第35話 彼女は医学書②

「水をお願いします。とりあえず、バケツ一杯、持ってきてください」


 ルシェラは素早くジェイたちを振り返り、唇からばたばたと鮮血を滴らせながら叫んだ。


 その悲壮な姿に言葉を失いかけた二人だったが、一足早く我に帰ったジェイが、

「は、はい!」と、駆け出し、村の片隅にある井戸に飛びつく。


 枯れ井戸ではないことを確かめるために中を覗きこんでみると、遠くの水面みなもに映った自分も、まじまじとこちらを覗きこんでいるのが見えた。


 水はある。濁っている風にも見えない。汲み上げるための桶も、日常的に使用されている形跡があった。


「この井戸水は使えますか」


 ジェイは傍にいた青年に訊ねた。

 いきなり声をかけられた彼は、少し吃驚したような顔をした。ジェイに話しかけられたことによって、周囲の視線が一気に自分に突き刺さってきて驚いたのであろう。それでも彼はしっかりと頷いてくれた。


「う、うん……使えるよ」


「ありがとうございます」


 ジェイは、井戸の縁に置いてあった桶を中に投げ込んだ。急いで井戸水を汲み上げるや否や、腰のベルトからナイフを抜いて、桶に括りつけてある縄を切る。


 中の水を零さないようにしながらルシェラの元に戻ると、地面の上に寝かされたリサ少年の傍らにしゃがみ込んで、必死に声をかけるエマーヌとルシェラの姿があった。


「水、持ってきました!」


「ありがとうございます」


 ルシェラは肩口で口元の血を拭うと、右手を桶の中に浸し、水の温度を確かめた。

 冷たい。長時間肌に触れていたら霜焼けになりそうだ。リサ少年の熱を冷ますには十分だろう。


は?」


 ジェイが桶を地面に下しながら問う。


「家に戻って、使えそうな手拭をかき集めてもらっています」


 と、そこへライゼが戻ってくる。人間に対して怒りを爆発させるのはとりあえず後回しにして、すっかり人間の姿に戻っていた彼は、「これだけあったぜ」と、ルシェラの傍に膝を着いた。彼が手にした手拭たちは、キャビネットの中にしまってあったおかげで雨に濡れることはなかったが、その代わりに何枚かは薄く煤に汚れていた。


「ありがとうございます。その手拭を全て水に浸してください」


 ライゼは抱えていた手拭を、ジェイの持ってきた桶の中に押し込むと、

「次はどうしたらいい!」

と訊いた。


 ルシェラは桶の中から掬い上げた手拭を一枚、軽く絞り、少し多めに水気を含ませて、リサ少年の額に乗せた。


「体温を下げます。コスモス病のウイルスは体温が平熱に下がれば下がるほど再び熱を上げようとしてきますが、その間は視神経への攻撃が疎かになります。どんどん手拭を絞ってください、弱めに! 水を多めに含ませてください。……それと、飲み水も持ってきてもらえますか。体内からも徹底的に冷やします」


「今すぐ用意します!」


 ジェイはルシェラの家にとって帰した。井戸水を汲み上げるための縄は咄嗟のことで切り離してしまったので、家の中から水を汲んでくるしかない。


 ルシェラは喉をがらがら言わせながら、賢明に指示を出した。

 その間も、口から零れる赤い血は量を増し、滴った赤がリサ少年の白いトゥニカを汚す。


「アルルさん、リサくんの服の胸元を切ってください」


「はい」


 飲み水を運んでくるなり、今度はナイフを取り出して、少年の身体を傷つけないよう慎重に、トゥニカの胸元をお腹の辺りまで裂いた。


 首筋、両脇の下、足の裏、足の付け根に手拭を巻きつけ、温くなったら再び水につけ、冷やす。その作業をジェイとライゼが担当し、ルシェラはリサ少年の頬や腕、胴体に冷えた手拭を押し当て、何度も何度も水につけては絞って冷やし続けた。指先が真っ赤になって、千切れそうに痛んでも、ひたすら熱を冷ますことだけに集中した。


 三人が懸命に手拭を絞っていると、やがて桶の中の水はあっという間になくなった。 


「水が足りない……もっと沢山必要です」


 空っぽの桶をちらりと見やってルシェラが呟いた、その時。


 周りを囲んでいた村人たちが一斉に踵を返したかと思うと、各々、自分たちの家へと引返してゆくではないか。その波は徐々に広がって行き、やがてジェイたちの回りから忽然と村人たちが姿を消す。


