第11話 神のちからを有した実のはなしⅢ

 悪夢の中で、自分は何を願ったのか全く覚えていなかった。

 神のふりをした悪魔に精神を人質に取られた中で「願え」と命じられ、必死に何かを念じたのは覚えているが、内容がいかなるものだったかが定かではない。あんなに強く願ったのに、頭に残っているのは鮮烈な恐怖のみだった。忘れられない悪夢。フラッシュバックする悪魔の姿に怖気が寄り添ってくるのを感じずにはいられない。


 悪夢の夜から三日目の夜を迎えると、出された課題は殆ど片付き、残るは見直しと製本作業のみとなった。今夜中に終わらせられれば、翌日は完成したものを提出できるだろう。

 課題がひと段落したのでエリアスが、散らかった机の上を片付けていると、隅っこに所在無げに転がるアルルの実が目に付いた。

 一旦手を休めて、いろんなメモが挟んである聖書を自分の傍まで手繰り寄せ、はじめの方の頁を開くと右上にモノクロのイラストが載っていた。胡桃のような殻と、その中に入っている乳白色のかくのイラストが二種類、小さくだが載っている。そのイラストに描かれたものは、彼の手元にあるアルルの実と瓜二つであった。

 エリアスはアルルの実を手にとって、指先でくるくると回しながら全体像を観察した。

 見た目は胡桃そっくりだが、大きさはアルルの実の方が大きい。

 やはりこれは、神の実なのだろうか……という希望に胸が歓喜する一方で、あの夜に見たおぞましい悪夢が蘇ってくる。


 エリアスはぶるぶるとかぶりを振って不吉な気配を振り払うと、聖書を閉じ、卓上のランプとアルルの実を持って自室を出た。彼の足はまっすぐに台所へと向かう。


 流し台には、エリアスが自室に行く前に水を飲んだときに使ったコップがぽつんと置いてあった。

 ランプを流し台の横に置いて、棚の中から胡桃割りを取り出す。エリアスの家にあるのは万力のような形をした、先端に胡桃を挟みこんで、梃子の原理で殻を割るタイプのものである。

エリアス青年は先端にアルルの実を挟み込むと、中のかくまで潰してしまわないように気をつけながら、取っ手を握る手に少しずつ力を込めてゆく。

 息を止めて殻の割れる音だけに耳を集中させていると、僅かに音を立てて殻の表面に一本の亀裂が走った。

 すかさずエリアスが亀裂の隙間に爪を入れれば、殻はぱきっと小気味いい音を立てて二つに割れた。


(あっ)


 飛び出そうになった声をすんでのところで呑み込み、調理台に転がった丸いかくに素早く飛びつく。

 直径五センチほどの殻の中から出てきたかくは、外見よりも少し小ぶりであった。

 その瞬間エリアスは、背筋がぞくりと粟立つのを感じた。


(嘘でしょう……? 中身までそっくりだなんて……)


何も考えられなくなった。頭の中が空っぽになって、束の間、意識が飛んでしまったみたいに自分の時間が停止する。かと思えば眉間のあたりにガチャガチャと騒がしい音と、目がチカチカするような原色の映像が一気に駆け巡った。

断末魔にも似た金属同士の擦れ合う音や、めちゃくちゃにピアノの鍵盤を叩く音、他にもいろんな楽器が乱暴に奏でられるような雑音が多く入り混じり、スポットライトに水で薄めたペンキでもぶちまけたような、色の付いた幻覚が精神こころの中の視界を喧しく染め上げた。


 気持ちが先走っていたせいか、我に返るや否や、台所の片付けも忘れてそそくさと部屋に引き返す。

 自室に戻ると、危ない幻覚は理性の片隅へと追いやられていき、静寂の彼方でエリアス青年の冷静な心を囃し立て続けた。

はやる気持ちを抑えて机に着くと、ランプの明かりをこれでもかと言うほど近づけ、聖書の頁を捲った。


 体の内側から胸をドンドンと叩かれる。

 全身が冷える感覚があるのに、額や首筋からは汗が滲んだ。

 気を紛らわせようと、口の中で流行の歌を口ずさんでみるが、気持ちは急くばかりである。


 と、そこでエリアスの手がピタリと止まる。

 モノクロの挿絵の頁だ。

 エリアスは手の中の実を挿絵の傍に近づけて、思わず息を呑んだ。


「似ている……」


 無意識下で呟いた彼の瞳が、うっとりと酔いしれた色に染まる。

乳白色のしっとりと丸いかく。挿絵と全く同じだ!


