第28話 偏見
サーデルバ山脈から枝分かれする形で南へ続く山の連なりはオルガン山脈と呼ばれ、
厚い雲の隙間から覗く空で熟した蜜柑のような夕日が西の彼方に没する頃、ジェイ、ライゼ、ルシェラの三人は、暖簾の奥から漏れ聞こえる賑わいに誘われるかのように、酒場の中へ入った。
「いらっしゃいませ……」
店員の声がだんだんと尻すぼみになってゆくのは、その場にいた全員が気付いていた。そしてその原因にも。
たちまち、酒場内は水を打ったように静まり返った。
ジェイは尻込みするルシェラの手をきゅっと握り締め、入り口すぐ傍の四人が座れるテーブル席を陣取った。ジェイとルシェラが隣り合って座り、ジェイの正面にライゼがどっかと偉そうに腰を下した。
「あー、お腹すいた。ルシェラは何を食べますか?」
ジェイは周囲の視線など全く気にも留めず、ルシェラに品書きを渡した。
「僕は今日、沢山食べられそうだから、干し肉のサンド食べたいです。幾つ食べて良いですか?」
「好きなだけ頼みやがれ」今晩の財布であるライゼが半ば自棄になって言った。
「あ、あ、あたしは……あたしも、干し肉のサンド食べたいです」
彼らは一つの品書きを三方から額を寄せ合って眺めた。
その時、がたがたと木の椅子が床を擦る音があちこちから聞こえてきた。なんということだ、周りのテーブル、カウンターに座っていた客たちが、さっさと店を出てゆくのである。
ここに書き示すまでもない、ルシェラへの当て付けだ。
「おーや、おや。もう帰っちまうのか。さては昼間から飲んでやがったな。まったく、羨ましいことだよ」
ライゼが皮肉たっぷりに言うが、当のルシェラは少し肩身を狭くしたようで、そわそわと視線を下へ落とす。
「君が気にする必要はないんですよ」
天使のように笑うジェイの囁き声に、ほっと胸を撫で下ろしたように頷くルシェラ。
「決まった? 決まったな。注文するぞ。――おーい、店員さァん。注文とってもらってもいいかな」
ライゼが手を挙げて、フロアの従業員に声をかけたが、誰一人としてこちらを見ようとしない。不自然に背中を向けて聞こえないふりまでしてくるのだ。もう一度同じように声をかけたが、まるで無い物の様に扱われた。明らかに意図的であるその態度に、ジェイとライゼは腹の底で並々ならぬ憤怒の念を燃やさずにはいられなかった。
「あいつらァ、ニンゲンの風上にも置けねえ外道め」
ライゼは獣が威嚇するときのように喉を低く鳴らして立ち上がると、ずかずかと若い従業員へと大股で詰め寄った。
「おい、てめぇ。俺が呼んでるの気付いてたよな。なんで来てくれないのよ。随分、意地悪じゃないか」
荒々しい口調で凄まれ、更には伸びてきた右手に胸倉を掴まれた青年は、口も利けない状態でただただ、涙ぐんだ双眸を右へ左へと忙しなく泳がせていた。
ルシェラは「止めなくちゃ」と、おろおろした様子でジェイの方を見たが、彼は真顔で口を噤んだまま少女の肩に手を置いた。
すると厨房の中から、この酒屋の店主と思われる中年男性が出てきて、両者の間に仲介に入った。
「やめてくれ。彼はうちの大事な従業員なんだ」
「ほう、あんたかい、店主は」
ライゼは乱暴に青年の胸倉から手を離すと、今度は店主に詰め寄る。
「ちょいと、従業員たちの躾がなってねえのとちがうかい」
店に残った客たちは、この血の気の多い若者の行動に、吹雪のように冷ややかな目を向けている。まさに一触即発と言った空気だ。
「申し訳ないがね、あの子に料理は出せないよ」
「あの子……」
ライゼは木の杭で心臓を打たれる吸血鬼の心地を味わった。
店主の言うあの子が誰を指しているのか考えなくてもわかる。
ライゼはその言葉に頭がぐらつくのを感じながら、「何故……」とようやく一言零した。そう問うておきながら、彼は、店主の口から語られるその理由を聞くのを躊躇わずにはいられなかった。
聞きたくない。その答えを、ルシェラに聞かせたくない……。
「食器を介して、あの子の病が広まったら困るだろう」
予想は出来ていた。出来てはいたが、些か人の心というものを欠いた店主の言葉は、下衆な獣へと姿を変え、ルシェラ、ジェイ、ライゼの心を容赦なく喰い散らかしていった。
ジェイは幼い顔をこの上ない憎悪に歪めた。強く噛み締めた唇から一筋の血が滴っていることにも気付かぬほど、今、彼の腹の底は怒りの炎で煮え立っていたのだ。
隣ではルシェラが深く俯き、怒りか、悲しみか、悔しさか……様々な感情に押しつぶされそうな苦痛に耐えていた。
しかし、二人と違ってライゼの怒りの沸点は低い。そして己の感情の動くままに忠実である。理性などといった高尚なものはとっくに地面に転がり落ちている頃だ。
「無知の罪を犯していることに気付きもしねえ低脳族共め」
その刹那、ライゼの赤い髪が微かにざわめいた。頭の上に乗っていたハットが足元に落ちると、緩やかな風に吹かれでもしているかのような毛髪は蛇のように束になって鎌首を擡げる。
「まずい、妖人に……!」
すぐさまジェイは席を立ち、ずんずんとライゼの背中へ近付くと、
「やめてください、デイス」
と、厳しい声で言った。
少し間があって、ライゼがゆっくりと肩越しに振り返る。
「ジェイ……お前……」
怒りに全てを囚われ、名前を隠すことすら忘れたらしい。掠れた声は多くを語らぬも、言いたいこと全てをジェイに感じさせていた。
「あなたの言いたいことはわかります。どうして止めるのか、そう言いたいのでしょう。だけど、こんな人たちのためにあなたが悪者になる必要はありませんでしょう」
ライゼは感情の荒波に揉まれながら、唐突に頭の芯が冷えてゆくのを感じた。
吐息のような声で「ジェイ……」と呟くと、水をかぶったように寝始めた髪をかき上げて、静かに息をついた。
ジェイがそっと肩に手を乗せて「行きましょう」と促すと、ライゼは一度頷いてハットを拾い上げ、外の方に踵を返した。
「行くぞ」
囁くような声で言い、ルシェラの手を掴んで立たせた。
彼女は深く俯いたまま、ライゼの背にピタリと寄り添った。
最後尾に着いたジェイが店の外へ出て行くも、ぴりぴりとした雰囲気は一向に解消することはなく、店に残った村人たちはすっかり酒を聞こし召す気分にはなれなかった。
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