第29話 ごめん
「ごめん」
と、ジェイが宵闇の漂いはじめた
ルシェラは声のした方へ向かって小さく顔を上げた。少年はいつの間にか、彼女の隣を歩いていた。
「僕たちが無理に君を連れ出さなければ、こんなことにはならなかった……君が傷付くことはなかった」
先を行くライゼは、その言葉を背中で聞きながら、無意識に奥歯を噛み締めていた。
「僕の考えが甘かったんです。人間が同族に対してこんなにも冷たくなれる生き物だったなんて思わなかった……」
ジェイは、家を出る前の自分の軽率な発言を悔いた。自分の思考の甘さに屈辱すら感じていた。
許しがたい己の愚行を思い返して、どうしようもなく怒りがこみ上げてくるのを、両の拳を握り締めることで堪えた。深爪気味の爪が掌に深く痕をつけるほど、ジェイは力を込めて手を握り締めた。
ルーイスとセツナは残酷さこそあれど、心の底にはまともな道を歩むことを願い、人を愛し、愛されることを望んだ人間らしさを宿していた。彼らのしたことは決して許されることはないけれど、心があった分、言葉を交わすことが出来た分だけ、彼らに人間らしさというものを感じることが出来た。
ここの村人たちはそんな二人とは違う種類の違う冷たさを有しているのだ。
「ごめん、ごめんね、ルシェラ。僕のせいで辛い思いをさせてしまいました」
「アルル。お前、自分ひとりのせい、みたいな言い方してんじゃねぇよ。これは俺にも非があった。俺らはただ、何の罪もないお前には堂々としていてほしかったのさ、ルシェラ。だけど、そのせいでお前の立場がさらに辛いものになってしまった。本当にすまなかった。無責任なことをした」
ライゼはハットのつばをぐいと引き下げながら、心の底から詫びた。上辺だけの正義感で盲目的な行動に出てしまった。
妖人族という一種のコンプレックスを利用してヒーローになりたいと望んだライゼは、自分にはその器がないと悟って、己の無力さを嘆いた。
ルシェラは口元でマフラーを握り締めながら、声を殺して泣いた。それでも、唇の端から漏れる声は、彼女の心に満ちた様々な感情の嵐に翻弄され、やがて、声を大にした号泣に変わった。
「ごめん」
ジェイは自分の不甲斐無さを悔いた。泣きたいほどに悔いた。だが、この少女の前で自分の苦痛のために涙を流すのは、不甲斐無さ以上の愚か者でしかない、と思った。
ジェイはルシェラの小さな手を握り締めた。
一瞬、少女の幼い手は怯えたように強張ったけれど、やがて、子どもが父親と手を繋ぐ時のように優しく握り返された。華奢な手は氷水から掬い上げられた直後のように冷たくなっていた。
冷えきった雰囲気を連れたまま家に着くと、人目を離れて安心したのか、ルシェラはぴたりと泣くのをやめて、うさぎみたいに赤くした目元をトゥニカの袖で擦りながら、溜息をついた。
まだ泣いたあとがくっきりと残ったまま、ルシェラはあっけらかんと、
「お腹空きましたね」と言った。
少し鼻声の混じった聞き取り辛い声に、
「ああ」と、立ち直りの早さに少々驚いたように短く返事をしたライゼは、ちら、とキッチンに目を向けた。
ルシャラは痰が絡むような咳を二回した。
「仕方ないな。いっちょ俺が腕を振るってやるよ」
ライゼはブリオーの袖を肘まで捲り上げながら言った。
「キッチン借りてもいい?」
ルシェラは驚いたように目を見開いて頷いた。
「えっ、デイスがごはん作るんですか」
ルシェラも思っていたであろうことをジェイが訊ねた。
「俺以外に誰が作るって言うのよ」
「作れますか」
「失礼なこと言わんでくれよ。今の時代、男だって料理の一つくらい出来ないとな。材料も使わせてくれたまえ。使った分は明日、俺が買い足しておくから」
そう言って二人に背を向けたライゼが四十分後、三人分のスープ皿を食卓に並べた。
「シチューですね」
「おいしそう」
ジェイとルシェラが口々に言った。
「スプーンはどこだい」
「そこの引き出しの上段に入ってます」
「ここか」
言われた通りのところに、木のスプーンが三本と、その他ナイフとフォークがばらばらとしまってあった。
三人分のスープ皿、三人分のスプーン。今は一人のルシェラは、かつてこの食卓で両親と暖かい食事を囲んでいたのだろう。
両親の死から昨日まで、たった独りでキッチンに立って、三枚ある皿の中から一枚取って、三本あるスプーンを一本取って、正面に座っていた両親の姿をそこに夢想した。数多の言葉で家族団らんを彩ったその一時を、たった独りで過ごした。
十四歳の少女が、大好きな両親を喪い、自らも病に体を蝕まれ、噎せ返るほどの恐怖を伴って忍び寄る死を正面から見つめ続けることになったのだ。
大切な人たちと死に別れ、逃れられない死に付き纏われた悲しみの少女。
ルシェラは食事に向かって手を合わせた。
「いただきます」
白い湯気の中にスプーンを差し込んで、とろみのあるスープと一緒に蒲鉾型の人参を掬い上げた。
ふうふうと湯気に息を吹きかけて、熱を冷まし、一口。
……こみ上げてくる。
「おいしいです」
ルシェラは木のスプーンを握り締め、泣いた。
可愛い顔をくしゃくしゃにして、小さな子どものように声を上げて泣いた。
涙が口の中に入って、少ししょっぱいシチュー。
誰かが作った手料理を口にしたのはいつ振りか。情のこもった温かい料理。自分で作った料理とは違う、情の味がする。
ライゼは、涙を流してシチューを口の中にかき込むルシェラを見ながら、
「泣くほど美味いか」と微笑んだ。
ルシェラは頷いた。
彼女は、はやく両親の元に行きたいと思っていた。
独りで生きて行く希望を失っていた。
けれど、この二人の旅人の優しさに触れて、ルシェラの中で何かが変わり始めていた。
死を恐れなかった少女は、アルルとデイスと出会ったことによって、己の人生に後ろ髪を惹かれる思いを感じないではいられなかった。
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