第15話 不穏な噂

 朝靄の中を歩き、東から登りつつある朝陽を正面に拝みながら、ジェイとライゼはサーデルバ山脈の麓にある小さな街に辿りついた。

街一帯に背の低い建物が立ち並び、広く見渡せる空には夜と朝のグラデーションがかかっている。

 所々ではもう人々の起床の気配がしていた。どこかの家から漂ってくる朝食の匂いが、眠りの国に沈んだ世界を浮上させつつあるのだ。

 ライゼは、へとへとになって足取りの覚束無いジェイを励ましながら、街の入り口から一番近くに建っていた宿に入ると、ジェイをロビーのソファーに座らせて「ここで待っていろ」と言い、チェックインの手続きをしに行った。

夜通し山道を歩き続けた代償は大きかった。返事をするのも億劫なほどに疲労の蓄積した身体は、血液の中に、溶かした鉛を注ぎ込まれたみたいに重く、言うことをきかない。

 膝が笑う、とはよく言ったものだ。歩いている間に何度と地面に頽れそうになったことか。

 ライゼを待っている間、ふかふかのソファーに深く腰掛け、背凭れに身体を預けて、自分の体重から両足を解放してやると、途端に深い睡魔がジェイを襲った。

フロントでやりとりをしているライゼの声がだんだんと遠のいてゆき、ぬくぬくとした眠気に逆らう気も起きず、うとうとと舟を漕ぎはじめた頃、頭上からいきなり声が落ちてきた。


「ジェイ、こんなところで寝てんなよ。部屋とったからそっちで寝ようぜ」

「ありがとうございます」


 ジェイは舌足らずな口調で礼を言い、よいしょと立ち上がったが、その瞬間、すっかり膝が抜けてしまい、糸が切れたマリオネットのように床に崩れ落ちた。


「あっ、おい、しっかりしろよ」


 ライゼが慌ててかがみこむと、ジェイは苦笑しながら弱弱しく顔を上げた。


「すみません、情けないですね」

「のんびり暮らしてたフツーの人間が、いきなり一晩中山道歩きゃ、こうもなるさ」


 ライゼは慰めるように言うと、ジェイの腕を自分の肩に回して部屋へ向かって歩き出した。

 宿内はとても静かだった。まだ早朝であるせいか、宿泊客が泊まっているのであろう部屋からは眠りの沈黙が漂っている。

 二人に当てられた部屋は階段を上ってすぐ正面にあった。扉に張り付いた木のプレートにはブルーベリーの絵が彫りこまれていた。瑞々しいはずの実の塗装は年月の流れと共にすっかり剥げてしまっていて、この宿の歴史の深さが窺えた。

 ライゼが鍵穴にキイを差し込んで扉を開けると、さほど広くない室内にシングルベッドが二つと、その間に挟まれる形で、引き出しが上下についた小さなキャビネットが置いてあった。正面の窓際には丸テーブルと木の椅子が二脚、そのすぐ傍に洗面台と、スライド式のクロゼットが壁に埋め込まれていた。シャワー・トイレは共同らしく、室内には備わっていない。

 必要最低限の家具が並べられた部屋は、今まで家屋といったところとは無縁の、大地を住居としてきたジェイからすると、少し息が詰まるような空間だった。


「ほら、着いたぞ。寝ろ寝ろぉ」


 ライゼはジェイをベッドまで運ぶと、自分も荷物を放り出して、空いている方のベッドに飛び乗った。

 足先をこちょこちょ動かして、器用にブーツを脱ぎ捨てると、両足が開放感に包まれる。

 背中に感じるマットレスの柔らかさ、洗い立てのシーツのさりさり鳴る音。ベッドに横になるのは何日ぶりだろうかと、押し寄せる眠気の中で考えていると、隣からジェイの寝息が聞こえてきた。


 …………。

ふと、ライゼは目を開いた。

 いつの間にか眠ってしまっていたのだろうか。薄っすらと目を開けると、睡眠によって解消された身体の疲れは体外へと流れ、ぼんやりと霧のかかった脳内から起床を促す声が聞こえた。

 はっきりと意識を浮上させる頃には、太陽は一番高いところに登りつめ、窓の外では人々の往来が活気に満ちた雑踏を奏でていた。

 のそのそと起き上がったライゼの後頭部にできた寝癖がその反動で大きく揺れる。それがまるで、小さな妖精に髪をくいくい引っ張られているように感じ、反射的にくしゃくしゃと頭をかき回した。