春の丘のアルルの実……一体それは何なのだ?

図鑑を引けば正式名称がわかるのか? 詳細がわかるのか? 神の実でないと証明できるのだろうか?


神は人間に絶望して、二度と地上に神の木を下さなくなった。人間の住む世界に神の実が存在しないのは、神が人間に絶望したからだ。


(あるわけない。この世に、神の実など……)


このエピソードには続きがある。


神は人間に失望した。

人間を見捨てた。

しかし、神の心の中にある《人間を愛する気持ち》は消えない。

親が子どもを、如何なる時も想うのと同じで、神もまた多くの人間たちの父親であるからだ。

神は人間を理解していなかったのだ。人間が争いを起こす原因を理解していなかった。

神は自分を責めた。我が子らを理解していれば、このような形で人間に希望を絶たれることはなかったのだから。

神は人間に失望しながら、自身をも軽蔑した。

そこで神は誓った。

永い刻の中で、私が希望を抱ける人間を見つけてゆこう。そして、その人間にだけ、私は私の心を分け与えることにしよう。

神の実が再び地上に下される時、それはすなわち、神が人間に再び希望を抱いた時である。



神の実が再び地上に下されたというのか。

エリアスは指先にじっとりと汗が滲むのを感じた。

これが本当に神の実だというのなら、自分は今、第二の神の時代の幕開けを目の当たりにしているということだ。

そう考えると、指先と言わず全身から汗が吹き出してきた。


(神の実はアーモンドの味がするといわれているが、この実も同じ味がするのだろうか……)


 エリアスは自分の舌で確かめてみたくなった。

 神話の時代が終焉を迎えてから、地上界でこの神の実を食す初めての人間になりたかった。


眉間のあたりから再び喧騒が蘇ってくる。鼓膜を直に奏でられているみたいに、網膜に焼き付いて離れなくなるくらいに、ガチャガチャした原色の幻はエリアスの世界を余す所なく支配した。


 青年は実を摘んだ指を口元に運んだ。

 そして、願った。


 神の実よ。

 我が望みを聞き届け給え。

 我が望みは唯一つ。神よ、あなたの起こす奇跡をこの目で見たい!


 エリアス・ドリアンは心の中で強くそう念じ、アルルの実を一口齧った。


        ☆


 翌日、いつもより早く目覚めたエリアスは一足早く登校し、付属図書館で次の課題のテーマ探しでもしようと考えた。


「いってきます」


 母の見送りを受けて家を出たエリアスは、玄関先で早朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。夏を終えたメルク国は、一ヶ月前まで滞在していたうだるような暑さの片鱗も遺さずに、山々を彩る紅葉に秋の訪れを感じていた。


 ……昨夜、あの後、エリアス青年は実の効果を確かめるべく一刻程、その時が来るのをじっと待ってみたが、夜は更けてゆくばかりで、いつの間にか机に突っ伏して寝てしまっていた。


(やはりあれは、ただの木の実だったのさ)


 早朝の太陽が放つ日差しは、白く煌いている。

 大学の門を潜ると、正面に向かって伸びる銀杏並木が黄色い葉をひらひらと散らせていた。


 図書館は、一番大きな四号館の前を通過し、正面に聖堂のある突き当たりを左に曲がってすぐのところにある。


 図書館へ向かう道すがら、すれ違う者は一人としておらず、神聖な校内をたった一人で歩く己の姿を想像し、胸がすうっとするのを感じた。とても晴れやかな気分で、耳をすませば聞こえてくる自然界の奏ではどんな音楽よりも安らかな気持ちにさせてくれる。

独りでいることを悲観視しない彼は、広大な地にたった独り残されても同じことを思うだろう。


 後に思い返せば、このときの自分はとても浮かれていたと思う。

 どうしてこんなにも心がすっきりとしているのか……異常なほどに何かに期待し、頭が休まらないといった風だった。

昨夜見た原色の幻が薄い膜になって眼球にへばりついているようであったが、エリアスは気づかないまま、踝の周りに冷たい木枯らしを従えて図書館を目指した。


 そんな彼の心境に呼応するかのように、突如、背後から黄色い光の波がエリアスを襲った。

 何が起こったのかと振り返ると、目を焼かれそうなほどの強力な光に眼球を刺され、咄嗟に瞼を閉じた。光から顔を守るように両腕を顔の前でクロスしても、押し寄せる大量の光は腕の隙間を縫ってエリアスの目に淡く届いた。


(な、なに?……隕石でも落ちてくるの?)


