第38話 私の声が聴こえる君へ
村人たちは皆、口を噤んでいた。
やがて、誰かがほっと息をつくと、皆が傍にいる相手に安堵したように声をかけ始め、張り詰めた空気は一気に霧散してゆく。
村人たちの顔から沈痛な色が剥がれ落ち、いくらか時が過ぎると、鍋や桶を持ってぱらぱらと家の中へ引っ込んで行く姿が目に付き、ようやくジェイも胸を撫で下ろした。
ギルウィルは、はっと我に返ると、村の外へ駆け出していった。馬車で病院へと向かうのだろう。
――どうか、あの少年が元気に家へ帰って来られますように。
ギルウィルの背中に向かって、そう願っていると、傍に誰かが近寄ってくる気配がした。
反射的にそちらへ顔を向けると、先ほど彼が、井戸の水が使えるかどうかを訊ねた青年が、おずおずと声をかけてきた。
「あの、よかったら、うちに来ないか? 服を貸してあげるよ。そのままじゃ、寒いだろ?」
「え、いいんですか?」
「うん。どうぞ」
「助かります。ありがとうございます」
青年は踵を返し、自分の家までジェイを案内した。
玄関を通されて、内装をぐるりと見渡す。
広さや家具の配置を見ると、どうやら彼はこの村で一人で暮らしているらしい。
彼も多くは語らないし、ジェイも根掘り葉掘り聞くのは好きではないので詳しくはわからなかったが、家には誰も居らず、やや乱雑な内装を見て、彼が整理整頓が苦手であることを悟った。
彼は木製のキャビネットの中からトゥニカを引っ張り出すと、汚れていないかを確認して、ジェイに渡した。
「はい、これ着て。君、旅人なんだろ? その服はあげるよ」
「いえ、それじゃ悪いです。お代をお支払いします」
「やめてくれよ。たかが古着なんだ」
彼は苦笑気味に言った。
「それに、僕ら、君たちに酷いことをしてしまっただろ? こんな些細なことで許してもらおうなんて思ってないけど、小さなことでもいいから役に立ちたいんだ」
「……」
ジェイは涙が出てきそうになるのを必死で堪えた。
彼の真心を純粋に嬉しいと思ったのもあるが、それ以上に込み上げてくる別の感情があった。安心したのだ。ルシェラが住むこのラシン村で、心の優しい青年に出会えたことに心の底から安堵した。
じきにジェイとライゼはこの村を去る。独り残されたルシェラが、これからこの村で暮らしていけるか不安だった。自分たちがいなくなった後で、彼女にとって更に暮らし辛い環境になってしまうのではないか、と、それだけが心配だった。
だが、ひとまずその心配はしないで済みそうだ。
この青年は優しい。
リサ少年を必死に看病するルシェラに手を貸してくれた村人たちも、これからはきっと優しい。
蟠りはすぐに解けないかもしれないけれど、もう二度と、彼女が傷付かないで済むような村になるのは確実だと思えた。
「ありがとうございます」
ジェイは彼の家で着替えさせてもらうと、ずぶ濡れになった方のトゥニカを干しに外へ出た。
その辺の木に引っ掛けて乾かそうと考えていたとき、ジェイの耳に彼の名前を呼ぶ声が届いた。
だが、辺りをきょろきょろ見渡しても、視界にそれらしい人は見当たらない。
気のせいか、と思ったその時、
『こっちだ、稲穂の如き金の髪の少年よ』
ジェイは声を頼りに、背後を振り返った。視線の先には若いケヤキの木が立っていた。
そしてその声の主こそ、ジェイの目に視える、緑の豊かなケヤキの木だった。
緑がかった艶やかな黒髪は肩の上で緩やかに跳ね、穏やかな目元や小さな鼻は親しみやすい雰囲気を醸し出していた。
年の頃は人間で言うと二十代前半くらいか。
木のわりに酷い猫背だったので、どことなく野暮ったい印象を受けた。煌びやかで豪奢な印象の風とは違い、だいぶ庶民的な風貌をしている。
『驚いたよ。私たちの声を聴くことの出来る少年。噂を耳にしたことはあったが、本当に存在するとは思わなんだ。君、歳は幾つだい?』
ケヤキは見た目通りの穏やかな口調で言った。
ジェイは自分の年齢をどう答えたものか逡巡した。春の丘で目が覚めて以来、彼の成長は止まってしまっている。
だいたい、このように訊ねられて答えるのは、
「十五です」
だ。見た目から割り出した年齢なので、その数字が正しい確率は低いが、だいたい納得してもらえる。
『十五か。だいぶ若いな。もう少し上かと思った』
