第10話 神のちからを有した実のはなしⅡ

 ここはエリアス青年の夢の中である。

 彼は、見覚えの無い荒野の真ん中に立ち尽くしていた。周囲は茶色の大地と、枯れ木が数本、風に煽られているだけで、その他は遠くへ見える地平線が遠巻きに青年を取り囲んでいるだけだった。

 深海のように深い青色をした空には満点の星々が瞬き、神々の時代からそこに生き続ける小さな光たちは、たった独り、大地に佇む青年の姿を静かに見下ろしている。


 ――どこだろう、ここは。


 エリアスは辺りを見渡すようにその場で一回転した。ぐる、と似たような景色が横長に伸びたかと思うと、そこに突然、変わり映えのしない景色を背景にして、驚くべき“人物”が現れた。


 その人物は全身から月色の輝きを放ち、荘厳な滝を思わせる白金の髪に、七色に煌く星屑を散りばめた神々しい姿で優雅に佇んでいた。白く、彫刻のような芸術性を有した美しいかんばせ、額を飾る金の冠、痩躯を包み込む真っ白いローブ――その姿は、彼がいつも大学の聖堂で目にするあの方だった。


「ああ……そんな……あ、あ、なんと……」


 喉が震えてまともに言葉が紡げなくなる。

 声帯がひくひくと痙攣し、上手く息ができなくなると、その方はエリアスに向かって安心させるように、春の装いを思わせる微笑を浮かべた。

 青年はまるで、一枚の絵画の登場人物になっている気持ちになった。まさか自分の眼前に、なんの隔ても無く“神”が存在しているなど、どんな人物でも理解するのに時間を要するはずだ。

 だが額縁を纏わない神は、しっかりと息をし、瞬きをし、豪奢な白金の髪を風に揺らしている。神は生きている。自分しかいないこの世界に、生きている。


 エリアスはゆっくりと地面に両膝をつき、右手を下にして掌をクロスし、それを自分の胸に押し当てた。

 彼らの信仰する神への祈りの姿勢だ。彼らはこのようにして、神を称える。どちらの掌を下にするかは、その人間の利き手によって代わり、右利きの人間は右手が下に、左利きの人間は左手が下になる。


 エリアスは涙がこみ上げてくるのを堪えきれず、神を見上げながら、感動に顔を歪めた。

 とめどなく溢れ、頬を滑り落ちてゆく涙。

 嗚咽が全身を震わせ、まるで小さな子どもに戻ったように泣きじゃくる姿を、神は大輪の如き微笑みを彫りの深い造形に刻み、見守っている。

 全身に幸福が満ちた。

 荒廃した大地に、瑞々しい植物の子どもが芽生え、滔々と泉が湧き、生きた自然界の香りが蘇る。そんな錯覚を、エリアスは感じた。

 すると神は、この世のものとは思えないほどに甘く、気品に満ちた声でエリアスに語りかけた。


「“神の実”を食べれば、君は人々に認められる。“神の実”に希望を乗せて、君の努力は完成する」


「……え」


 エリアスはぽかんと口を開けたまま、神の言葉の意味を脳の隅々まで巡らせた。


「“神の実”……?」


 戦慄わななく喉にぐっと力を入れてそう呟くと、神は優雅な所作で片手を持ち上げた。

大きくて華奢な掌には、春の丘に住む少年から譲ってもらった“アルルの実”が。


「それは、春の丘の――」


 言葉に嗚咽が混ざる。

 神はゆっくりと頷いた。

 青年はひくっと息を呑み込み、からからに渇いた声で訊ねた。


「それは……神の実なのでございますか……?」


 その時、はっと息を呑むようにして目を覚ましたエリアスは、渇いた荒野の大地に見た神の姿を自室の天井に探していた。

 いくら目を凝らしても、そこにあるのは見慣れた白い天井で、神々しさの欠片も見当たらない。

 エリアスは半身を起こし、はあ、と息をついた。

 ふと、カーテンが引かれた窓を見て、今まで自分が夢を見ていたのだと悟る。

いつの間に夜が明けたのだろう。外は、雲ひとつない快晴の空が広がっているのだと想像できるほどに明るかった。

 エリアスは寝台から抜け出し、カーテンを左右にゆっくりと開いた。

 その時――


「ああっ」


 悲鳴を上げたエリアスは、仰け反った拍子に踏鞴を踏んで、床に尻餅をついた。

 カーテンを開けるまでは明るかったはずの外は、再び宵闇の中に閉じ込められている。そして彼の目の前――窓枠の外には、夜の帳の開け切らぬ藍色の空を背にした――あれは、神か――神々しい光を撒き散らす神が、神とは思えぬ形相でエリアスに掴みかかってきた。

