第31話 朱い炎
「まだ小火程度だが、時期に火は回る」
「ええ!」
まさか……そんな……うそだ……。
ルシェラの脳内を駆け巡るのは、絶望と、一つの疑惑。さっき、家の裏から出てきたギルウィルさん……。まさか、あの人が――
ルシェラはひどく動揺した様子で、家の中を見渡した。持ち出すものを選んでいるのか、あっちに手を伸ばし、こっちに手を伸ばししている。
「起きろ、ジェイ! 死にたいのか!」
ライゼは未だに夢と現実の狭間で呆然と立ち尽くすジェイを引っ立てて、その丸い額に頭突きを叩き込んだ。
「いったぁ……」
ごつん、と重い音が衝撃と共に炸裂すると、目に涙を浮かべたジェイが額を押さえて腰を折り曲げた。
「目が覚めたか。早く外へ逃げろ。火事だ」
「ええ!?」
ジェイは辺りを見渡して、裏木戸のほうから火の手が迫ってくるのを確認すると、「ひゃっ」と声を上げた。
部屋の中はたちまち煙が満ちた。
ルシェラは濡らした手拭を口元に当て、寝台の傍へ引返す。
炎が爆ぜる音。
木の燃える匂い。
生活が炎に飲み込まれる。
全てが彼女を絶望へと突き落とした。
安息を蝕む炎が悪魔のように嗤う。
「ほら、お前の荷物だ。自分で持って行きな。さあ、早く出ろ!」
ライゼはそう言ってジェイの背中を押し、家の中を振り返った。
「ルシェラ、俺らも出るぞ」
「もう少し待って!」
ルシェラは泣きそうな声でそう言いながら、枕元のキャビネットの上段をがちゃがちゃと引っかきまわしている。
裏木戸の外で何かが崩れる音がして、慌ててそちらを向けば、既に火が家の中にまで侵蝕してきていた。
ひらひら揺れる真っ赤な炎が外壁を包み込み、天に向かって高らかに嗤う声も次第に大きくなってくる。
「ルシェラ! 早く!」
「あった!」
ルシェラが小さい何かを握り締めて、ほっとしたように叫んだ途端、ライゼは彼女の手を引いて、靴も履かずに玄関を飛び出した。
玄関先で蹈鞴を踏んで尻餅をついた二人。
先に外へ出ていたジェイは、空を舐めようと大きな舌をひらつかせた悪魔のような姿をした炎を呆然と眺めていた。
ライゼとルシェラが家を振り返ると、開けっ放しの扉の向こう側は幾重にも伸びた火の手がカーテンや家具に燃え移り、つい先程まで眠りの園だった空間は瞬く間に朱に包まれた。
三人は何も考えられず、ただ呆然と炎が全てを燃やし尽くす様子を、口をあけて見つめていた。
はっと我に返ったルシェラが、
「火を……火を消さないと……消防団を、呼ばないと……」
と立ち上がる。
消防団はこの村には無い。ここから南に一キロ歩いた所にあるセレン村まで呼びに行かないといけないのだ。
ルシェラは混乱していたのだろう。
口ではそう言っても、まずは何をしていいのかわからず、身体が動かない。
すると、村の表の方からわらわらと人が集まってきた。
近付きすぎず、一定の距離を間に敷いて、多くの瞳が、三人と炎に包まれる家を見つめている。
誰も手を貸してくれない。
村で火事が起こっているというのに、誰一人、消防団を呼びに行こうとしない。
ジェイもライゼも言葉を失っていた。
いくらなんでも、こんな仕打ちはひどすぎる。人間の所業ではない。
村人たちは皆小声で何か言葉を交わしはじめた。その内容が好い話ではないことくらい、考えないでもわかる。
ジェイにはその内容が聞こえてくるような気がして、耳を塞いだ。
「私の家が……」
ルシェラが震えた声で呟いた。
ジェイはただただ立ち尽くした彼女を見て、はっとしたように目を見開いた。
何をやっている、ジェイ。
早く火を消さないと!
