第13話 神のちからを有した実のはなしⅤ

 とっぷりと陽が暮れ、世界が夜の帳に包まれる頃、やさしい風が予言した良くないことが、闇の中にはおよそ相応しくないくらいの喧騒を従えて春の丘にどやどやと押しかけてきた。

それはジェイが、白い月明かりの元での読書に一区切りついて、そろそろ床に就こうとした時であった。


「ジェイさん! アルルの実を僕にもください!」

「私にも!」

「一つでいい! 分けてくれ! 叶えたい夢があるんだ!」

「神の実をくれ!」


 大木を背にしたジェイの周りに大勢の人々が詰め寄り、子どもから大人まで、大小様々な手を伸ばして口々にアルルの実を要求する。


「ちょっと待ってください! 困ります。僕……わからない……」


 ジェイが対応しきれずに目を回していると、人の波を掻き分けて一人の青年が飛び出してきた。エリアスだ。


「みなさん、落ち着いてください。神の御前ですよ!」

「ああ……エリアスさん、これは一体……?」


 エリアスはジェイを背に庇うようにして立ち、首だけをくるりと振り返った。

 こちらを向いたその顔は、異常な狂気を孕んだ笑顔を被っていて、ジェイは思わず、ぞくりと首筋を粟立たせた。無意識のうちに後退りしてしまうほど、彼の顔には戦慄を誘う不気味な色がぶちまけられていたのだ。


「彼らは皆、神の実に希望を託したい信者たちです」

「……神の実?」


 ジェイはエリアスの言葉の意味を理解できずに、繰り返し訊ねた。


「一体、どういうことですか」


 夜空に浮かぶ半円形の月に、流れ者の雲がかかる。灯りのない春の丘は恐ろしい闇に覆い尽くされ、エリアス青年の姿は、らんらんと輝く瞳以外を真っ黒く塗りつぶされた。顔面の下部が細く裂け、三日月形に白い歯が剥き出しになると、ジェイは満ち満ちた噎せ返るような狂気に息を詰まらせた。

 思わず喉が痙攣しかけると、青年は白い歯の隙間から真っ赤な舌を覗かせて、こう言った。


「あれは、アルルの実は、神の実だったんです」


 ジェイは言葉を失った。エリアスの言っていることを信じたわけではなく、彼の熱意の矛先があらぬ方向へ向いているのが不気味でならなかったからだ。ただの熱意でない、狂気じみた熱意がその口調には込められていた。


「わからない。何を言っているのですか、エリアスさん、なんか、怖いですよ……この人たちを連れて帰ってください」


 ジェイは声を震わせながら、エリアスに縋るように訴えるも、彼は不気味な笑いを唇に刻みながら、首を横に振った。


「どうして――」


 その時、群衆の中から一人の女性が飛び出してきて、ジェイとエリアスを左右に突き飛ばすと、ものすごい勢いでアルルの木をよじ登り始めた。彼女に続き、群集たちは我先にとばかりに神の実を宿す大木を目指して、嵐の夜の荒れ狂う波の如く押し寄せてきた。

 下敷きになるまいと、なんとか群衆の足元から這い出したジェイは、アルルの木を振り返って言葉を失った。

 アルルの実を奪い合う彼らは、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言の応酬を繰り返しながら、春の丘の大木を揺らす。ある者は下の人間を文字通り踏み台にして、またある者はアルルの実を手にした者から無理矢理奪い取って。


「やめてください! 危ないですよ、やめて!」


 ジェイが悲痛な叫びを上げるも、人々は目先の欲に心を奪われ、聞く耳を持たない。

 薄闇の中で浮かび上がる、神のちからを求める人々の双眸は燦然たる輝きに満ちていた――その純粋な光の中心にあるのは、神への信仰心を上回る目前の欲望に心を奪われた愚か者の本能であった。


『どうする、ジェイ。追っ払っちまおうか』


 やさしい風が、恐怖に戦くジェイの身体を包み込む。


「どうやって?」


 ジェイは泣きそうな顔で言う。


『力づくでだ』


 やさしい風がその身に緩やかな風を纏った時、春の丘に裂帛の悲鳴が響き渡った。

弾かれたように顔を上げると、その瞬間、アルルの木の上の方から男が一人、落ちてくるところだった。

 危ない!