 しばらくそうしていると徐々に光は弱まり、ゆっくりと目を開けられるまでになった。

隕石が地上に落下した衝撃などあるはずもなく、辺りは晴れたばかりの朝靄の香りと、小鳥の羽ばたく音がはっきりと五感で感じ取れた。


 光の波が引いた方に恐る恐る視線を向けた途端、エリアスは眼球が零れ落ちんばかりに目を見開いた。

 はっと息を呑んだと同時に、開いた口が塞がらなくなる。

時の流れを忘れる瞬間というものは、こうも突然やってくるのだろう。エリアスは、己の内側から時間という概念が欠落し、全世界共通の時の流れというレールから弾き出されたような気がした。

 喉の奥から出てくるのは吐息ばかりで、何の言葉も成さないまま消えてゆく。

 胸に抱えていたバッグが音を立てて地面に落ちても、全く気付かないままエリアスは立ち尽くしていた。


「神――?」


 震えた声帯がようやくその二音を紡いだ。

 月光の如き光を放ち、白金の髪に星屑を散りばめた若き神。五歩歩けば手が届く距離にいる。エリアスの目の前にいる。信ずる神が、心の底から敬愛する神が、自分だけを見つめている……。

 エリアスは地に両膝を付いて、右手を下にして両手をクロスし、掌を下にしてそれを胸に押し当てた。

 深く頭を垂れると、神の足元から放たれる神々しい光がふんわりとエリアスの瞼を照らす。


ああ、今まで生きてきて、こんなにも幸せを感じる瞬間があっただろうか。

神が僕を導きに来てくださったのか……!


 その時、はっと思い出す。

 舌の上に蘇るアーモンドのような味。香ばしく、少し苦味が目立つ穀物のような食感。そして自分がその味に願った望み――エリアスは、その瞬間、悟った。

 あの実は――春の丘にあるあの大木に生る実は、間違いなく神の実だ。

 あの大木には、人間への神の希望が宿っているんだ……!


「エリアス」


 感動で言葉を失っていると、エリアスの目の前で神はふんわりと微笑み、甘く高貴な声で青年の名を囁いた。

 エリアスは己の耳を疑い、はっと顔を上げる。美しい神と視線が絡み合う。濃い睫毛に縁取られたアーモンド型の中にはエメラルド色の瞳が埋め込まれている。この方の顔の、どこを切り取っても芸術作品になる造形美を間近で見ていると、幸福感で目がおかしくなってしまいそうだった。


「はい……」


 短い返事は、渇いた声で掠れていた。神はよく見ないとわからない程小さく頷き、


「君は私の希望の子だ、エリアス・ドリアン。私の可愛い、希望の光」


 その言葉はエリアスの胸を強く打ちつけた。目頭がかっと熱くなり、鼓動が歓喜に震える。瞳は涙を流しながら、口元は隠し仰せようのない喜びに綻び、祈りの形をとった両手はきつく服を握りしめた。

 この上ない感動をしっかりと噛み締めながら、潸然と涙を流すエリアスは、神を見上げて言葉では言い表せぬ感情の嵐を瞳で語った。その熱い眼差しを受けて神はもう一度頷くと、周辺の大気を陽炎のように揺らして、溶けるように消えてしまった。


「あ……」


 思わず手を伸ばしたエリアスの指先に、豪奢な髪から滑り落ちた星屑がかちん、と触れる。星屑は地面に落ちる前に、消えた神の後を追う様に消滅しまった。

 この場所にはエリアスだけが取り残された。


 どれくらい時間が経ったのだろう。他の学生たちが次々と投稿してくる頃になっても、エリアス青年は手を伸ばした姿勢のまま、彫刻のようにその場所から動くことができなかった。

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