第36話 彼女は医学書③

 ざあッ……


 木の葉を揺らす風のせせらぎが人々の耳朶じだに触れたその時、ジェイの身体を大らかな風が取り巻いた。――ライゼや村人たちにはそう見えていた。


 ジェイは、上空の何処からともなくやってきたラシン村の風に、纏っていた長外套で全身を包み込まれ、薄暗い中で彼の声を聴いた。


『私の声を聴くことができるのか。そんな人間に会うのは十年ぶりか……いや、もっと前だったか……』


 ラシン村の風は静かな声で喋りながら、外套の中を覗きこんで、その中にいる金髪の少年に、にっこり微笑みかけた。


 くすんだ水色をした、まっすぐで豊かな髪を微風に揺らし、同じ色の優しげな双眸が、陽光を浴びた朝露のようにきらりと光る。


 細く尖った顎先に、すらりと伸びた細い首。薄い唇はつやつやと潤い、彫りの深さを強調する高い鼻梁は、まるで伝説の細工師が手がけた彫刻作品のように、洗練された美しさに満ちていた。


 よれて薄い胸板が見える首元には、豪奢な金の首飾りが揺れていて、箇所箇所に嵌め込まれた大きなルビーやサファイアは、思わず声が出てしまうほど美しい。


 その飾りに引けを取らないほどの美貌は、まるで童話から出てきた王子様のようだ。男のジェイも、彼の整った顔立ちにはドキドキしないではいられず、照れたように視線を泳がせる。


「は、はじめまして、ラシン村の風。僕は――えーと……訳あって、本名を名乗ることは出来ないのですが、アルルと名乗らせていただきます」


 先程の騒ぎで本名を隠すのを失念しておいて、偽名もなにもあったものでもないが、一応仮の名を名乗っておく。


『ふむ、アルルか。自然界わたしたちと語らえる言葉を有して、何を語るのだ』


 ラシン村の風が微笑を深めて訪ねた。肩の上に乗っていた長い髪が、しゃら、と音を立てて胸元に落ちる。


「そこにいる少年を病院まで運んでもらいたいのです。馬車で行くよりも早く、かつ安全な速度で」


『病院?』


「ここから一番近い、大きな病院がいいです」


 そして、この状況に至るまでの経緯を簡潔に説明した。


 風は優雅な佇まいで少年の話に耳を傾けながら、時に顔を歪め、時に悲しそうに眉を下げるなど、表情をころころ変えながら、ジェイの話を聞き届けた。


「と、いうわけなのです。どうか、お力を貸していただけませんか」


『いいだろう。人間きみの願いを叶えよう』


 風は大様に頷いた。


「ありがとうございます」


 ジェイはほっとしてルシェラたちを振り返った。風は外套を大きく翻して、彼を中から解放する。


 二人のやり取り――というよりも、ジェイの独り言(を言っているように見える姿)を黙って見届けていた村人たちを代表して、ルシェラが不思議そうに訊ねた。


「アルルさん……一体何を――」


 ジェイは、にっと笑いながら、唇に人差し指を押し当てた。


「ヒミツです」


 さて、とジェイはエマーヌを振り返る。


「これから、リサ少年を病院まで運びます。お母さんは、彼のことをしっかりと抱いていてください。


「え……?」


 エマーヌは、最後に付け足されたの言葉の意味がわからず、はっきりと頷けないでいた。


 リサ少年は眠っているのか起きているのかわからなかったが、息は未だに荒いままである。

 

「君、リサをどうやって病院まで連れて行くのだ」


 ギルウィルが急いたように訊ねてきた。

 ジェイは答え辛そうに愛想笑いし、ラシン村の風を振り返った。


「この少年と、彼のお母さんも付き添いとして一緒に連れて行ってください。できますか?」


『もちろんだ』


「よかった。ではお願いします」


『任せろ』


 ラシン村の風はしっかりと頷いて、リサ少年を抱き上げた。

 たちまち、人々の中から悲鳴が上がる。

 ジェイ以外の人間たちには、小さな竜巻のように渦を巻いた風がリサ少年を空中に浮かび上がらせたように見えたのだ。


 目にしたことのない奇異な光景に、人々は悲鳴の後の言葉を失う。


 ラシン村の風は気分よさそうに笑った。


『どうだ、人間諸君。私はすごいのだぞ』などと得意気な台詞を吐きながら、片手でリサ少年を抱き、開いた方の腕をエマーヌに伸ばした。


 軽く引っ張られるような感覚の後に、妙な浮遊感が襲い掛かる。エマーヌが小さく悲鳴を上げて身を固くしていると、次の瞬間、彼女の身体も、ふわっと宙に浮かんだ。


「エマ!」


 ギルウィルが血相変えて叫んだ。


「な、なに! なんなの!?」


 エマーヌが混乱したように身動ぎする。


「大丈夫です。暴れないでくださいね、危ないですから。リサ少年を助けたいのなら、病院に着くまで大人しくしていてください」


 エマーヌは目を白黒させながらジェイを見下ろしたが、自分の腕の中に息子を抱きしめると、固く目を閉じて頷いた。

 息子を守る母の強さは、人間の想像を超えた状況に身を委ねられるだけの対応力がある。


 ジェイはラシン村の風に向かって、力強く頷いた。


「気をつけて」


『ああ』


 二人の身体がさらに高く浮き上がり、人々は揃って息を呑んだ。ギルウィルはそわそわと忙しない様子で空を見上げていた。


「絶対に大丈夫ですから。きちんとが病院まで連れて行ってくれますからね」


 エマーヌはもちろん怖かったが、「息子を救うため、もうどうにでもなれ!」と腹を括って身を固くした。


 エマーヌとリサ少年は少しずつ空に向かって上昇して行く。


「お願いします……風」


 小さな声で呟いたジェイは、だんだんと遠くなってゆくラシン村の風の姿を見つめて、胸に手を当てた。


 やがて、三人の姿は遠い空の向こうに見えなくなっていった。

 その場に残ったのは、水が入った桶や鍋、水浸しになった手拭が乱雑に散らかった雨上がりの地面。そして、異様な沈黙。朝であることを失念してしまいそうな静寂だ。


 やがて、その静寂は安堵に変わった。とりあえず、今、自分たちに出来ることは待つことだけだ。

 一同がホッと息をつきかけた――その時だった。


 そこにいた全員が空を見つめていたが、何かが倒れるような気配に、人々の視線が一斉に地上へ下りてくる。


 その途端、ジェイとライゼは全身から血の気が下るのを感じた。


「ルシェラ!」


 二人は声を重ねて叫んだ。


 ルシェラが喀血して倒れた。

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