第14話 罪悪感

 夜が明ける少し前、ここから一番近い町を目指して歩き続けていたジェイとライゼは、言葉少なのままひたすら山道を行く。

 ブーツの底が荒れた地面を踏みしめる音と、ジェイの切迫した呼吸が繰り返されるばかりで、夜の下では蓋を閉じたオルゴールの中のような世界が広がっている。

 するといきなり、ライゼは息一つ乱さず、自分の後ろを一生懸命に着いてくる少年に向かって声をかけた。


「なあ、ジェイよ」


 ジェイは疲労による荒い呼吸の合間に「はい」と弱々しく返事をした。

 が、予想もしていなかったライゼの次の言葉を耳にした途端、あんなに忙しなかった息遣いが、刹那、停止する。


「お前さ、おれを助けたあの日、何を食わせた?」


 瞬間、心の奥底から罪悪感が、暗い大津波となってジェイを襲い掛かった。

 気付かれた……。ライゼに、自分が“アルルの実”を食べさせたことを。

 アルルの実は、自分が禁じた実。

 人々の心の底からの願いを全て否定して、食すのを禁止とした神の実。

 自分で人々の願いを奪っておきながら、自分は自分の正義感の動くままに、アルルの実を使用した。結果として、一人の命を救うことができたのだが、それとこれとは話が別だ。

 この事実を、春の丘の住人以外に知られるのが、ジェイにはたまらなく苦しい。胸の底に根付いた罪悪感を抉られるのが何よりも苦痛だった。

 自分とやさしい風たちだけの秘密にしたかった。そうすれば、自分の中にある罪悪感が膨らむことも無かっただろう。自分が墓の中まで持っていく。

 やさしい風をはじめとする全世界の自然たちは人と話すことができない。彼らは、ジェイの罪を他言することは決してない。人間に届く声を持たぬ風たちに甘えて、一生、彼らにこの罪悪感を共有してほしかった。

 ジェイが口を開かないでいると、ライゼは首を摩りながら、


「何かが口の中に入ってきた。アーモンドみたいな味がするもので、とても美味かったよ。意識は無かったはずなのに、おれの味覚だけがやけに冴え渡っていた。そして、何故かおれはその味を味わっていたとき、心の底から一つの希望が芽生えるのを感じた。自分の意志でない死の淵に立った奴はみんな同じ事を考えるはずだぜ、生きてえってな。おれもそう思った。その願望は現実になったってわけだ。今、こうして」


 ライゼはお伽噺でも語るような口調で言葉を紡いでいるが、聞き手であるジェイの顔は蒼白だ。

 ライゼは己の命を救ったのが、神の実であると知って何と言うだろう。

 あの夜の群集のように欲に目が眩んでアルルの実を欲しがるだろうか。自分を助けたのがジェイではなく、神であったと知って、あの夜の彼らのように豹変してしまうのではないか――。

 そんなことを考えていたジェイに、今一番耳にしたくなかった言葉が飛び込んできた。


「聖書に出てくる“神の実”を知ってるか?」


 ジェイの細く開いた唇が微かに息を呑んだ。まともにライゼの顔も見れなくなり、視線は不自然に他所へ流れる。


「神の実もアーモンドの味がするんだと。そして、どんな絶望的な状況にある望みだろうと、食った奴は途端にその望みへの希望が湧いてくる――そしてそれは現実のものとなる。死を覚悟したおれのように」


 その時ジェイは、もしや、と思った。

 ライゼは春の丘にアルルの実があるのを知って、ジェイの元に来たのではないか。人の口に戸は立てられぬ。町の住人たちの噂が時間をかけて遠くまで運ばれてゆくこともあるだろう。そしてライゼは、自分の望みを叶えるための手段を手にするため、自分の前に現れたのではないか――ジェイの胸中にあの夜と同じ感情がふつふつと湧き上がるも、発火を待たずして鎮火する。


(僕も、アルルの実のちからを使ってしまったじゃないか)


 自分に他人を糾弾する権利は無い。

 ジェイは己の過ちを懺悔するかのように、静かに、滔々と語り始めた。アルルの実のこと、そして、争いが起こりかけたあの夜のことを……全て。


「“アルルの実ィ”? なんだそりゃ」

「……今話した通りです。あの木に生っているアルルの実は、人の願いを聞き届けてくれるんです」

「や、マジで神の実が存在するなんてな。じゃあお前は、死にそうだったおれに神の実を食わせたの?」


 アルルの実が本当に神の実なのかどうかはともかくとして、ジェイは「はい」と頷く。


「で、おれは生きる道を選んだ。だから今、ここにいるんだな」

「はい」

「……ふうん。そうかい」


 ライゼはあっさりと納得し、道の真ん中に倒れた朽木を跨いだ。

 それからはどちらも口を開かず、ただただ音の無い世界の山道を歩き続けた。

 夜は目覚めの希望を大きく引き立たせるけれど、ジェイは朝が来るまでの暗く静かな時間を気に入っていた。夜は彼を安心させてくれる。孤独を愛することがとても幸せなことだと気付くからだ。孤独を愛せない人間は自身を愛せない、自身を愛せない人間に他人は愛せない。……と、誰かが言っていたような気がする。