 隣のベッドでは、ジェイがくうくうと鼾をかきながらぐっすりと眠っている。

 大きな音を立てないようにベッドから降りると、ブーツも履かずに洗面台の所まで歩いて、冷たい水で顔を洗った。荷物から手ぬぐいを出すのを不精して、服の袖で顔の水を拭っていると、背後からジェイの眠たそうな呻き声が聞こえてきた。

 振り返ってみると、華奢な背中を丸めて、母体の中の胎児のように小さくなりながら毛布に包まっている姿が確認できた。


「おい、ジェイよ、そろそろ起きろ。腹減ったよ、外に食いに行こうぜ」


 返事の代わりに寝返りを打つジェイ。小柄な体躯を更に小さく丸めながら何事かを呟いているが、くぐもっていてなんと言ったのかは聞き取れなかった。まだ寝足り無いのだろう。言葉を成さぬ声には、眠気が混じっている。


「ジェイ」


 床に転がったソフトハットを拾い上げ、寝癖を隠すようにしっかり被ると、ジェイの寝ているベッドの傍へ寄り、その寝顔を覗き込む。

金色をした重ための前髪が両目を隠していて、目が覚めているのかどうかわからなかったので、ぺちんと額を叩くついでに前髪を後ろに撫で付けてやった。

 ジェイは「いたっ」と声を上げて勢いよく飛び起きた。ぼんやりと虚空を見つめる瞳に、徐々に意識の覚醒が現れる。一瞬、今自分のいる場所に理解が追いつかない様子を見せていたが、ここが早朝に辿りついた街であることを思い出した瞬間、大欠伸が漏れる。


「ジェイ、ランチにいこう。おれは今、ものすごく飢えている」

「ん、ん……ランチ? もうそんな時間ですか」

「ああ。お前も腹減ってんだろ」

「はい」


 ジェイは欠伸を噛み殺した声で返事をする。まるで起きぬけの猫のような伸びをしながら「うーん」と呻き声を零すと、ライゼは既に身支度を整え終え、ブーツを履いているところだった。


「あっ、ちょっと待ってくださいよ。僕もすぐに用意しますから」


 あわててベッドから飛び降りたジェイは、まだだるさの残る脚で立ち上がると、さっと顔を洗って、乱れた巻き毛に二、三度手櫛を通した。



 部屋を出た二人は、空腹を抱えながら、今すぐ食事が摂れそうな店を探していた。

 街は、早朝とは違う活発な顔を見せている。

 小さな街の割には人口が多く、住人たちの表情や身なりを見ても、なかなかに住みやすそうな土地であることが想像できた。

 二階に民家を構えた店が軒を連ねる向かい側には、雑多な屋台が真っ直ぐに伸びる道に沿ってずらりと並んでいる。


「何食うよ?」


 ライゼが訊ねる。


「僕は干し肉のサンドが食べたいです」

「ああ、いいな、それ。おれも食う」

「ちょうどあそこに屋台がありますよ。しかも春の丘の下にあった街で買うより格段に安いです」


 ライゼは、屋台に掲げられた看板に書かれた値段を見た。春の丘にいた時は、一つ・銅貨三枚(三百円)を支払って買っていたが、その屋台では一つ・銅貨一枚(百円)と、格安の数字が書かれていた。

 干し肉のサンドをメインで出している屋台らしいが、値段の書かれた看板の隣には、サイドメニューの名前がずらりと並ぶ看板も掲げられていた。


「量もあの店とかわらねえなら、かなり安く済ませられるな」


 期待しながら屋台の前に立つと、ライゼは上の品書きを見ながら、

「干し肉のサンド四つ、それと、三色サラダを四人前、セーダ豆のパンを四つ、あとは……ミルクを二瓶」と、ぶっきらぼうにオーダーする。

 屋台の中に立った三十そこそこの女店主は、そんな彼の態度に気を悪くした風でもなく、笑顔で承る。


「そんなに食べられるんですか?」

「おれ一人でか? 違えよ。お前とおれで半分ずつ食うんだろうが」

「えっ、僕そんなに食べられませんよ」

「食えるときにしっかり食っておかねえと、これから先、毎日三食きっちり食えるかどうかわからねえんだぜ」


 ジェイは目を瞬いていたが、彼の言葉の意味を理解すると、不安そうに表情を曇らせた。


「……そうですね」


 少年の脳裏にちらつくのは、家族同然にいつも一緒にいた友たちの顔。

 やさしい風が纏った春の匂い。若草たちの瑞々しい声、緑の息吹を吹き込ませる森の風……。春の丘を発ってまだ半日しか経過していない。心を丸ごと引き抜かれたように大きな喪失感がジェイを襲った。


