第40話 命を与えること

 ルシェラはベッドごと個室に運ばれた。


 白い壁とクリーム色のカーテンが清潔な印象を与え、小ぢんまりした室内には、ベッド、簡易テーブルと椅子、水道、小さなキャビネットと、その上にはぽつんと簡素な花瓶と古いランプが置いてあった。


 午前中の日差しがふんわりと差し込む小部屋の窓を開けると、深い緑の香りを伴なった風が、やさしく入ってきた。


 その風に起床を促されたかのようにベッドの上で目を開けたルシェラは、ぼやけた視界が徐々にはっきりしてくるや否や、自分の顔を覗きこむジェイとライゼの姿を発見し、安心したように深く息をついた。


 だんだんと意識もはっきりしてくると、自分が倒れるまでの記憶や、今、自分が置かれている状況等を迅速に理解する。


 ――病院か。……もう一度、現世ここで目を覚ますことが出来てよかった。


 ルシェラは無意識のうちにを考えていた。


「よかった……目を覚ましました」


 ジェイは泣きそうな顔で微笑すると、ほっとしたように、乗り出した身を椅子の上に落ち着ける。


「アルルさん、おはようございます。……あの、リサくんは?」


 そう言った声は掠れていたが、倒れる直前まで彼女を苦しめた症状はいくらか和らいでいるようだ。顔色もいい。


「こんなときまで他人ひとの心配かよ」


 ライゼは肩を竦めながら、座っていた椅子から立ち上がった。


「大丈夫ですよ。無事、病院まで連れて行ってもらいましたから」


 ジェイは、安心させてあげたい一心で、笑顔を浮かべながら言った。


「そうですか、よかった」


 ほっと彼女が息をつくと、立ち上がったライゼが「コップ探してくる」と言って、病室を出て行った。


 彼の足音が遠ざかって行くのを耳にしながら、


「具合はどうですか?」と、ジェイ。


「もう、なんとも無いです。相変わらず声は掠れていますけどね」


 ルシェラは困り顔で笑う。


「そうですか」


 ジェイは、自分が自然に笑えているのか、自信がなかった。

 笑顔を意識すればするほど、頬が引きつるような気がして、苦しかった。

 彼女に残された時間があと僅かであると聞いて、自然に振舞えるような心の余裕は、ジェイには無い。


 実際、その表情はぎこちないものだった。ルシェラもそれに気が付いたからこそ、自分の気持ちをありのままに吐き出そうと、こんなことを話し始めたのかもしれない。


「アルルさん」


 急に名前を呼ばれ、どきりとする。


「はい」


「急で申し訳ないのですが、あたしの話を聞いてくださいますか」


 ルシェラはそう言って、上半身を起こした。

 秋の町を照らす太陽のような金の髪は、枕に押し付けられていたせいでくしゃくしゃになっていた。


「話?」


 一つ、頷いたルシェラは、おなかのところで組んだ指に視線を落としながら、口を開いた。


「暗い話になってしまうのですが、どうしても、アルルさんに聞いてほしいんです。何故、こんなことを話したくなったのか、あたしにもわからないんですけど……本当、どうしてだろう。不思議です」


 ルシェラは照れたように笑い、本題に入った。


「エーデ病を患ってから、あたしは常に死を覚悟していました。最初の頃はもちろん、怖くて堪りませんでした。人間にとって、死ぬことは未知ですから。生き物は生まれながらに死の宿命を背負わされているけど、あたしはまだ、死にたくなんてありませんでした。でも死は、確実に私を見据えてやってきます。あたしの人生の真正面を、死が歩いてくる姿が見えるのです。父も母も振り切ることができなかったエーデ病の死が、私の傍にも近寄ってくる。逃げ道なんてありませんでした。やがてあたしは、死を楽観視するようになっていました。そう心がけていました。死ねば、お母さんとお父さんに会える。今後の人生で直面するであろう苦痛を体験しないで済む。何もかもが楽しくて仕方ない時期に死ぬより、今死んでおけば――生まれ変わりがあったなら……また、来世で――……」


 順調に言葉を紡いでいた。しかし、不意に、その声が途絶えた。

 彼女は泣いていた。

 可愛らしい顔をくしゃくしゃにして、何度も何度も、嗚咽を漏らして。

 ずっと我慢してきたものが、一気に感情となって溢れ出てくるのを、押さえ込むことが出来なくなってしまったのだろう。冷静で大人びた印象のルシェラは、ここにいない。今までのそういったルシェラは、死の恐怖を克服するために生まれた、偽りの姿だったのだ。


「でも……」


 ルシェラは嗚咽の合間に、続けた。


「そう思っていたのは、アルルさんとデイスさんに会うまでのことでした。病気になった途端、村のみんなはあたしに冷たくしたけれど、そんなあたしにも手を差し伸べてくれる人がいると知った途端、あれほど覚悟していた死が、途轍もなく怖くてたまらなくなりました。死を受け入れられなくなってしまいました。どうして昨日まであんなにも冷静に死を受け入れてこられたのか、不思議でならなくなった。そして気付いたんです。二人に会うまでのあたしは、既に死んでいたということに。死人は死を恐れません。あたしはまさに、それだったのです。

生きながらに死んでいたあたしに、生を与えてくれたのは、アルルさんたちです。与えられた生を手放すのが惜しくなってしまった。……でも、それだけで……あたしは幸せです。最後にこうして、命を与えてもらえた。この上ない幸福です。どんなに感謝を述べても足りません」


 その時、ライゼがコップを一つ手にして戻ってきた。

 彼はルシェラが泣いているのを見て、思わず部屋の入り口で立ち止まる。自分が少し席を外した間に何があったのだろうかと目を剥いたが、彼女の口から「ありがとうございます、ありがとうございます」と、ひたすら感謝の言葉が零れ落ちるのを耳にするなり、悲しみと喜びが混ざり合ったような、複雑な表情を湛えた。

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