第37話 疾駆!

 ぬかるんだ地面にぶつかる感覚。――痛い。

 トゥニカに泥水が染み込んでくる。胸やお腹がヒヤッとした。

 濡れた服が身体にまとわりついてきて気持ちが悪い。

 冷たい。

 寒い。

 ……それ以上に、眠い。



「ルシェラ! 大丈夫ですか!」

「おい、目を開けろ。返事をしろ!」


 ――アルルさんたちが叫んでる声が聞こえる。扉一枚を隔てた向こう側で――いや、違う。二人はきっとすぐ傍にいて、彼らから遠退いていっているのは、あたしの意識の方だ。

 ルシェラは抗おうとした。二人のところへ戻るため。


 起きないと……返事をしないと……。

 起きて。ね、起きてよ、あたし――。


 ゆっくりと、ルシェラの意識は川に流されるかのように、とおくへ、とおくへ――。



 ジェイは水溜りの上からルシェラを抱き起こすと、頚動脈に指を当て、脈を探した。

 指先に触れる微かな圧。

 脈はある! 少し早いか。急いで病院にいかないと、どうなるかわからない。


 ルシェラがエーデ病の診断を受けたのは、ここから西に二十キロ進んだところにあるヴィヴリーオ街と聞いた。


「どうしよう……」


 ラシン村の風はたった今、出払ってしまった。馬車を借りるか……。だが、どれくらいで病院にたどり着ける? わからない。馬車は二十キロの距離をどれくらいで駆けられるのだろう……! 


 ジェイの脳内が混乱しているさなか、


「仕方ねえな」


 全くそうは思っていなさそうな声で、そう言ったのはライゼだ。


「俺が連れてく」


「ライゼが? でも、どうやって」


 そう言いかけて、ジェイは、はっとした。ライゼの紅茶色の瞳と視線が絡み合う。彼は得意気に、にやりと笑った。


「忘れたのか。俺は正義の味方、妖人族ようじんだぜ」


 ジェイの顔に、希望の光が差し込んだ。


「ライゼ、あなたという人は……!」


 村人たちは、二人の会話を聞きながら不思議そうな顔をしている。

 ライゼはそっとルシェラを抱き上げると、彼女の服に染み込んだ泥が自分の服を汚すことを気にも留めずに、器用に背中に背負い込んだ。


「西へ二十キロ、だったな。ジェイ、お前はどうする」


「僕の足では貴方を追い続けることは不可能ですので、ここに残ります。ラシン村の風が帰ってきたらすぐにそちらへ向かいますので、先に行ってください」


「OK 気をつけろよな」


 頷いたライゼは、「じゃあな」と一言残して、身を低く屈め、人々の合間を縫って村の外へ駆け出した。



 ライゼは笑っていた。


 速い。


 耳元で風の切る音がする。久々の感覚だった。


 ヒトの世に馴染むため人間のふりをして、本来備わった身体能力を封じてきた人生。


 怪我は何日もかけて治さねばならなかったし、遠くが見えすぎてはいけない。3ブロック先の家の夫婦喧嘩の声が聴こえてはいけない。疾走する馬より速く駆けてはいけない。


 人間よりも優れた五感や身体能力は、自分の意思で制御することが出来た。簡単なことだったけれど、それはあまりにも窮屈で、例えるなら縄でやんわりと締め上げられているような感覚。身動きが取れなくはないけど、動くには不便――といったところか。


 自分の持っている能力ちからは、人間が頂点に立つ世の中では、いささか目立ちすぎる。人間よりも強く、優れたものを持っている妖人族たちは皆、人間世界に馴染むために本来の自分を直隠しにしてきた。それが当たり前になっていた。


 だが、今、自分は本来身についている能力ちからで、大地を疾駆している。

 天から与えられた自分が、ありのまま存在している。


 ライゼは気持ちが昂ぶるのを感じた。


 村の入り口が背中から遠く離れた瞬間、ライゼは一気に加速した。

 素足が大地を蹴り上げる音も後を追う。やがて足音はライゼの走るスピードに追いつけなくなった。ついにライゼは風になった!


 景色が物凄い速さで後退して行く。ライゼが通ったうしろで散った枯葉が舞い上がる。


 ルシェラは、体験したことのない引っ張られる感覚に、薄っすらと目をあけた。

 頬を擽るのは赤い毛先。

 目に映る景色が目視できないほどの濃い残像を引いている。

 自分は今、誰かの温かい背中の上にいる。やけに振動の少ない乗り心地だと思った。


 ――デイスさん?


 ルシェラは声を出さずに呟いた。


 ――デイスさん。


 苦痛を押し殺し、彼に助けを求めるかのように。


 深く息が吸えない。新鮮な空気を取り込もうと思えば思うほど、喉の奥で濃い血の味がした。


 込み上げてくる血泡を何とか飲み込む。


 ――今、咳をしたら、デイスさんの服を汚してしまう。


 ルシェラは混濁する意識の中でそう考えながら、再び意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る