第34話 彼女は医学書①
コスモス病。
初めてその病が医学会に認知されたのは今から五十年前。
症状は、高熱、激しい頭痛、全身のだるさ、節々の痛み、そして、視覚機能の停止。
カラルナ大陸内での発症例は、年間で三十件を下回り、世界三大奇病の一つとして名が上げられる。
世界的に見ても大変稀な病で、発症する八割が十歳未満の子どもである。
コスモス病の最も特徴的な症状は、細菌による視覚機能への攻撃で、どういうわけかこの細菌は視神経に集まる特性を有し、やがて、深い霧の中に放り込まれたかのような真っ白い景色が患者の視界を包み込むのだという。
虹彩に寄り集まった細菌が角膜を覆い尽くすことで目が見えなくなるので、細菌を排除することが出来ればすぐに視力は回復する。
幸福なことに、医学の成長が著しい現代において、コスモス病は奇病と名高くありながら、完治する病なのである。発祥例が少ないだけであって、そのメカニズムは単純明快。ちゃんとした治療法がある。ただし、タイムリミットは発症してから四十八時間。
発熱から十時間程で細菌は頭部へ移動し、世界が真っ白く染まる。それを長時間放置してしまうと、やがて細菌は視神経に根を張り、そうなってしまってはもう手が付けられない。
少なく見積もって、リサ少年が昨日の午後、高熱を出したと考えるならば、まだ時間は十分にある。
病院へ――!
ルシェラは群集に向かって口を開いた。
「聞いて下さい、その子は……コスモス病――……」
その瞬間、ルシェラの喉が引きつるように痛んだ。イガに包まれたままの栗をいくつも丸呑みしたかのような苦痛だった。
たちまち息をするのも困難なほどの空咳がルシェラを襲う。
身体がくの字に折れ、息を深く吸い込むたびに喉がひゅうひゅう鳴った。
激しい喉の痛みと、喋る隙すら与えてくれない咳の嵐に、思わず膝を屈したくなった。なんとか地に踏ん張って持ちこたえるも、耳に入ってくるのは村人たちの落胆の声ばかり。
「ああ……もう駄目だ」
「村は病に侵されてしまうのだ」
「私たちの身体も、もう……」
そんな声が上がる。
そんな声が、意識外の遠くから聞こえてくる。
それが悔しくてたまらない。
「畜生……!」など、普段の自分なら絶対口にしないだろう過激な言葉を吐かずにはいられなかった。
ルシェラは己に問うた。
『どうしてこのようなことを言われて黙っていられるのか』と。
『まるでお前自身が疫病であるかのような言われようではないか』と。
『理不尽な言葉の数々に言い返そうとしないのは、村の人間たちに嫌われるのが怖いからか。……どうして怖いのだ。忘れたのか、ルシェラ・アロン。お前はもうすぐ死ぬんだぞ。どうせ、こいつらの前からいなくなってしまうのだぞ。なにを怯える必要があるのだ』
己と向き合って、今、自分が立っている人生の位置を思い出した。目の前に道は無い。先には暗い闇が果てしなく続いているだけだ。永遠の謎に包まれた死後の世界がそこにはあった。
途端にルシェラは双肩が軽くなるのを感じた。
「ああ……そうだったね……」
ルシェラは息も絶え絶えに呟いた。
どうして忘れていたのだろう。自分には間もなく死が訪れる。何をしたって、自分はここからいなくなる。深く考えて臆病になるなんて無意味だ。怖がることなんて無駄なんだ。
「出てゆけ、何も出来ないルシェラ・アロン――嫌われるのを怖がるのは誰だって出来る。今必要なのは、迫害の恐怖を克服し、潔白である己を誇り、自分を信ずるままに行動すること」
荒波の上の船上に立たされている錯覚を引き起こすほどの眩暈が彼女を襲った。
しかし、病魔に蝕まれた身体と、生まれ育ったラシン村への情、両方とも捨て置いて立ち上がったルシェラは、真っ向から襲い来るエーデ病の苦しみをねじ伏せて、声の限り叫んだ。
「彼は! コスモス病という奇病に罹っています。処置が遅れれば、一生目が見えなくなってしまうかもしれない、危険な病です――!」
その声は、ひどくしゃがれていながら村全体に高く響き渡った。声を出すのも精一杯――いや、呼吸をするだけでも喉が痛くて仕方がないはずなのに、彼女は人々に己の声を届けようと必死に声を張り上げた。
――だが、なんということだ……その直後、ルシェラは大きく咳き込んだかと思うと、喘ぐような呼吸す数回繰り返した後、黒っぽく濡れた地面に向かって喀血した。
周囲から悲鳴が沸き起こった。
血痰が喉に絡みつく不快感。
肺に入ってくる酸素の量が急激に低下し、衝動的な恐怖に全身を支配される。
(――ついにこの時が来たか……)
エーデ病の喀血は間もなくの死を意味する。
数日か、早ければ数時間後に命の灯火は消える。
ふと、ルシェラが正面を見上げると、そこには死が立っていた。
ルシェラの姿形を借りた死が、両手を後ろで組んで、にこにこしながら自分を見つめている。
死は何も言わずに、ただ、笑顔でルシェラを見ている。
どうして生きている私が笑えないのに、死はこんなにも明るく笑っているのだろう。
ルシェラは、赤く染まった口元をトゥニカの袖で拭った。袖に染み込んだ血を見て、一瞬ギョッとする。想像していたよりも血の量が多かった。
思わず悲鳴が出そうになるのを堪えて、ルシェラは努めて冷静にリサ少年に話しかけた。
「ね、リサくん……さっき、目って言ってたよね? 目が見えないの?」
リサ少年はルシェラの掠れた声に反応して、首をきょろきょろと動かした。声の出所を探しているようだが、きっと彼の見る世界は一面の霧に覆われているのだろう。
返事を待たずに、彼女は続ける。
「最初に熱が出た。単なる風邪だと思っていた。朝になったら、楽になっているかも。もし熱が下がっていないようなら、病院へ連れて行ってもらおう……。でも、朝起きたら、だんだんと目が見えなくなってきた……そんなところかな」
リサ少年は、虚ろな瞳から幾つも涙を零しながら虚空を見つめた。目の見えない恐怖に飲み込まれているのだろう。
「ルシェラちゃん、僕の具合悪い理由わかるの……?」
涙声でリサ少年が言う。
「うん……わかるよ」
リサ少年は安心したように微笑むと同時に、わっと泣き出した。
「具合悪い……辛いよ、怖いよ、ルシェラちゃん……助けて……」
ルシェラは、淀んだ心の中心をぱっと射抜かれたような気がした。
助けて、か……。
ルシェラは頬を引きつらせながらも、努めて明るく振舞いたくて、にっこり笑い、
「うん、助けるよ。また、一緒にご飯食べよう」
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