第39話 残された時間
『なんだって、ルシェラが倒れた?』
病院から戻ってきたラシン村の風に事の経緯を説明すると、彼は綺麗な顔を歪めて、そう言った。
「はい。ライゼが彼女を病院まで運んでくれています」
『彼が?』
「彼は妖人族なのです。人並みはずれた身体能力があれば、馬車で行くより早く医者に診せられると……うわっ」
ジェイは言葉の途中で悲鳴を上げた。風が、何も言わずにひょい、と小柄な少年を肩に担ぎ上げたからだ。優雅な彼からは想像もつかないほどに乱暴な抱き上げられ方に、ジェイは慌てて風の背中から胸に向かって両手を回す。
『落とさないように気をつけるが、君も落ちないように気をつけてくれ』
ジェイの返事も待たず、文字通り神速果敢たる判断力で、ルシェラの運ばれた病院目指し、村を上空から飛び出した。真下にある地面が一気に遠退いて行く。
地上では、ケヤキの木が、
『ルシェラをよろしくね!』
と、大きく手を振っている。
やがて、村が遠ざかってくると、
『ケヤキが全て話してくれたのか、ルシェラのこと』
と、風が言う。
「はい」
『そうか。あいつは昔から彼女のことを気にかけていた、おせっかい焼きさ。ルシェラに私たちの声は聴こえない。なのにあいつは、よくあの子に話しかけていたな』
風は過去を思い出すような目付きになって、言った。
――あなたもですよね?
ジェイは、風の胴体に回した腕から少しだけ力を抜いて、口には出さず心の中で言った。
これは単なる想像でしかないけれど、あのケヤキの木とラシン村の風――二人が見守る間で絵本を読むルシェラの姿が、一枚の写真のように思い浮かぶのだ。
彼らの声を聴くことが出来ないルシェラが、傍に寄り添ったあたたかな空気に気が付いて、心地よさそうに目を細める場面が、まるでそこにあるかのように想像できる……。
もしかしたら彼女も、自分と同じ超能力を持っているのかもと錯覚してしまう。
彼女は人間に嫌われていたけれど、あの純真で真っ直ぐな瞳と、心の優しい少女は、自然界に生きる彼らにとって、実体を持った、生きるオアシスのような存在だったのだろう。
・
・
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やがて、眼下に背の高い建物が建ち並び、人々の往来が増えてきた頃、
『この町一番の病院はあれだ』
と、風が人目を憚って、病院の裏手側で下してくれた。
今度は、急に現れた地面に違和感を感じて、足元がふらついたが、時期にその感覚も消えた。
「ありがとうございました。あの……もしかしたら時間がかかるかもしれないので、もう――」
『いや、いくらでも待つさ。ケヤキに彼女の病状を伝えたいんでな』
「わかりました」
ジェイは肩から提げた鞄の紐を、両手でぎゅっと掴んだ。
「ちょっと、行ってきますね」
前転でもしそうな勢いで深々と頭を下げたジェイに、風はこくりと頷いて応えた。
ジェイは心の中で何度も彼に感謝の言葉を述べながら、裏口から院内へ駆け込んだ。
気が急くのをなんとか堪えて、早足で受付へと向かう。
時折立ち止まりながら、所々に掲げられた案内表示を頼りに進んで行くと、受付へはすぐに辿りついた。
待合室をぐるりと見渡す。
並べられた長椅子には所狭しと患者が並び、端っこに設けられた小ぢんまりしたスペースでは、子どもが絵を書いたり本を読んだりと、退屈しのぎに余念が無い。
長椅子に腰をかけている人々の顔の中に、ライゼの姿はなかった。
「すみません、先ほどここに、ルシェラ・アロンという少女が運ばれてきませんでしたか? 背の高い、赤っぽい髪の男の人が一緒だったと思うのですが」
カウンターの中の若い女性にそう訊ねると、彼女は、今ルシェラが治療を受けている部屋の場所を丁寧に教えてくれた。
治療。その言葉を聞いて、一気に胸元が重くなるのを感じた。
お礼を言って、道順を忘れないうちに歩き出す。
何人かの人とすれ違うたび、その足取りはやがて駆け足に変わった。
廊下を歩く看護師からは、
「危ないので、走らないでください」
と注意を受ける。
始めの内はちゃんと従っていたが、じきに周囲の声は耳へ届かなくなっていた。
――ルシェラ。
見ず知らずの旅人に優しくしてくれたルシェラ。
出会って間もない自分たちに心を開いてくれたルシェラ。
自分よりも年下なのにしっかり者のルシェラ。
自分の弱さを克服しようとしていたルシェラ。
どんなに虐げられようとも、決して人を見捨てることをしなかったルシェラ。
不思議だ。二日前に出会ったとは思えない。
彼ら三人には、時間なんて介入できないほどの豊かな情があった。
彼女が死ぬのは今ではない。ずっと、ずっと先であるべきだ。
彼女は人間の希望だ。神が望んだ、希望の子だ。
劣悪な環境の中でも、腐らずにいてくれた。まるで、彼ら二人との出会いを心待ちにしていたかのようだ。
自ら命を絶たずに、周りの人間と同じように生きられる時を生きていてくれた。
他の人間と違うのは、ルシェラには死の姿が見えていたこと。あとどれくらいしたら自分の
怖かっただろう、苦しかっただろう。あの歳で死を受け入れる恐怖を克服せねばならなかったのだから。
人間が克服できない恐怖を克服しようと、努力を重ねてきたのだろう。孤独と共に。
ルシェラに孤独のまま死んで欲しくなかった。
せめて、彼女がこの世を去るときは――……
こんな自分に出来ることは――……
ジェイは次の角を、速度を殺さずに曲がった。
その先は行き止まりだった。
正確には、重々しい銀の扉が冷静に口を閉ざしており、壁際に置かれた簡素なベンチにライゼが座っていた。
ぼんやりした様子で、疲れてはいないが元気だというわけでもない顔をしている。
ライゼは息を切らしたジェイの姿に気がついて、顔を上げた。
「ジェイ……」
その声に覇気はない。
不安は一層深まってゆく。
嫌な汗が
――ルシェラは?
そう問う勇気がまったく湧いてこない。
こちらをじっと見つめる紅茶色の瞳。いつもは力強いはずのその瞳が、何故だ……いつになく弱々しい。
重苦しい沈黙が流れた。
片方は立ち尽くしたまま、もう片方は立ち上がる気力もない。
長いこと、その沈黙は二人を取り巻いていた。
やがて、銀の扉が軋んだ音を立てて開くと、中から数人の看護師と医者と、ベッドに寝かされたルシェラが出てきた。
薄い毛布の下には、下したての入院儀を着た痩せた身体が横たわっている。
意識が無いのか、瞳は閉じたままで何の反応も示さない。
二人は息を呑んだ。
ライゼは立ち上がると、先頭を歩く医者の前に立ち止まり、訊ねた。
「――ルシェラは?」
勢いの割に、その声は弱く、頼りない。
医者は真面目な顔で答える。
「今は落ち着いていますが、エーデ病の症状はかなり進行しています。
歯切れが悪い。
いっそ、もう何も言わないでくれ。――そう思った。
ジェイは吐き気のような不快感に襲われ、口元を手で覆う。
この先の言葉を聞きたくない。
「……持って、あと三週間です」
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