第27話 メーワクなんかじゃない!

「あー、さっぱりしました」

「風呂、サンキュー」


 幸福に頬を上気させながら戻ってきた二人は、しっとりと髪を濡らし、舞い上がるような心地良さに破顔していた。

 椅子に座って読書をしながら一息ついていたルシェラがこちらを振り向く。


「お先に頂いちゃってすみません」

「いいえ、お帰りなさ――」


 そう言いかけたルシェラが小さく咳き込んだ。数回続いたそれは、始めは誰でもするような空咳だったが、だんだんと激しくなって彼女の喉を荒らし、ついには椅子から落ちて膝を折ってしまう程の大嵐に変わった。


「ルシェラ!」


 素早く彼女の背後に回ったジェイが、その小さな背中をさする。

 ひゅう、ひゅう、と苦しそうに鳴く気管は、まともに空気を取り込めていないらしく、彼女の息は更に浅く速くなるばかりだ。

 徐々に全身が震えだし、トゥニカの胸元を握り締める指先まで、まるで極寒地にそのまま放り出されたかのようにわななく。

 どうしよう、どうしようと戸惑っているジェイの耳に頼もしい声が飛び込んできた。


「おい、ルシェラ。その発作を止めるような薬はないのか」


 ライゼが切羽詰った声で訊くと、少女は震える指先を寝台の傍のキャビネットへ向けた。

 すぐに飛びついて、二段ある内の上段をやや乱暴に引っ張り出し、中身を開いて引っ掻き回す。ない! 下か!

 すぐさま下段を開ければ、中には錠剤の入った茶色の瓶がぽつんと一つだけ転がっていた。


「これか!」


 ライゼは薬の瓶を握り締め、キッチンの水切りに置いてあったスープ用の木の器に水を汲むと、ルシェラの前に跪き、瓶の蓋を手早く開けて中身を掌にざらら、と取り出した。


「何錠かわからん。自分で取ってくれ」


 ルシェラは言われた通り、錠剤の山から白い粒を三粒ばかり摘み、隙間風のような音を鳴らす喉を反らして、それを煽ると、ジェイの手を借りて水で流し込んだ。


「ゆっくり飲めよ」


 白いマフラーの中で大きく喉元が上下すると、じきに咳の回数は減っていった。

 優しい掌でルシェラの背中を撫でていたジェイも、彼女が苦しむ様を間近で見ていて、その顔に苦痛の色を浮かべないではいられなかった。

 ルシェラの咳が完全に落ち着いた頃を見計らって、ほっと息をついたジェイが訊ねる。


「日に何度も発作は起こるものなのですか?」

「二週間ほど前からです……こんなに頻繁に起こるように、なった、のは」


 台詞が所々途切れているのは、その間に深い呼吸が挟みこまれているからだ。

 酸素が足りずぼんやりするルシェラの頭の中を“寿命”という、この歳の少女にはいくらなんでも酷過ぎる二文字が過ぎった。

「そろそろ覚悟しておけ、ということか……」ルシェラは己の身に忍び寄る終焉の気配を察し、腹の底が震えるような感覚を味わった。……覚悟? そんなもの、とうの昔に出来ているわ!

 母が死んで、父も後を追うようにいなくなった。たった一人残された。未来に希望なんてない。人間に希望なんてない。何より、早く大好きな家族に会いたかった。今すぐにでも、死の使いが迎えに来てくれればいいのに――!

 トゥニカの裾を払ってすっくと立ち上がったルシェラは、先程よりがさついた声で、食事の仕度をする、と言った。


「本気で言っているのか」

 ライゼが渋い声で言う。

「無理はいけません」


 立ち上がったジェイが慌てて制止した。そして、ぐい、と立たせた親指でライゼの事を指すと、


「今晩の食事はデイスが奢ってくれるらしいので、外に食べに行きましょう」


 たった今思いついた口上だ。

 一瞬、ぎょっとしたように目を剥いたライゼだったが、ルシェラがこちらを向く気配に感付いて、不自然さの漂う笑みにすりかえた。


「外食、ですか」

「あ、ああ。村の入り口に飲み屋あったろ? そこに行こうぜ」

「そうしましょう! 今日はルシェラの調子があまり良くないようですし」

「……しかし」


 二人が説得を続けるが、ルシェラはあくまでも否定的である。やはり、気丈に振舞っていても、周囲の視線と陰口にはひどく参ってしまっているようだ。

 彼女は視線だけ足元に落としながら、


「あたしは待っています。みんなにメーワクかけるわけにはいきませんから」

「メーワク、メーワクですって?」

「何言ってんの、おめ」


 ジェイ、ライゼが口々に言った。


「君は、村人から迫害を受けるほど、彼らにメーワクをかけたことがあるのですか」


 ルシェラは大きな目を瞬くばかりであったが、彼女の心の中にある答えは否であろう。

 何故って、彼女には何の罪もないのだから。潔白。それが彼女の真実なのだから。


「否でしょう。では何故、そのようなことを言うのです」


 ジェイの問いかけはとても優しいものだった。ルシェラの心が分厚い雪の下で眠る大地だとしたら、ジェイは世界を覆った雪を溶かすためにやってきた春の風のようだ。


「みんながそう思っています。病人のあたしの存在を、煙たがっています」

「意味もなく君の存在がメーワクだなんて思う人がいるわけないでしょう」


 理屈ではそうだ。

 ルシェラは不安げに口を閉ざす。


他人ひとに移るもんじゃねえんだろ? なら、俺たちの傍にいろよ。言っておくがね、アルルはお前の病気が他人ひとに移るようなものだったとしても、あの時、あの道でお前に手を差し伸べたぜ」


 素直に褒められて、ジェイは恥ずかしそうに顔を赤らめる。

 その時、一面氷に包まれたルシェラの胸の中に、ポッと小さな炎が灯った。その温かさはゆっくりと全身へ広がり、偏見の恐怖に固まっていた心が溶けてゆくようだった。

 ルシェラはゆっくりと顔を上げた。

 今日会ったばかりの、ろくに素性も知らない二人が、本気で自分と向き合ってくれている。そう感じて、たった今、人間に希望なんてないと決め付けていた自分を心から恥じた。


「大丈夫ですよ。一緒に行きましょう。ルシェラ、君は何も悪いところなんてないのですから、堂々としていていいんですよ」

「そうだ、そうだ。安心していいぜ。文句言う奴の声は俺がかき消してやる。俺、酒飲むと声が大きくなるんだよな」


 ジェイは眉を顰めた。


「はぁ、やっぱり飲む気ですね。あまり飲みすぎないでくださいよ。今日は置いていっちゃいますからね」

「はいはい」


 この人たちは――。

 ルシェラは心の中で呟いた。

 この人たちは、病気を患ったあたししか知らないのに。以前の健康で他の人となんら変わらない――不治の病という危険を抱えていないあたしのことを知らなくても、手を取ってそばを歩いてくれる。

 かつてのあたし、元気なあたしを知っている人たちが、汚いものでも見るように、あたしを露骨に避けてゆくというのに、この人たちは――。


「行きましょう、ルシェラ」

 ジェイは少女の手を取った。


 この人たちは、他人ひとに希望を与えてくれる人間なんだ。

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