第12話 神のちからを有した実のはなしⅣ
秋の夕日がサーデルバ山脈の裏側へ帰り支度を始めた頃、春の丘ではジェイが鼻歌を歌いながら、白い野良猫が昼寝をしているのを眺めていた。
丸くなってすやすやと寝息を立てるすぐ傍で、額を撫でたり、呼吸に上下する背中を撫でたりしていると、大地の上でうつ伏せになって目を閉じているやさしい風が、
『ちょっかい出してると、そのうち引っかかれるぜ』と注意する。
「やー、猫は何時間愛でてても飽きないね。可愛いなぁ」
ここへ猫がやってくることは何度かあったが、こんなに傍へ寄っても逃げられないのは初めてだった。人馴れしているのか、しつこいくらいに撫で続けても、背中に顔を埋めても、寝息は規則正しく繰り返され、されるがままだ。
このまま自分も眠ってしまおうか……と瞼を閉じた次の瞬間、丘に続く道から人の話し声が聞こえた気がして、ぱっと起き上がる。
声は次第に大きくなり、どんなに撫で回しても目を覚まさなかった猫も不機嫌そうに目をしばたたき始めた。
「あれっ」
緩やかな坂道を登ってくる三人の青年の中央にいる子には見覚えがあった。数日前にアルルの実を譲ってくれ、とやってきた神学校に通う青年じゃないか。
三人はジェイの傍までやってくると、揃って目礼した。
「こんにちは」
青年――たしか、エリアスといったか――は、はきはきと挨拶をすると、両隣の青年を、「学友のルルーとアンスです」と紹介した。
ジェイから見て左側がルルー、右側がアンスだ。
「はじめまして。ルルー・ビスケールです」
ルルー・ビスケールと名乗った彼は、夜のような艶やかな黒髪を背中に垂らし、見上げるほどの痩躯をかっちりとした制服に包んだ、たおやかな印象の青年だった。細く狐を描いた目元や、色の薄い唇の微笑みは、彼の性格の穏やかさを表しているようであり、実年齢よりも大人っぽく見えた。
次に、もう一人の青年が、低く力強い声で、
「アンス・ウェストです」と名乗る。ルルーやエリアスと並ぶと、このアンスという青年はがっしりとした体格が目立った。身長はルルーより低めだが、頑丈そうな骨格がジェイを圧倒するようだった。
二人と順番に握手を交わしながら、
「ジェイ・エイリク・リフェールです」と、急な来客に状況を飲み込めないまま対応する。
「ジェイさん、今日は少し、お話がありまして」
エリアスが興奮気味に話を切り出すと、彼は背負った革のバッグから一冊の重そうな本を取り出した。
「それは何ですか?」
「聖書です。お読みになったことはありませんか」
「はい、生憎……」
ジェイが申し訳なさそうに言うと、エリアスは聖書の中の一番有名な一説について説明してくれた。
「神の実というのをご存知で?」
「いいえ」
エリアスは聖書を開き、モノクロの挿絵が入った頁を見せてきた。
「これが神の実です。そしてこの間、あなたから頂いた――アルルの実でしたっけ?――似ていると思いませんか?」
ジェイは彼が指差す絵をじっと覗き込んだ。胡桃のような殻に覆われた、胡桃よりも少しだけ大きな木の実。
「似ていますね……」
「でしょう? 僕は課題の研究対象として神の実と、それに似たアルルの実をテーマに論文を書きました」
「神の実というのは?」
「神の実は、食べた人間の望みを叶えてくれるのです」
エリアスは初対面のときよりもはっきりと言葉を羅列した。神の実がどんなものなのか、由来は何なのか等、仔細に渡って説明する。その熱さに少々圧倒されつつも、
「へえ」とだけ頷き、ジェイは再び聖書の中の絵に視線を落とした。
「実はですね」
と、急にエリアスの声に影がかかった。無意識のうちに、ジェイはごくりと唾を飲み込むと、上目遣いにエリアスの顔を窺った。
そして、彼の口から出てきた突拍子も無い言葉に思わず目を見開く。
「アルルの実は、神の実だったのです」
エリアスは今日の朝、自分のこの目で見、この身体で体験した奇跡をこれまた仔細に渡って説明した。
その内容は神を知らないジェイには、いまいち理解に苦しむものであったのだが、話をしている最中、両端のルルーとアンスは羨ましそうに頷いたり、指を組んだりしていた。
ジェイは意味も無く咳払いをすると、
「それで、今回の用件は」
夕陽は既に沈みつつあった。東の空はじんわりと藍色がかっていて、西の空へ向かうに連れて夜と昼の淡いグラデーションが、移り行く世界の変化を描いているようであった。
世界はもうじき、夜のものとなる。
悪い神が闇に乗じて、信心深い青少年たちを
ジェイは暗くなる前に話を切り上げて彼らを送り返さねばと思い、自ら本題に切り込んでいった。すると、エリアス青年は一層、瞳の輝きを増幅させて、身を乗り出した。
「もう一度、アルルの実を譲ってください」
☆
エリアス、ルルー、アンスの三人が尋ねてきた日から二日が経った。
ジェイが何をするでもなく、草の上に寝そべりながら昼下がりの日差しの下でうつらうつらしていると、
『ジェイ、おれはな、自分のカンというものは一切信じていないんだ。悲しいほどに全く当たらないからな』
と、なんの脈絡も無くやさしい風が言った。この発言の意図を汲み取れないままジェイは、
「……そうなんだ」
『でも、今回ばかりは信じたくなるような何かがある。珍しくおれのカンが冴えているような気がするんだよ』
「どうしたの、急にそんなこと言って」
『あんまり良くないことが起こりそうだ』
「ええ? なんだい、それ。不吉なこと言わないでよ」
『ジョーダンでそんなこと言うかよ。怖いから言ってんだぜ』
無為怠惰な日々を過ごすことに余念が無いジェイの暮らしに、良くないこと起こる。一体、なぜ彼がこんなことを言い出したのかはわからないが、やさしい風の言葉をこのときのジェイは少しも信じようとはせず、気にも留めていなかった。
それから数刻後、ジェイは心の中でやさしい風に謝罪することになるのだが。
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