「お前は腹いっぱいになって歩けなくなるくらいが丁度いいんだ」

「すみません、いつも食事代を出していただいてしまって」


 胸中に冷たい風が吹き荒ぶのを、自ら会話を広げることで気を紛らわせた。


「気にしないでいいよ」


 ライゼはにこりと笑いながらも、どこかそっけなさを感じさせる口調で言った。

 ライゼが春の丘に来て数日、ジェイは彼の毎回の食事量を見ていたが、それは優にジェイの三倍は食べている。

 最初こそ、彼の身体に収まる食事の量に辟易していたが、よくよく考えてみたら、彼は妖人族なのだ。

 妖人族は普通の人間よりも優れた身体能力を持つ。そこで生じるエネルギー消費を賄うのは、その能力に見合った量の食事なのだ。最も、春の丘にいた間は、人間以上の身体能力を発揮していなかったせいか普段より食事量は(あれでも)下がっていたのだという。旅の途中は食事量が格段に上がるらしいが、旅人の身でありながら、その膨大な食事量を賄えるだけの金銭的余裕はどこからきているのか、謎だ。

 屋台から香るパンの焼ける匂いが二人の腹を同時に鳴らした頃、女店主は、抱えるほどに大きな白い紙袋に詰め込んだ旅路一日目のランチを差し出した。


「君たち、旅人なの?」

「ああ、そうだが」


 ライゼが短くそう答えながら、財布から硬貨を取り出して女店主に手渡す。


「そう。ここへはどれくらい滞在するの?」

「明日には出るよ。先を急ぐんでね」

「あら、じゃあ、この街に旅人を狙った盗賊が出たってのは、もう聞いた?」


 その瞬間、ライゼの声に薄暗く影がかかる。


「なに、それ」


 顎を引きながら上目遣いに店主を見つめ、不穏な噂話に警戒心を露にした。

 店主の、低く落とした声量が、ジェイとライゼを前のめりにさせる。


「一昨日。F通りに一件、宿があるんだけど、その宿の一室で旅人が殺されちゃったのよ」


 過激な話の内容に、ハッと息を呑んで口元に手をやったジェイの隣で、ライゼが歯をむき出しにして顔を顰める。


「人が死んでんのか」

「びっくりでしょ。詳しいことはわからないんだけどね、朝から妙に物々しい雰囲気で、みんなどこかそわそわした様子だったよ。財布やら装飾品が無かったみたいだから、盗賊に襲われたみたい」

「そいつら、捕まってないの?」

「うん。目下捜索中だよ」

「怖いですね」


 ジェイは服の胸元を握り締めながら声を震わせた。

 ホームシックと重なった険悪な事態に不安を煽られ、縋るように隣のライゼを見上げると、何故であろうか、彼は目深に被ったソフトハットの下で唇を捲り上げ、笑っていた。

 なんだか、彼の身体から目に見えるはずの無い、ぴりぴりした空気や、それに順ずる本能の匂いが、隣にいるジェイの鼻腔をつん、とついたようであった。剥き出しになった犬歯がゆっくりと鋭く伸びてきているようにも見え、思わず慎重な心持になって、声をかけた。


「……どうかしました?」


 声をかけられてハッとしたライゼは、骨ばった掌で顔半分を覆い、何かを拭い去るような手つきで一撫ですると、そこにあったはずの笑みはすっかり掻き消えていた。ぴりついた空気も、剥き出しになった本能の匂いも、何処かへ消えてしまっている。……自分の気のせいだっだみたいだ、とジェイが思っていると、ライゼはハットのつばを摘んで軽く引き下げながら、


「や、いい情報が聞けてよかったぜ。用心するよ。ありがとうな、お姉さん」

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