第32話 人間の姿と悪の姿

 雨が止んだ。

 予期せぬ豪雨のゲリラ戦は、人々が建物内に逃げ込むや否や、突如として終結し、辺りは呆気ないほどの静寂に包まれる。

 空にはまだ分厚い雲が浮かんでいて、朝だということを忘れてしまうくらいに薄暗い。


 村中には重たい雨の香りと、濡れた大地のくすんだ香りに混じって、一触即発の張り詰めた雰囲気が徐々に徐々に立ち込める。……その理由わけは――。


「デイスさん……」


 ルシェラが、目の前に立ちはだかるライゼの後ろ姿を見上げながら、呆然と呟いた。

 その姿というのは、あの――物恐ろしい妖人族の姿だ。


 紅茶色の虹彩は、中に炎でも閉じ込めているかの如くギラギラと赤く光り、中心に浮いた瞳孔は細く縦に伸びている。


 丸みを帯びていた耳は悪魔の如く鋭く尖り、上下から生えた四本の犬歯が隠しおおせようも無いほどに伸び、唇の外へ露出した。


 彼の手を見よ。成人男性の頭部すら片手で掴み上げられそうなくらいに大きく、指先についた爪は、肉を引き裂く猛獣の爪そのものではないか。


 ルシェラは、ライゼの背中から放たれる威圧感のようなものに、一瞬、眩暈を覚えた。


 まるでライゼの周囲を、世界中から集まってきた悪しきオーラが纏わりついているかのように、今の彼には近寄りがたく、約束された生の安息さえどこかへ吹き飛んでいってしまうような恐怖に囚われてしまう。

 

 本来の姿を解き放つライゼを、ジェイは止める事ができなかった。

 心の中では「駄目ですライゼ! 堪えてください!」と何度叫んだことか。

 しかし、それを口に出すことが出来なかったのは、妖人族の姿を目の当たりにして、恐怖したからだ。


 恐怖は声帯を凍らせる。

 その場から動けなくなった。

 妖人族の纏う噎せ返るほどの憎悪が、目に見えてわかるほどに迸っているのを感じてしまうと、瞬きや呼吸すらも忘れて、ただただ全身で恐怖するしかなかった。


 どうしてこの姿がこんなにも恐ろしいと思うのだろう。

 彼のこの姿を見るのは初めてではないジェイも、後姿を見ただけで、冷たい指先で心臓を撫でられるような不安を掻き立てられた。

 心がざわつく。まるで、古傷を抉られるかのように……。


「アルルさん……」


 ルシェラが自分に縋りついてくる気配を感じたジェイは、「大丈夫です」の意味を込めて、その細い身体を軽く抱き寄せた。

 昨日、ライゼは彼女に自分のを明かしていた。それを聞いて知っていたはずのルシェラも、己の目で彼の本当の姿を目の当たりにして、動揺を隠せるほどの心の余裕はないと見えた。


 彼ら三人を囲んだ人垣が恐怖にざわめいている。いつの間にか家の中から出てきたのか、その野次馬精神は怒りを通り越してもはやお笑い種だ。


 こちらがその見上げた根性に失笑している一方で、人間の面影を一切排除した獣のような姿を目にし、酷く怯えた様子の彼らは、その鋭い牙が、爪が、己を襲い掛かってくるのではないかと、息を呑んでいる。


 ライゼは、人間の感覚で言ったら、なのだ。

 人間が持たない人並みはずれた身体能力をその身に宿した人外。その優れた能力を武器にして、かつては人間と対立した歴史がある。人間しか住まぬこの地において、彼は他でもないなのだ。


(違う……)


 そのをこの場で唯一否定したのはジェイだ。


(違う、違う。ライゼは悪ではない。彼は決して、悪ではない。事実だとか綺麗ごととか、そんな括りにない。ライゼが掲げるのは紛れもない正義だ。彼はいつも、正しい者の味方であるはずだ)


 一緒にいる時間は決して長くない。でもわかる。理屈ではない。説明なんか出来ない、けれど。ジェイは断言する。ライゼは悪ではないと。


 ジェイは心の中で確信を得ると、俯いたまま静かに立ち上がった。毛先に垂れ下がっていた雨滴が膝先にぱたぱたと滴った。


 ルシェラは、傍を離れて行くジェイの背に小さく手を伸ばしかけたが、その指先は彼の衣に触れないまま、そっと膝の上に降りた。

 今、ジェイを立ち止まらせるべきではない。無意識のうちにそう悟っていた。


 ジェイは恐怖に胸を支配されたまま、ライゼの肩に手を伸ばす。

 指が肩先に触れる刹那、ぴりぴりと微かに痛みが流れ込んできたような気がした。


「ライゼ、落ち着いてください。徐々に姿を戻して。あなたがここで人を襲ってしまえば、僕たちは本当に罪人になってしまうのですよ」


 耳元で囁かれた言葉に反応したライゼは、口を噤んだままちらりとジェイを振り返った。


 ジェイは目を合わせようとしないままライゼの半歩前に立つと、人垣に向かって声を張り上げた。


「ここにいる僕の相棒、デイス・レクトルは人間です」

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