 ひどくつり上がった目は、何人も人を殺してきた極悪人のように凶悪で、目の淵はくっきりと赤い隈取が施されているかのように上気している。

 耳まで避けた唇がべろんと捲れ上がり、ぎざぎざした乱杭歯でエリアスの頬に噛み付こうと近付いてくる。

 白金の髪を振り乱し、窓枠を乗り越えて獣のような力で青年を床に押し倒した神は、いつの間にか手にしたアルルの実を片手で砕き割ると、殻ごとその欠片を、エリアスの口の中へ押し込んだ。


「うぐ、ぐ……!」


 冷たい指先が口内を荒らしまわり、苦しみに歪んだ目に涙が滲む。

 嫌だ、嫌だと左右に暴れる首を、嫋やかな腕からは想像できないほどに強靭な力で締め上げられながら、エリアスは口の中に入ってくる指を思い切り噛み締めた。

 肉を食い破るほど強く噛んでも、神は表情一つ変えない。


「神の実を食べろ!」


 先刻のあの気品のある声とは打って変わった濁り声が強く言い放つ。


「食べろ! 飲み込め! そして願いを念じろ! 言った通りにしないと喰い殺す!」


 食え、飲み込め、願え。神――否、こいつはもう神とは呼べない――奴はその三つを青年の心臓に刻み付けるように言う。

 精神的に追い詰められたエリアスは、粉々になった実を、殻と一緒に咀嚼する。恐怖でがちがちと歯の根が合わず、思うように噛み砕けない。

 目の前の悪魔は、神に仕える青年の心に簡単に忍び込み、敬虔な祈りを乱暴に蹴散らして、文字通り心臓ごと掌握し逃げ道を封じる。

硬い殻が舌や上顎に刺さって血が出ても、目の前の恐怖が痛みを凌駕し、エリアスの歯はアルルの実を噛み砕き続ける。


「願え、願え!」


 奴が首を掴む手から力を抜くと、エリアスは恐怖と一緒に口の中の物を飲み下した。

 狂ったように戦慄く息と、歯ががたがた鳴る音がやけに大きく響く。

 氷のように冷たい手が、エリアスの口を無理矢理開かせて、きちんと飲み込んだかを確認すると、奴は乱杭歯を剥き出しにして鴉のような声で、ぎゃあぎゃあと嗤った。それが起爆剤となったのか、腹の底に押さえ込んだ恐怖が一気に爆発し、エリアスは正気をかなぐり捨てて裂帛れっぱくの悲鳴を響かせた。



 自分の悲鳴で目を覚ましたエリアスは、自分が寝台の中でしっかりと布団をかぶっているのを見つけた。

 全身にはおびただしい量の汗をかいており、寝巻きがぐっしょりと濡れている。

 首筋から鎖骨へと汗が滑り落ちてゆく。

 胸は狂ったような速度で上下し、喉がひどくからからだった。

 エリアスは布団を剥いで起き上がった。汗が冷えて、全身に鳥肌が立つ。

 胸や背中をつう、つう、と汗が滴り落ちる。

 布越しの窓の外はまだ暗い。

 暗闇に目を凝らすと、時計は布団に入ってから半刻しか経っていなかった。


 エリアスは額の汗を掌で拭って「ふふっ」と笑った。

 頭の中にフラッシュバックする悪夢の映像。うつつに戻ってきた青年は、幻の恐怖が記憶の彼方へ遠ざかってゆくのを感じながら、深くため息をついた。目が覚めてしまえばあんなにも恐ろしかった悪夢も、舞台上の演技を観ていたような気分で、恐怖が薄れてゆく。


「ぼくは、なんという夢を見てしまったんだ。あんな……夢」


 彼は寝巻きのトゥニカを脱ぎ、トランク型の衣装ケースから洗ったばかりの着替えとタオルを引っ張り出すと、汗をささっと拭いてから着替えた。

 洗濯籠まで持っていくのを不精し、汗にまみれた布を寝台の下に放り出すと、再び床について、


「夢だ。ただの夢。よくある悪夢さ」と自分に言い聞かせて目を閉じた。

 口の中で微かに鉄の味がしたような気がしたけれど、これも「夢のせい」と納得させて眠りについた。




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