 ジェイが叫ぶや否や、群衆の気迫に圧倒されて身を隠していた若草三人娘がうっすらと人の形を成し、地面に激突する寸前に六本の細腕が男を受け止めた。男は何が起こったか理解できないまま、呆然と地面に尻餅をついた。

 ジェイはほっと胸を撫で下ろし、やさしい風は『ナイスだ、お前ら』と指を鳴らした。

 人一人落下する大事故だったというのに、人々は月へ向かって伸びるアルルの木へと、地獄の底から這い上がろうとする罪人の如く手を伸ばし続けていた。


「大丈夫ですか」

「は、はい……」


 すっかり頭が冷えて我に返ったらしい男が、申し訳なさそうに表情を曇らせた。

 ジェイがそうこうしている間も、神の実には絶えず人の手が伸びている。


(どうしてだ……どうして、一人の人間が大怪我を負ったかもしれない事態にみんな無関心なんだ?)


 ジェイは噎せ返る程の血の匂いを嗅いだような気持ちになると同時に、胸の中が憎悪に沸騰するのを感じた。

 それとは逆に、項には氷柱を差し込まれたように脳が冷え、思考が一気に冷静さを取り戻し、冬の夜空のようにすっきりと冴え渡る。


「やさしい風」


 迷いの無い声でその名前を呼ぶと、やさしい風は何も言わずに、ジェイを中心にして春の丘全体に大きな竜巻を起こした。

 その途端、アルルの木に登っていた人々が風に攫われて、悲鳴と共に空高く舞い上がる。

 大空の下で人間たちは同じ方向に向かって渦を巻き、経験したことの無い浮遊感に恐怖する悲鳴を地上へと降らせている。

 アルルの木から落下した男は、ジェイの足元で何が起こっているのかわからないといった表情で空を見上げている。少しはなれたところでは、エリアス青年が口をあけて空を見ていた。

 と、そこで突然、竜巻が止んだ。当然、空へ吹き飛ばされた人々は気流の支えをなくし、真っ逆さまに落ちてくる。

 竜巻に攫われたとき以上の悲鳴が夜に木霊すると、地を彩る若草が生き物のようにざわざわと動き出し、質量をぐっと増やしてクッションのように、落ちてくる人々の身体を受け止めた。

 騒然としていた春の丘に硬質な静寂が満ちる。

 人々の視線は金の髪を鬣の如く頂き、身体の周りに緩やかな風を纏った少年を捉えていた。


「ジェイさん……?」


 エリアスが呟くように言う。

 俯き気味で地面に膝をついていたジェイは、静かに立ち上がり、やさしい風がおこした竜巻が徐々に収束する中、白い細面の周りでふんわりとカールした金髪が揺れる。

 夜空と同じ紺色の瞳が重ための前髪の隙間から覗き、いつもは穏やかな垂れ目が怒りと憎悪に吊り上っている。

 その冷ややかで、研ぎ澄まされた矢のような双眸に見つめられた群集たちは、揃って薄氷を踏む思いだった。


「あなたたちは、この木に生る実を、何と言いました……?」


 ひどく低く、落ち着いた声だ。大して声を張っているわけではないのに、この場にいた全員にはっきりと彼の声が届いていた。


「あなたたちはこの木を、己の信ずる神の希望が宿る木だと、そう思っているのですよね」


 ジェイの言葉に返事をする者は一人として存在しない。それでも彼は続ける。


「生憎、僕はあなたたちの神のことを知りません。神ももちろん、僕のことを知らないからです。そして僕は今、あなたたちを見て確信しました。あなたたちは、神を信じている。けれど、信じるあまり、神への過度な期待をしすぎてしまっている。故に、神の実の本質、神の奇跡と他人に関心が向かなくなるほどに。あなたたちの信ずる神は、己の信者を見てどう思うかな。欲の水に漬かりきった、汚い泥濘のように思うかも。それほどまでに、今のあなたたちは無様だ、かっこ悪い、神は嘆くに違いない。

“私の希望を、今の人間たちに見出せない。”

きっと、あなたたちの神はそう仰る。あなたたちは人間を愛する神を失望させた」


 ジェイの口から滔々と紡がれる言葉は、人々の信仰心という名のプライドをえらく傷つけた。


「て、てめえ! この野郎!」


 一人の男が逆上してジェイに襲い掛かってくるが、こちらに向かってかけてくる両足が、ジェイを殴りかかれる距離に接近する直前、いきなり地面にずぶりと沈み込んだ。まるで大雨が降った翌日の地面のようにぬかるみ、たちまち大地は男の脚を膝下まで飲み込んでゆく。


「な、なんだ、これ……!」


 無理矢理脚を引き抜こうとする努力も虚しく、目に見えてわかる速度で地面は男の下半身を飲み込んでゆく。


「何しやがる、お前!」


 群衆の中からまた一人、ジェイめがけて突進してくる中年男がいた。そいつは手の中に折り畳みナイフを握り締めており、躊躇うことなくジェイの腹部に刃を突き出した。それを見つけても、少年は怯む様子もなく澄ました顔で佇んでいる。