「お前はさ」


 ライゼは深く息をついてから口を開いた。ばさばさに伸びた赤い髪の毛先に、月の白い煌きが落ちて、ルビーを散りばめたみたいに鮮やかに光る。

 ライゼはゆっくりと振り返ると、一つの質問を提示した。


「何でおれのこと助けてくれたの」


 ジェイは彼の問いにすぐ答えられなかった。回答が難しかったからではなく、至極簡単な答えだったからだ。ジェイは慣れない山道に息も絶え絶えになりながら言った。


「僕は、生きる意志のあるあなたに手を貸したかったんです。何故か、そうしたいと思ったんです。あなたの中に生への希望があるのなら、それを掬い上げたいと思ったから……」

「……おれはお前の正義感に助けられたのか……。よかった、生きてて。おれはまだ死ねない」


 ライゼは安心したように笑って、前を向いた。少しふらつきはじめたのは、まだ失った血の量を身体が補えていないせいだろう。


「ありがとうな、ジェイ。命の恩人よ。これからおれは、幸せを感じるたびにお前に感謝する。この幸せは、あの時、お前に命を救われたから感じることができている、と」


 ライゼは少年の方を見てはいなかったが、力強い言葉と心の底からの感謝の言葉はジェイの内に渦巻いていた罪悪感をやさしく包み込んだ。けれども、次の台詞で否定的な言葉を返してしまうのは、罪悪感がそのやさしさから逃れようとして悪足掻きをしているからかもしれない。


「あなたを助けたのは僕ではありません。アルルの実です」

「はぁ? 何言ってんだ。あの実が自分で歩いておれの口ん中入ってきたってのかよ。違うよ、お前がお前の意志で食わせてくれたんだろうが。おれを助けたのはお前だ」

「僕は人々の願いを否定したんです。それなのに僕はあなたを助けるためにアルルの実を使ってしまった」

「何が言いたいんだ」

「……罪悪感を感じました」


 思いつめたような暗い声でそう言うと、ライゼは勢いよく振り返り、気色ばんでジェイの胸倉に強く掴みかかった。

 いきなりの事に、驚いて目を白黒させていると、ライゼは噛み付くような勢いで、


「なんだよ、それ。おれを助けたのが間違いだったって言うのかよ。自分を罪悪感から守るために、おれのことなんて見殺しにしときゃよかったって言うのか」

「そんなこと言ってない!」


 ジェイは暴力的なまでの言葉を浴びせられて、声を上ずらせた。しかし、彼のその言葉には多少の嘘が隠されていた。

 ジェイは、彼にアルルの実を食べさせたとき、罪悪感の津波に飲み込まれた。

 あの夜の自分の宣言を思い出し、浅ましい人間に成り果てたものだと、己を卑下した。

 人から希望を取り上げ、自分は彼らから奪った希望を利用して己の正義感を満たしたのだから。だが彼の次なる言葉もまた、真実なのである。


「僕は間違いなんて何一つ犯していない。あなたを助ける手段としてあれを使ったのは……絶対に正しいことです。……僕はアルルの実の存在理由について、こう考えています。アルルの実は、自分の望みを叶えるものでなく、誰かを助けるために使う物であって欲しいと。でも、そんなに簡単にいかないのが人間なんですよね。他人が得をするのを妬む人だっているんですから。みんながみんなそうでないことはわかっていても……。きっとあの夜、中には僕と同じように、助けたい人がいる、という方もいたでしょう。でも僕は、それに手を貸せなかった。その人たちだけにアルルの実を渡せば、私欲を抱えた人々は争いを起こしてでもアルルの実を狙うかもしれないって、怖くなったんです。だから僕は、人が争って憎みあうくらいなら、みな、平等に取り上げてしまえばいいと思ったんです。神のことはよく知らないけれど、きっと僕は神の、人間への希望を蔑ろにしている悪い人間なんです」


 だが誰にも吐露したことの無い本心は、次のライゼの言葉に呆気なく一蹴されてしまった。


「おい、ジェイ。うるせえぞ、お前」


 ジェイの言葉に被せるような勢いでそんなことを言うので、少年の目は思わず点になった。


「え……」

「お前、ノーテンキそうな顔してる割には、よくわかんねえ持論持ってんのな。眠たくなるぜ、聞いてる方はよ」


 ライゼは一層強く胸倉を引き寄せると、紅茶色の虹彩の中に納まった瞳孔をきゅっと細めた。妖人族の持つ獣のような瞳はジェイの弱々しい双眸を鋭く射抜く。


「おれが感謝してんだ。それでいいだろ? お前が助けた本人がそう言ってんだから、素直に感謝されとけよ。それともジェイ、お前は、アルルの実を使った事実を消すために、もう一度おれを死の淵に追いやるかい?」

「いいえ」

「お前の行いを感謝している奴の前で、やっぱ助けたの間違いだった、とか言うなよな。おれの立場も考えやがれ」


 ライゼの言葉は、ジェイの胸中を埋め尽くしていた罪悪感を、包み込んだまま、まるっと外へ取り除いてくれた。痛みなのか息苦しさなのか、よくわからないけれど、そこにあった不快な感情が一気に消え去り、まるで背中に羽が生えたかのように気持ちが軽くなるのがわかった。

 暗く翳ったジェイの表情は、たちまち暖かな気配に色を変え、


「ありがとうございます、ライゼ。やはり僕は、あなたを助けてよかった」


 ライゼはそっと手を離すと、にやりと笑って、


「そうだろ?」

 と言った。


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