようで、少し音を立てたくらいで目を覚ますようなことは無かった。
病院側の厚意で、一晩、病室に泊まることになった二人は、用意してもらった寝袋に一度は横になったものの、なかなか寝付けないまま、結局こうして眠気が訪れるのを、灯りを囲んで待ち続けている。
ジェイは、自分の足元に置いた荷物を見下ろした。そこまで光は届かないので、まるで下は底のない深淵を思わせた。ただ、床の上で大人しくしている白い布の鞄は、薄らぼんやりと存在を主張し、居心地悪そうに持ち主の足元で息を潜めていた。――その中には、たくさんのアルルの実が詰まっている。
視線を落としたまま、ジェイは頭の中に浮かんだ考えをライゼに話すべきかどうか悩んでいた。
自分がしようとしていることが、果たして正義の行いであるのかわからなかった。何分も同じことを己の心に問い、結局答えは出なかった。
そうして口を開いたジェイは、音の無い世界を終わりへと導く。
「ライゼ、僕の中にある一つの疑問に答えをください」
足元を見つめたまま、小声で言った。
「なに?」
ライゼは促したが、彼にはジェイの考えていることなど、手に取るようにわかった。なぜなら、ライゼの頭の中にも、ジェイと同じ考えが浮かんでいたからだ。
治らない病から彼女を救える方法など、彼らの頭の中にはたった一つしか存在しなかったのだ。
「人間である僕が、神のちからを使って、定められた死の道から人を救い出すことは罪に当たりますか?」
ランプの炎に照らされたライゼは、少しも表情を崩さないまま、口を噤んだ。
彼はこう考えていた。
――いいや、ジェイ。それは違うよ。本来、アルルの実は人間たちに希望を与えるために存在するんだからな。ルシェラには今、生きることへの希望がある。偉大なる医学で救えない少女を、お前なら救えるぜ。
だがライゼは、それを言葉にする勇気がなかった。
人間の希望は、長く続かないことがあるからだ。今は希望に満ちていても、その希望が希望のまま彼女の中に残るとは限らない。
また彼女に巨大な壁が立ち塞がったとき、ルシェラは生きることへの執着を捨てずにいられるだろうか。
天涯孤独の身の上で、頼る人もいない。そしてまだ、ほんの子どもである。そんな彼女が生きることに苦痛を感じたとき、再び生への希望を失ってしまうのではないか……。そうなった彼女が、「あのときに死んでおけばよかった」と思うときがきてしまうのではないか。そんな考えが浮かんでしまう。
自分に似つかわしくない卑屈な考え方だとは思ったが、そう思うとどうしても自信を持って首を縦に振れないでいた。
その時だった。
閉じていた窓が開き、冷えた夜風がふわりと吹き込んできた。
『その答え、私が与えてやろう』
ライゼの返事を待っていたジェイの耳に、聞き覚えのある美声が届いた。
ジェイは、はっと顔を上げ、窓に目を向けると、そこにラシン村の風の姿があることに気が付いた。月光を背中に掲げた姿は、舞台に立つ美貌の役者のように様になっていて、男だとわかっていても思わず見惚れてしまう。
「あれ、いつの間に開いたんだ?」
と言うのはもちろんライゼ。彼の目に風の姿は見えていない。ただ、夜風にはためく白いカーテンがそこにあるだけだ。
「風……」
ジェイがぽつりと呟くと、ライゼは辺りをきょろきょろ見渡した。やがて、開いた窓とジェイを交互に見やりながら、
「いるのか」と問う。
「はい」
ジェイは、ラシン村の風を見つめたまま、頷いた。ライゼも同じ方向に目を向けたが、やはりそこには誰もいない。
『アルル……私は君に、一体どのような
ジェイは少し考え込んで、
「はい、あります」と、答えた。
「けれど……その方法を用いるのは、非道徳的な行いになってしまうかもしれなくて。でも、どうしても助けてあげたいです。彼女が苦しむ姿を見たくはありません。それに、折角、村のみんなとの蟠りが解けそうなのに……」
『うん、では、これは私の答えだ。――人を救うのに、罪も罰もない。……と、私は思うよ』
ジェイは静かに息を吸い込んだ。
『そしてこれは私の願い。どうか、ルシェラを助けてあげて欲しい。彼女がいなくなってしまうと、悲しむ奴がいる』
「それって……」
ジェイの頭の中に、背中を丸めたケヤキの姿が浮かんだ。想像の中の彼が寂しそうな背中をしていたのは、きっと、非道徳的なその考えを捨てられなかったジェイが、彼女を救うことが出来なかったからだろう。
ルシェラを救わなければ、彼の背中は永遠に寂しい景色を背負ったままなのだ。
『それに、ラシン村はもう大丈夫だ』
「どういうこと……?」
『彼らはもう、ルシェラに酷いことはしない』
ラシン村の風は、確信していた。
『彼女は、あの少年のヒーローになったからさ』
ジェイの脳裏に、血を吐きながらも、脇目も振らずリサ少年の看病をするルシェラの姿と、彼女に手を差し伸べた人々の姿が蘇る。
どんなに疎まれ、蔑まれた過去があろうと、ルシェラは決して人に仕返しをするようなことはしなかった。深く傷付きながらも、その傷を言い訳の盾にして他人を見捨てることはしなかった。その勇気は、大人たちの心を動かしたのだ。
リサ少年がルシェラに「助けて」と言った。ルシェラという幼い少女が、少年にとって、かけがえのないヒーローになった瞬間だった。
少なくとも、彼女によって命を救われたリサ少年とその家族は、ルシェラに手を差し伸べてくれる人々になるだろう。そうであって欲しい。
「ルシェラは生きたがっていました。僕はそれを手助けしたいと思いました。――ライゼ、僕は今もそう思っています。あなたは、どうですか」
質問の矛先が自分へと向くと、何故かライゼは一瞬だけ顔を歪めたが、辺りが薄暗かったので、ジェイはその変化に気が付かなかった。
しかしそれも一瞬のこと。歪めた表情を消し去った彼は「あーあ」と、溜息混じりに声を上げると、
「難しいことを訊いてくれるな、ジェイ。俺は頭がよくない。人間の道徳なんてわからない。だからこれは、俺個人の答えだ。きっとルシェラは生きることを望んでる。俺らに出来ることは、あの子が欲しいと願うものを与えてやることだけだ」
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