 ジェイはきょとんとして、顔を上げた。


「みんな、どうしたのでしょうか……」


「さあな」


 ライゼは顔も上げない。一心不乱に手拭を絞っては、温まった手拭と取り替え続ける。


 ライゼは気が付いていないようだったが、なんだか村の中の気配が変わったような気がする……ジェイはかじかんだ指先に息を吹きかけながらそんな風に思っていた。


 それから間もなくして、ライゼと一緒に手拭を絞っていたジェイは、こぞって姿を消していた彼らが、手に手に桶や鍋を持って戻ってきたのを見て、思わず手を止めた。

 少し遅れて顔を上げたルシェラも、予想だにしていなかった光景に開いた口が塞がらない状態だった。


「これだけあれば足りるか」


 ギルウィルが言った。

 ルシェラは、呼吸も瞬きも忘れて暫し唖然としていたが、話しかけられている相手が自分だと理解して、慌てて返事をする。


「はい、十分です」


 たちまちルシェラの周りには、水の張られた桶たちが群れをなして寄り集まってきた。


 ――何が起こったんだ……。

 ルシェラは頭が回らないまま、手拭を絞るのも忘れて、ぼんやりしてしまう。


「ルシェラ! 手拭もまだあるわよ」


 今度は、別方向から飛び込んできた女性の声に視線を向けるや否や、これでもかという枚数の手拭が次々と桶の中に投げ込まれてゆく。


「これで足りる?」


 ルシェラは我に返った。


「え、ええ。充分です」


「他に必要なものは?」


「今は特にありません。ありがとうございます」


 ルシェラは再び手を動かし始めた。まだ少し、頭の整理が付いていないようだったが、その手際のよさは変わらない。


 エマーヌとギルウィルは、ルシェラを間に挟む形でしゃがみ込むと、彼女のまねをして手拭を絞り始めた。


「冷やせばいいのよね?」


 エマーヌが訊ねる。


「はい……」


 ルシェラは顔を上げることができなかった。今までエマーヌに対してどう接していたかを思い出せず、つい無愛想にもなった。


 ガランデ夫妻はお互いに頷き合うと、せっせと手を動かし始めた。

 エマーヌは何度もリサ少年の名前を呼んだ。

 ギルウィルは力強い声で、息子を励まし続けた。


 彼らの様子を正面で見ていたジェイとライゼは、一時手を休めて顔を見合わせる。

 これは、もしや……。


「これは、もしや、ってやつですかね」


「ううむ……」


 ライゼは考え込むように唸った。


 この流れは、ルシェラが引き込んだものだ。彼女の行動が呼び起こした結果だ。


 ジェイはちらりとルシェラに目を向けた。


 顔には出さないが、彼女のてきぱきとした手つきには、揺るぎない意志のようなものが窺える。心強い味方をつけた、自信のようなものもちらついている。

 心に引っかかっていた何かを克服したような――そんな印象だ。


 ルシェラは込み上げてくるものを心の奥底に押し込んで、最終段階の処置を施していった。


「リサくん、水飲めるかな?」


 少女の問いに、リサ少年は弱々しく頷いた。


 エマーヌに頼んでリサ少年の口を開かせ、手拭に含ませた水を口の中にゆっくり絞った。

 リサ少年は少し苦しそうに水を飲み下すと、ルシェラの服を力のない手で掴んだ。


「大丈夫だよ。大丈夫だからね……」


 小さなその手を握り返しながら、ルシェラは何度もそう繰り返す。


 徐々にリサ少年の身体の表面温度が下がってきた頃、彼女は長く息をつくと、エマーヌに向かって言った。


「このまま病院へ運びます。ウイルスはまだ体内で生きていますので、これ以上の治療はここでは出来ません」


「隣村から馬車を借りてくるわ」


 エマーヌが立ち上がった。


「ここから大きな病院まで、馬車でどれくらいかかりますか?」


 そう訊ねたのはジェイだ。


「一時間……」


 答えたルシェラは、馬車に詰め込めるだけの水を詰め込んで、舗装されていない道を進むにしたがって桶ごと水がひっくり返ってしまう可能性を考えていた。

 この辺りは整備されていない道が多く、病院への最短ルートは特に険しい道のりが続く。

 冷やす水が無くなっては、彼の体力は病院まで持たないだろう。

 

 再び体温が上昇すると、今まで冷えた分を取り戻そうと、ウイルスはより活発に動き出す。そうなってしまえば、リサ少年は一層の苦痛を強いられることになってしまう。


 奇病の治療となると、往診でなくこちらから病院に出向きたいところ……。

 頭を悩ますルシェラの思考に、


「それなら、僕に任せてください」


という希望に満ちた声が割り込んできたのはその時だった。


 顔を上げると、ジェイが得意気な顔でこちらを向いていた。


「代えの水がない場合、彼はどれだけの時間、熱に耐えることが出来ますか?」


「十五分から三十分でしょうか」


 真剣な顔でルシェラが向き合うと、ジェイは多くを語らぬまま立ち上がって、上空を見上げた。


「余裕」


 だなんて、勝ち誇った笑みが浮かんでしまうほど、今のジェイは喜びに満ちていた。

 友達ルシェラに降りかかった災厄ともいえる、村人たちの誤解が解けつつあるこの状況が、彼はまるで自分のことのように嬉しくてたまらなかった。


「もしかして、ジェイ」


 ライゼがわくわくしたような笑顔を浮かべた。

 誰もがその笑顔の意味を理解できずにいた。


「ええ、そうです」


 ジェイも安堵したように微笑む。


 その場にいた全員の視線が少年に注がれた。

 暗い空が急速に明るくなってゆく。

 白い雲の切れ間から青空が見えてくる頃、ジェイは無音の満ちる村の底に耳をすませた。



 彼らの奏でる音を思い出す。

 葉を揺らす音。

 季節の香りを運んでくる音。

 来てくれ、僕の傍へ。

 この土地に住まう者よ。

 大らかなる民よ――


 ジェイは、すっかり晴れ渡った空に向かって深呼吸した。

 来たれ……。

「ラシン村の風よ……」

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