「そう言われたのは初めてです」
ケヤキはすぐ傍のベンチにのっそりと腰を下した。ジェイもなんとなく彼の隣に座る。
『アルルくん、と名乗っていたね』
「はい」
『ルシェラに優しくしてくれてありがとう』
ジェイは目を丸くしてケヤキを見た。彼は正面を向いたままだ。
「え……?」
広い背中を丸くして、組んだ脚に肘をつくと、掌に顎を乗せて話し出す。
『彼女は七歳のときに、家族三人でこの村へやってきたんだ。なんでも、お父さんが都会での暮らしが性に合わなかったらしくてね。始めは郊外の方で商いの仕事をしていたらしいんだけど、勤勉で真面目、かつ仕事の出来る彼は上司に認められて都会の親会社に勤め始めた。
毎日忙しいけれど、収入はかつての倍。だが、都会での暮らしは、生活は裕福になっても、今まで続けてきた仕事の楽しさは無かった。ごちゃごちゃしてて、何処に何があるかわからないような都会は、彼には合わなかった。精神を病む一歩手前さ。
で、九年続けた商いの仕事を捨てて、都会からこのラシン村での生活を始めたんだ。
その当時、この村に子どもはいなかったから、ルシェラはいつも一人だった。学校へは片道半刻かけて通っていたよ。彼女は頭がよかったから、学校での成績はいつも一番さ。そんな彼女に村の人はもちろん優しくした。自分の優れた頭脳を鼻にかけるようなことはしない、むしろ子どもとは思えないほどに謙虚で慎ましい性格の彼女は、みんなに愛された。
一人でいるルシェラにお菓子を与えたり、子供向けの本を買ってあげたり。彼女はそれらを持って、このベンチに――私の隣に――座るんだ。彼女に私の声は届かないけれど、私は彼女の読む世界を一緒に読んで、美味しそうに食べるお菓子の味を想像してみたりした。私はルシェラのことを、一方的に友達だと思っていたんだ。
そんなあるとき、彼女のお父さんがエーデ病に倒れた。
彼女は医者からこの病の説明を聞いて、もっと、自分でも父の病気を理解せんと努力した。学校の図書館や街の大きな図書館に入り浸って、エーデ病について調べた。症状、原因、直す方法。彼女は寝る間も惜しんで医学書を読み漁った。そうこうしているうちに、お父さんは亡くなった。あっという間だった。
悲しみにくれる毎日の中で、残されたたった二人の家族は懸命に生きた。
しかし、あの病は彼女からまたしても奪っていったのだよ。今度は彼女の母親がエーデ病に攫われてしまった。彼女は若くして天涯孤独の身となる。
村のみんなは彼女に同情しつつも、徐々にある疑いを持ち始めた。夫婦揃って、奇病を患ったことに。そして、今回。ルシェラが両親と同じ病に罹ったことで、彼らの疑念は確信に変わったのだ。エーデ病は移る! 村人たちはそう思った。
あれだけ愛されていたルシェラがたちまち疫病神扱いさ。始めのうちはルシェラも、強烈な掌返しに枕を濡らす日々を送っていたことだろう。
エーデ病を患ってから、彼女は私の傍へ来てくれなくなった。
外へ出る時間が減り、用事以外で家から出ることをしなかった。久しぶりに私が彼女を見たとき、思わず言葉を失った。彼女は、笑顔を失い、あの綺麗な瞳は一心に死を見つめるようになっていた。
まるで別人だった。
近寄りがたくて、まるで研いだばかりの剣のような彼女は、孤独の人になった。
私の前で村人たちはルシェラの悪口を言う。それがとても辛かった。
何も悪くないあの子が、大人たちから酷い仕打ちを受けるのを見るのは、この身が裂けるほどに苦しかった。
私は遠くから彼女を見ていてこう思った。“生きてはいるけど、生きてない”と。
ただ死を待っているだけの人間は、生きているようで実は死んでいるのと一緒だと思うんだ。
そんなルシェラに味方をしてくれたのが君たちだ。
たった一日で、彼女は変わった。
幼い心は荒野のように渇いていたが、君たちが来てくれて、ルシェラには色とりどりの花が咲いた。
君たち二人が咲かせた花だ。
私はそれがとても嬉しかった。たとえ、残り僅かな命でも、ルシェラはその時が来るまで笑っていてくれるかもしれない、そんな希望が見えた。
だから私の声が聴こえる君へ、お礼が言いたい。
ありがとう、アルル。彼女の味方をしてくれて』
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