僕には……いや、僕の
ジェイは深く息を吸い込んだ。
(お願い……僕の声を聞いて……)
ジェイは目を閉じた。
そこに、彼らの姿を想像した。
大地を濡らす天の恵みよ……豊穣の民たちよ……。
この悪の炎を討ち払うべく――
「……雨よ」
ゆっくりと目を開いたジェイは、屋根の上にちらつく炎を喰らい付くような目で睨みつけながら、静かに、重く呟いた。
すると、どこからともなく水気を含んだ風が村の上空を渦巻き、湿った土の匂いが、この場にいる全員の鼻腔を打った。
希望の朝陽を遮って、禍々しいまでの曇天が頭上を覆い尽くすや否や、まるでここが滝壺か何かであるみたいに、空から大量の雨が降り注いだ。
そのあまりの勢いに、村人たちは悲鳴を上げて、それぞれの家の中へ駆け込んで行く。
雨が地を叩きつける音以外、ここにはいかなる音も存在しなくなっていった。
ライゼとルシェラは、顔面を叩きつける雨水から逃げるように顔を両腕で庇った。
突如、村を襲った豪雨によって、家を飲み込んだ炎はそれ以上、燃え広がることを許されず、地面に向かって徐々に小さくなってゆく。
やがて、ルシェラの家を包み込んだおぞましき朱の悪魔は、少年のもたらした神業の如き超能力に敗北を喫することを余儀なくされた。
炎の姿はたちまち黒い煙へと変貌を遂げ、半ば焼け落ちた家は弾丸のような雨に打たれて、今にも崩れ落ちそうな気配だった。
やがて雨は少しずつ弱まり、空にうっすらと明るさが戻ってくる。
短時間で出来上がった大きな水溜りの表面を、小さな波紋がぽつぽつと模様を描くようになると、ライゼはふらっと立ち上がって、家の裏手へ回った。
「デイスさん……?」
ずぶ濡れになったルシェラが言った。
彼は返事もしないで姿を消す。
家が焼けた匂いだ。
不毛な匂い。
まだ所々で煙が立ち上り、あちこちから雨水の滴る音がした。
家の裏手側はひどい有様だった。
外壁は黒く漕げ、所々が焼け落ちている。
「ひどい……」
思わず呟いたライゼは、鼻を突く焦げ臭さに顔を顰めた。
裏木戸の前で立ち止まった彼は、すんすんと鼻をひくつかせて、匂いの元を辿った。
焦げ臭い中に紛れ込んだもう一つの異臭……それは――。
裸足のままぬかるんだ地面を踏みしめて、風呂が中にしつらえられたレンガの壁と、炎や雨風に晒されて無残にも焼け落ちた外壁とを、交互に鼻先を近づけて匂いを嗅いだ。
するとどうだ。家の外壁から微かに油の香りがするではないか。今の大雨でいくらか流れてしまったのだろうが、うっすらと染み込んだ油の匂いを嗅ぎ分けることなど、
ライゼの頭の中に放火の二文字がちらついた。
その時、足元に、先端が黒ずんだ一本の小枝のようなものが落ちているのに気がついた。
その瞬間、ライゼの中に生じた疑惑は確信に変わった。
雨に打たれてびしゃびしゃに濡れた赤い髪が、何匹もの蛇が鎌首を擡げるようにざわめく。
「あいつら……」
ライゼが家の表側に戻ると、ジェイとルシェラを家の中から遠巻きに眺める姿が目に付いた。
ジェイはショックで言葉も出ないルシェラの傍で、彼女の肩を抱いている。
ライゼは片隅に残された理性で人間の姿を保ちながら、二人を庇うように立ち止まると、窓の奥から覗く人々の目を一つ一つね睨めつけながら、禍々しさをそのまま音にしたような声でこう言う……。
「人の面一枚被っただけで上手に化けたつもりか、悪魔共」
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