 その瞬間、ジェイの髪を凪いだ一陣の風がヒュオッと鋭い音を立てて、向かってくるナイフを男の手から弾き飛ばした。

持ち主の手から離れたナイフは、群集たちの目の前で男の足元に深々と突き刺さった。もう少し右にずれていたら、男の足は地面に縫いとめられていたことだろう。

 ナイフ男は息を呑んで足を止め、額にどっと汗をかきはじめた。


「なんだ、今のは……」

「ナイフがいきなり飛んだように見えた」

「あの少年は全く動いていなかったわ」


 群衆は口々に目の前で起こった現象に驚倒の声を漏らした。

 すると突然、群集たちの声は動揺のざわめきに変わった。


「あっ、ああっ!」


 なんと地面の沈下は、他の群集たちをも巻き込み始めたのだ。

 皆、無口で懐の広い、メルク国の広大な大地へ飲み込まれてゆく……ただ一人、ジェイだけは固い地面をしっかり踏みしめて、だんだんと目線が下がってゆく人々を見下している。


「大地よ……」


 ジェイが吐息のように呟くと、大地の沈下がぴたりと止まる。が、依然として人々は大地に下半身を拘束された状態なので、身動きが取れないでいる。

群衆が大人しくなるのを待ってから、ジェイは喉を反らせ、より彼らを見下すような目付きで口を開いた。


「僕はうるさいのが嫌いだ。欲に目が眩んだ人間はもっと嫌いだ。あなたたちは僕の静寂を壊し、欲望を満たすために、この春の丘へやってきた。僕の大好きな春の丘を戦場にしようとした。神の実とやらを手に入れて何を叶えたい? 余命いくばくも無い弟を助けたい。死んだ人を生き返らせたい。そんな願いを持つ人もいるだろう。でも、ここで僕が、そういった願いを持った人たちに、このアルルの実を渡そうものなら、醜い私利私欲を持った人間たちから命を狙われてもおかしくない。僕は家が無い、財も無い。どちらも必要ない。僕はこの春の丘に住む。そしてアルルの実を守る。欲の世界に住むあなたたちから。……僕一人でじゃない。この僕、ジェイ・エイリク・リフェールに味方してくれている自然たちと共に」


 自然たち――やさしい風、若草たちをはじめとする、春の丘周辺に住む、自然界の心を持った仲間たちは、自分たちの声を聞くことができる少年、ジェイ・エイリク・リフェールの味方だ。


「今からこのアルルの実は、いかなる理由があろうとも、誰一人として口にすることを許さない。アルルの実は人を争いの中へ放り込む。大切なこの春の丘で争いなんてさせない。無理矢理アルルの実を奪おうものなら、次は容赦なく、文字通り、この大地に沈める。全身をだ。土に還れということだぞ」


 やさしい風がジェイの隣で声を高らかに笑う。すると、何処からか春の丘に吹き込んできた風たちが、先程のとは比べものにならないほど大きな竜巻を生み出した。人間たちには見えないが、それは、やさしい風の呼びかけに応えた他の土地に住まう風たちが、ものすごい勢いで春の丘に滑り込んできて、手に手を取り合って春の丘全体に風の渦を作ったからだ。

 愚かな国の人々は吹き荒れる強風に、息をするのも困難になる。


「大地、みんなを解放してくれ」


 ジェイが風鳴りに紛れてそう叫ぶと、人々の身体は大地の力強い拘束から解き放たれ、服を泥塗れにさせたまま、今度は再び竜巻の中へ閉じ込められた。


『お前ら全員、おれたちが家に送り届けてやるぜ!』


 やさしい風は自分の声が聞こえない人間たちに叩きつけるように言うと、サーデルバの風たちと一緒に神の信者たちを空へ巻き上げ、春の丘から町の上空へと、一人残らず吹き飛ばしてしまった。

 メルク国の夜空を大勢の人間が舞い、やさしい風たちとバトンタッチした町に吹く風が、人々を大きな腕で受け止め、一人ひとりを家の前まで送り届けて行った。

 あっという間に春の丘に静寂の波紋が落ちる。

 やれやれ、と一仕事を終えたやさしい風がぽんぽんと手をはたく気配がし、サーデルバの風たちが山脈の方に向かって帰ってゆく。

 やさしい風が、


『わざわざありがとな』


 と帰ってゆく風たちに手を振っている。

 ジェイは町を見下ろしながら大きくため息をつくと、うーんと伸びをして、


「寝ようか」

 と言った。

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